苦痛の消滅
不老不死から50万年後。
前章から44万年
このあたりで、男の主観的な「時間の苦痛」の感覚について述べておこうと思う。
まず時間的な苦痛というものはとても主観的なもので、個人差がある、というのは重要なところだ。
たとえばある人が勉強をするのが非常に嫌いだとすれば、学校での授業は非常に長く苦痛なものになるだろう。
ところが世の中には勉強が好きな人もたくさんいるので、彼らにとって楽しい授業はあっという間に過ぎるように感じる。
同じ時間を体験しても、ある人には長く感じ、別のある人には短く感じる、ということは日常的に起きていることだ。
このお話に出てくる「男」はすでに50万年以上も生きているのであるが、それは長くても100年程度しか生きない私たち現代人にとっては途方もなく長い時間である。
だからあなたは、この男の経験している時間は想像を絶する苦痛である、と思うかもしれない。
しかし事実はそれほどでもなく、さほどの心配も無用である。
地球上のあらゆる生物には多少の差はあれども「適応力」というのがある。平たくいうと「慣れ」である。
ある生物は必要に応じて水の多い環境に慣れ、またある生物は陸上の環境に慣れ、またある生物は同種間の「社会」に適応するように「慣れさせられる」
それは生物の肉体的進化や脳的な変化によって成し遂げられていった。
たとえばある魚は、陸上で生活するため、長い時間かけて「脚」を生やし、自力で陸を歩けるようになった。
別のある陸上生物は、空中で生活するため、長い時間かけて「翼」を生やした。
さらに別のある生物は、一人だけでは生きていくことができないため、集団で生きるための「社会性」を身に着けた。
最初は新しい環境に慣れるのはしんどいが、徐々に体や脳が適応していき、苦痛がなくなっていく。
適応、つまり「慣れ」ることで、苦痛はやわらげられ、しまいには当たり前になって何とも感じなくなる。
男は不老不死ではあったのだが、こうした「適応」による脳的、内臓的な変化は起こすことができた。というより自然に起こった。
たとえば血圧や脈拍の変化などもそうだったのだが、もっと奥深く、脳の部分にまでその変化は起こっていた。
男は「時間」に対して苦痛を感じることが、以前よりもずっと少なくなっていた。
毎日朝に日が昇るのを見て、夕方に日が沈むのを見る。
太陽を中心とした1日の行動パターンが固定化されてきており、傍から見た目には原始動物、原始生物のように、原始的な本能を無意識で行使している感じだった。
原始生物、たとえばアメーバのような単細胞生物は、退屈な時間に対して苦痛を感じているだろうか?
昆虫、たとえばカブトムシは、「ああ、俺の人生はひどく退屈だ。何かを成し遂げて生きがいを見つけたい」などと考えるだろうか?おそらく全く考えないだろう。
彼らはおそらく時間という感覚すらなく、ただ本能だけで「なんとなく」生存しているに過ぎない。
時間に対して苦痛を感じるというのは、複雑な思考や感情があるからなので、これらを持たない単純な生物は時間に対して苦痛など感じないはずである。
少なくともわれわれ人間よりも時間に対する苦痛を感じる動物はほかにいないだろう。
男の脳は変化し、生活スタイルは非常に本能的で単純化されていた。
言葉も使わないためにほとんど忘れてしまい、それにしたがって言葉でものを考えることもなくなった。
社会を作って生きていないため、複雑な思考や感情を使うこともなくなった。
複雑な思考や感情がマヒすることで、この長時間に対する適応を得たのである。
男の感情は非常に薄い。何があってもさほど感じなくなっていた。
不老不死であるために危険にさらされることもないため、恐怖心や焦りもほとんど感じないし、必要がない。
そういう意味でも原始的な生物に非常に近くなっていった。
本能だけで動いている、非常に単純な生活であった。
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