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 それから夏はもう一度、ガラスの向こう側にいる照子の姿を見る。……木戸照子。私から遥を奪っていった真っ白な女の子。人類から木戸遥という至宝を奪っていった怪物、化け物。人の形をした、人ではないもの。天使のような外見をした、本物の悪魔。

「ちょっと待ってね。少しだけ、準備が必要なの。面倒だよね。こんなに近くにいるのに、会いたいと思ったときに、すぐに会えない」遥は夏の言葉を待つこともなく行動を開始する。

 遥はとても早い速度でキーボードを操作し始める。信じられないくらいに入力速度が早い。遥の意識はその作業のみに集中される。

 一人になった夏は姿勢良く立ったまま、腕組みをして、その場で数秒間、目を閉じて、ゆっくりと呼吸をして、気持ちを落ち着かせて、自分の精神の波長を整えた。

 しばらく待っていると、暗闇の中で空気の抜けるような小さな音がした。夏はそっと目を開ける。薄暗かった部屋の天井に照明が灯って、ぱっと明るくなった。そのせいで、ガラスの向こう側とこちら側で光の強弱の差がなくなった。

「終わったよ」と遥が言った。

「もう大丈夫なの?」夏は言う。

「うん。ついてきて」そう言って遥は無邪気に笑った。


 遥は席を立つと、楽しそうに急ぎ足で部屋の一番奥に移動する。夏も遥の後ろについて移動する。そこにはガラスの壁の向こう側に移動するためのガラスのドアが設置されている。しかし遥がそのドアの前にたってもドアは勝手に開いたりはしなかった。どうやらこのガラスのドアは他の研究所のドアと違っていて自動では開くことがないようだ。

 それはなぜだろう? 照子が勝手に出歩いたりしないためだろうか? (照子は自分一人で歩けないけど、一応、念のためとか?)

 しかし実際には照子は昨日の真夜中の時間に、一人で勝手に部屋を抜け出して出歩いていた。遥はその事実を知らないが、夏はそのことを知っていた。だからとても不思議に思った。照子は昨日の夜、どんな方法を使ってこのガラスのドアを開けたのだろう? 出歩き防止は勘違いで、反対側からなら開くのだろうか? それとも、もしかして壁抜けでもしたのだろうか? それじゃあまるで幽霊だ。……幽霊? なるほど。ありえそうな話だ。

 ガラスのドアには小さな四角いカードのようなパネルが設置されていた。

 遥が指を小さなパネルに押し付けると、そのドアは自動で開いて道を開けた。なるほど。そうやって開けるのか、と夏は思った。つまりこのドアを開けるには遥の指、もしくは指紋が必要だということだ。

「このドアは自動では絶対に開かないの。私の指が必要なの。だから勝手に照子に会いに行こうとしても無駄だよ」

 後ろを振り返って、遥は笑顔のまま、わざわざそんなことを夏に言った。

 それは警告だろうか? それともただの遊び心。かくれんぼのようなものだろうか?

 遥はガラスの壁の向こう側に移動する。

「夏」それから遥は夏の名前をガラスの壁の向こう側から呼んだ。

「うん」夏は言う。

 せっかく気持ちを落ち着かせたのに、夏の心臓は再びどきどきとその鼓動を強めていた。夏はガラスの壁の向こう側に移動する。その瞬間、もう二度と向こう側に出られなくなるじゃないかというような不安が夏の心を支配した。夏の後ろでドアが自動でしまった。こちら側のドアにも小さなパネルが設置されている。やはりこちら側からもドアは勝手に開いたりはしないようだった。


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