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 遥は混乱する。全身の血の気が引いていく。吐き気がする。頭がくらくらする。めまいがする。

 照子の顔はその上半分が長い前髪によって埋まっている。目は見えない。でも口元は確かに笑っている。大きく左右に開いて笑顔の形を作っている。そこには半月の形をした赤い空間が広がっている。その空間の中に、真っ赤な照子の舌が見える。……気持ち悪い。すごく、怖い。(……ずっと見たかった顔なのに、なんでこんなに気持ち悪いの? なんでこんなに恐ろしいの?)

 照子はその白い手をなにもない空中に伸ばした。小さな手。震える手。その手はそのまま地面の上に落下して、ぽん、と床の上を叩いた。とても弱い力。それでもしっかりと照子は自分の意思で動いている。

 照子は何回かその動作を繰り返したあとで、照子は床の上を叩く行為をやめる。

 遥は固まった体をちょっとずつ(自分のお尻を床の上に引きずるようにして)後ろにずらして後退する。それは半分無意識の肉体の本能的な行動だった。こんな気持ち悪いものの近くに、一秒だっていることなんてできない。ちょっとでも離れたい。距離を取りたい。……だけど体が震えてうまく私の言うことを聞いてくれない。それでも遥は必死で体を動かそうとする。遥の視界が、その動きの中で一瞬だけ照子の姿を見失う。

 すると部屋の隅っこでずるり、と粘着質な性質を持つなめくじのような生物か、なにかが、壁を滑り落ちるような気持ちの悪い音がする。それは照子が体を動かした音だった。照子は床の上に倒れ込んで、その上を粘着質の生物が植物の葉の上を這うような動きで、ゆっくりと、遥のほうに近寄ってくる。その度にずるり、ずるり、という気持ちの悪い音がする。まるで内臓でも引きずっているような音。

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