1-5
かくして、少年の拘束から十日ほどが経過した。
拘束によって肉体の自由がない状態の少年は、現在腕部にうたれた注射からの点滴によって栄養を摂取している。
その点滴を担当しているのが、ピンカム財団からの奨学金によって学生ながら【サイラス】衛生科の特別看護師として所属している十八歳の少女、唯・エルンストだった。
唯は若い少年たちが入れられている独房を一日に二度交代制で訪れ、独房での点滴の交換後、血圧や体温などから健康状態を確認し、別室で記録作業を行う、という業務を特別研究員として行っていた。彼女が新しく担当する人物に、ケイイチとGOW戦を繰り広げた少年がいたというわけだ。
ケイイチの方が【アーロン】を使用してEoEの各地で掃討作戦を行っているので、いつしか唯はケイイチよりも、この少年の方と過ごす時間が多くなっていた。
そしてその日も唯は、いつも通りに点滴の交換を行っていた。
彼の凶悪な視線を最初に見たときの恐怖が、彼女の中で完全になくなったわけではない。
しかし唯は、内なる恐怖心をなんとか抑え込み、地球と分かたれてしまったこの世界に生きるその少年に隣接して点滴を与える作業をなんとか続けていた。
モントレー戦争終結時まだ四歳だった彼女にとって、戦争の凄惨な記憶は残っていない。しかし幼少時から連日テレビやインターネット番組で報道される敗戦後のEoEに生きる人々の貧困と目の当たりにした彼女は、いつしか平和で安全な日本国での生活に違和感を感じ始めていた。
なぜ不幸な人間が存在するのかということではなく、これだけ不幸な人間がいるのになぜ自分は平和で安全な暮らしをしているのか、と。
生来感受性の強いタイプであった彼女は、地球とEoEに、明言はされないものの確実に存在する隔壁の存在に疑問を持たずにはいられなかった。
小学校高学年になるころには、国内の安全な揺りかごから離れて、遠く離れた異世界の現実を見据えることを決断していた。
それは平和な世界の少年少女にはつきものの、世界の歪みにメスを入れる英雄的行動へのあこがれといえるかもしれない。通常そのような憧れは、平和な世界への慣れと無力さの自覚によって失われていくものだ。しかし不思議と、唯の異世界へ向かう意思は、年を重ねても消えることはなかった。EoEの二度の戦争を引き起こした歪みを、自分なりの方法で見据えるという彼女の意思はむしろ幼さから離れるごとに大きくなっていった。
結果彼女は飛び級で高校、大学を卒業するほどの知能を駆使し、とある財団からの援助で地球とは異なる新天地に足を進めることになったのである。
炭素繊維製のひもによって体を幾重にも縛られ、直立状態のまま見動きのとれない少年に近づくと、露出している数少ない部位である右腕関節部に刺された針に連なる輸液スタンドを確認する。
無事に新しいパック内の液体をルート内に送り込むことができ、唯が胸をなでおろしつつ、空の輸液パックを手に取り引き返そうとする。
その瞬間、その声は病室に響いた。
「姉ちゃん」
空の輸液パックが落ちる音が、無音の独房内にむなしく響いた。
まず唯は、それが声だと気づかなかった。
激しく動揺する唯の様に、少し口角を上げたような顔をしながら、少年は声を出した。その眼には、少し前までケイイチや自分に向けていたような、触れるだけで人を殺すような眼光は見られなかった。
「……みず」
そのあまりにも簡易な単語の意味すらつかめず、唯はただただその場に立ち尽くしていた。
「……余計なことしねぇから、頼む。水」
マスク越しに聞こえるしわ涸れた声と、その意味するところに気づき、唯はなんとか体の震えを解いた。十日の間自分や【サイラス】の兵士たちに向けていた凶悪な視線が、単なる強がりだったとしたら、これまで自分が感じていた警戒心は杞憂だった可能性がある。だが護衛の男性兵士が、物申すような表情をこちらに向けてきた。少年とはいえテロリストの頼みに安易に応じない方がいい、というメッセージが、言葉を交えずとも伝わってきた。そしてこの兵士のような第三者がこの場で見ている以上、少年と自分だけで済む問題にはならないかもしれない。
その時。
「いいじゃないの、飲ませてあげなさい」
男の声ではない、しかし唯のようなあどけなさのみられない声が、独房に響いた。
唯が振り向くと、結われた金髪に黒縁メガネを付けた、大人びた雰囲気の女性が、口角を釣り上げながら白衣に包まれた体を壁に寄り添わせてこちらを眺めていた。
「セアリーさん……」
目の前の女性は、ピンカム財団が彼女に資金援助を提供するきっかけを与えてくれた、衛生科における彼女の直属の上司・セアリー・シャフターである。自分がこの場所に来てから、現在まで面倒を見てくれた人物であり、彼女に少年の点滴管理を担当させている人物。その彼女が、少年への救いを許していた。
「でも彼は今、点滴で水分を摂取してる状態ですから」
「だからこそ喉から水を飲んで得られる安心感ってものもあるでしょう? 警備さん、私に免じて大目に見てはくれないかしら」
独房への思わぬ来客者に気圧されたのか、男性兵士は渋々ながらも首を縦に振って返事を返した。
「……コップ、取ってきます」
◆ ◆ ◆
『珍しくてこずったそうね、ケイン』
烏丸ケイイチにとっては、聞くだけで虫唾の走る声音だった。
ケインという、彼女以外は誰も呼ばない通称で自分を呼ぶことも、彼の苛立ちを加速させた。
ケイイチの目の前には、戸籍上は四十代後半でありながら肌、声、佇まいに老いを感じさせない女性がいる。レクリエーションルームに設置された目の前のモニターから、ネットワークを何重にも暗号化したインターネット通話で語り掛けている。
GOWメーカー・【ハミルトン・インダストリー】の重役にして、特務部隊【サイラス】に兵器提供者としての立場から助言を与える特別軍事顧問の一人。
自分に特尉としての地位を与え、EoEの地域開発を口実に自分に【アーロン】を渡し、テロリストたちを掃討させている張本人。
烏丸エイル。
彼女が自らの産みの親という事実に、ケイイチは呪われながら生きてきた。
『あなたが【アーロン】の機体に傷をつけられたと聞いた時は、第六世代機の援助を考えないといけないとは思ったけど』
「珍しい奴がいた。無謀さで機体の古さを補ってくる奴だ」
『なら、機体の傷だけで済んだことを喜びなさい。相手がGOWの手練れであれば、より一層【アーロン】強化のための戦術データも採取できるわ。もっともその時は貴方も一人では対応できないでしょうし、こちらもそれ相応の戦力を投入する必要があるでしょうけど』
例の少年との戦闘以降、十日後の現在まで、ケイイチと彼女は通信中隊を介した連絡しか取り合わなかった。つまり現在のこの会話が件の戦闘後では彼らの初めての会話となる。
息子の命がけの戦闘から会話が十日も遅れたのは、彼女の多忙な日々だけが理由ではない。むしろ彼女は面会に応じるように告げたのだが、ケイイチの方が今日まで直接の面会を遅らせたのだ。現に今この瞬間にも、ケイイチは無断で通信を切断したい気持ちを必死で抑え込んでいた。
「そいつはここで捕虜にしてる。知りたいことがあったらデータをそっちに送るぞ」
『気持ちだけ受け取っておきましょう。私もこちらでは辺境地の土地開発に手を焼いててね』
(なるほどな。あくまで、こっちには居場所のヒントすら教えないつもりか)
データの送信先から、彼女の居場所を割り出す計画は、今まで何度も試したのと同じようにやんわりと断られた。情報伝達は彼女自身が独自のコネクションを駆使して管理しているらしく、地球及びEoE内のどのような人物がサーバー解析や戸籍調査などあらゆる手段を講じたとしても、烏丸エイルの居場所を割り出すことはできない状態にある。
彼女の居場所を突き止め、殺す。
それがかつて平和な家庭で生きる日本人の少年であった烏丸ケイが、GOWの軍事利用に協力する目的だった。そしてその目的を提案したのは、液晶デバイス越しに品定めのような表情をこちらに向ける彼女自身だった。
九年前、彼がまだ実際の少年だったある日、母親であり、家族でもあるはずの彼女の行為によってケイイチの人生は大きく狂わされた。その後数年間抜け殻のような人生を過ごしていた彼に、あろうことか仇である彼女自身が、彼に復讐を促したのだ。【サイラス】の特別士官として与えられた作戦を遂行すれば、自らの居場所を教える、と半年前彼女は自分にそう提案したことが、今【アーロン】を駆ってテロリストを掃討しているケイイチの現状につながっている。
【サイラス】はおろかハミルトン社の役員ですら彼女の正体を知るものが見当たらない以上、烏丸エイルが自らの息子に行った畜生のごとき行為を公に暴露してもほとんど意味はない。今彼女が使用しているような独自のネットワークを使用し、【ハミルトン】重役としての立場を退いた後別の顔で公に現れるだけだろう。
それどころか損をするのは、彼女と取引をしているケイイチの方だ。彼がエイルの過去を明かせば報復として、九年の間の彼自身の血塗られた過去も暴露され、【サイラス】のパイロットとしての権利は失墜することは確実だ。
そして結果【アーロン】のパイロットを失った【サイラス】に、これを好機と見たテロリストたちは総攻撃をしかけてくることも予想できる。三度目の大戦争は避けられず、新型のGOWによって史上最多の死傷者を出すことになりかねない。現在【アーロン】がテロリストが一方的に掃討している現状は、裏を返せばケイイチ一人が世界の秩序を背負わされている状態なのだ。
「今回の身柄をハミルトン社の重役殿がご覧になれば、興味深い事実を発見してくださるかもしれないんだがな」
『確かに一理あるわね。でも、それは私じゃなくてもできること』
「【サイラス】の特別顧問なら、現場との情報把握の乖離は最小限に抑えるべきなんじゃないのか?」
『そうねぇ……あぁ、ごめんなさい、もう時間だわ。じゃあケイン、ちゃんと【サリナス・ジーン】は確認しておきなさいよ、調査も進んでいるかもしれないから』
「おいちょっと待て、まだ話は終わっちゃいないぞ。いい加減そっちの口から【浮浪狩り】を……」
『他人様に深入りして自分の任務を忘れるのはお勧めできないわね。私を殺すならね?』
液晶画面を蹴とばしたいという衝動を、ケイイチは何とか抑え込んだ。
自分の話を遮るように、彼女は話を切り上げた。電話を切り上げないといけない理由が本当にあるのかも、ケイイチには疑わしく見えた。
あの女はこちらの意図を承知していて、それでいて自分に今の地位を与えたのだ。
今のケイイチには、実質的に彼女との取引を破棄することを許されない状況下にある。
唯やパスカルのように、今の烏丸エイルの人質として利用できる存在はいくらでもあるが、それだけではない。彼と【アーロン】が【サイラス】の顔となり、EoE全土に同部隊の武力を誇示している今、人質にされているは【サイラス】がテロリストに見せる圧力と言っても過言ではない。彼が余計な行為をしでかして【サイラス】を除名された時、【アーロン】の操縦者も存在しなくなり、【サイラス】の力も半減するからだ。そうなったときに、テロリストがこれを好機とばかりに各地で破壊活動を繰り返すのは目に見えている。
そしてだからこそ、【サイラス】の別の部隊が烏丸エイルの指示でいかなる蛮行を行ったとしても、ケイイチは介入することができない。
そう例えば―――百年前からEoEに住み続ける人々を、土地開発の元に追放するという蛮行を行ったとしても。
『体を労わりなさいよ、ケイン』
時間にして約五分。烏丸エイルの側から通信を打ち切る形で、【サイラス】に所属する親子の会話は終わった。
レクリエーションルームにはただ一人の、特別士官を務める青年だけが残された。
彼にねぎらいの言葉をかける人間は、どこにもいなかった。
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