3

 ふわりとした上昇する感覚が足下から達し、市川は客室の丸窓に顔を押し付け、外の景色を眺めた。

 飛行場は一面に芝生が植えられ、真っ赤な軍服を身に纏った軍楽隊が行進曲を奏でている。遠くには、王子の出立を見送る市民の群れが、盛んに手を振っていた。

 ぐうん、と地面が遠ざかり、細長い飛行船の影が落ちている。見る見る飛行場は小さくなり、遙か地平線近くに、ボーラン市と、王宮の建物が見えていた。

「さて、ようやく出発だ!」

 新庄が満面に笑みを浮かべ、宣言した。ストーリーが動き出し、前途に希望を見出したのだろう。

 山田も、洋子も、同じように思っているらしく、笑顔になる。

 三村は、ややぼんやりとした表情で、窓の外を眺めているだけだ。

 飛行船の、王族専用の客室である。判りやすく説明すれば、飛行船は御用飛行船であった。

 本来なら百人以上も乗船できる構造だが、王族が乗り込むため、定員は半分以下になっている。空いたスペースには、王族のための客室や、料理のためのキッチンが設置されている。つまり、空飛ぶホテル、というわけだ。

 市川は山田に尋ねた。

「これから向かう先は、何て場所だい?」

「はて」と山田は首を捻った。

「そう言えば、隣国としか聞いていないな。新庄さん、あんたは知っているかい?」

 新庄は目をギョロギョロと動かし、細かく首を左右に振った。

「おれも知らん! 三村君はどうなんだ? 何しろ、花婿なんだろう。相手の花嫁の名前くらい、聞いていないか?」

 三村の顔が、見る見る不安に歪む。ぶるぶると、何度も、否定に横に振られた。

「ぼ、僕……知りません! そうだ、僕、何て名前でしたっけ?」

 洋子が呆れて声を上げた。

「三村健介でしょう? しっかりしてよ、自分の名前も思い出せないの?」

 三村は今度は大きく首を振る。

「いや、そうじゃないんです。僕の言いたいのは、役名ですよ! この世界の、ボーラン帝国の五番目の王子としての役名です。ほら、新庄さんは帝国軍でシン中佐と呼ばれているじゃないですか!」

「あ!」と全員が顔を見合わせた。

「そうだ! アニメのキャラクターなら、名前があるはずだよ! おれたち、最初から軍隊に応募するとき、本名を使っていたから気にしなかったけど、うっかりしてた……」

 市川は、無意識に、頭をがしがし掻いていた。本来なら、応募する際、アニメのキャラクターの名前を名乗るべきだったのだ。

 山田は市川に向き直った。

「市川君は、王子様とか、お姫様のキャラクター設定をやったか?」

 市川は首を振った。

「まだ、やっていない。何しろ、王子様の出てくる話数は、かなり後になるからな。おれのやったのは、最初の二話三話だけだ。原作では……」

 市川は脳裏に、木戸純一による『蒸汽帝国』の原作を思い浮かべていた。

 思い出せない!

 愕然となった。確かに、原作は読んでいるはずなのに、名前が浮かばない……!

「どうしよう! 憶えていないぞ!」

 市川の叫びに、全員が顔を見合わせた。

 新庄が大声を上げる。

「それがどうした? 名前くらい、別に大した問題じゃないだろう? 三村君は、三村君。健介王子様でいいじゃないか?」

 いかにも新庄らしい、雑駁な結論だった。

 ──王子様の名前はアラン王子や……。

 部屋に響いた〝声〟に、全員飛び上がった。

 ──しっかりしてくれんかな? そんな曖昧な記憶じゃ、お仕事を任せられん。

 市川は、むっとなって言い返した。

「なんだよ、お仕事って?」

〝声〟はすぐさま、反応した。

 ──アニメのお仕事や! あんたら、冒険だけしとったらええと、呑気に思ってるんやないやろな?

 洋子は目を光らせる。

「違うの? あんた言ったじゃないの。あたしたちが行動して、ストーリーを進めろ、って。他に何をしろ、って言うの?」

 ──さっきも言ったように、アニメのお仕事や! これからあんたらが向かう隣国、バートル王国の設定と、王子様と出会うお姫様。王国の大臣、王様、兵士、一切合財が全て必要や。そうでないと、隣国は存在せえへん。

 立ち上がった市川は、手足を振り回し、喚いていた。

「そんなの、無理だ! 木戸監督と打ち合わせしていない! 打ち合わせなしで、設定するなんて、無茶もいいところだ!」

〝声〟は冷酷に返答した。

 ──無茶でも何でも、やりなはれ。どんな設定しても構わん。とにかく、ストーリーが進行するのが大事やからな……。

 遠ざかる〝声〟に、市川は「待ってくれ!」と叫んだが、無駄であった。

 ふっつりと気配が消え、残された全員は呆然と、お互いの顔を見合った。

 ふと、市川は三村を見た。

 三村は王族に用意された豪華な椅子に座り、宙を虚ろに見詰めている。

 唇が動き、呟いた。

「僕は、アラン王子。それが僕の名前……」

 不安になって、市川は三村の前に立ち、まじまじと見つめた。三村の表情には、新たな決意のような色が浮かんでいる。

「おい、どうした、三村君」

 いつもは「三村!」と呼び捨てにするのだが、今の三村にはそうさせない、何か奇妙な雰囲気が漂っている。

 三村の視線が動いて、市川を見た。

 一瞬、以前のおどおどとした、臆病そうな表情が浮かんだが、すぐに拭い去るように消え去り、市川がはっとするほど断固たる表情に変わった。

 すっくと立ち上がった三村は宣言する。

「僕は、アラン王子! そうなんだ、僕はボーラン帝国の、第五王子なんだ!」

 拳を握りしめ、立ち尽くす三村を、市川はただ驚きに打たれ、見詰めるだけだった。

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