第百五十六章 悲 劇

 村上氏の交渉は五月の中旬から始まったが、なかなか合意に達しない。当主があれこれ条件を付けてきて、有利な成果を得ようとしているしか思えない。交渉事なので理解できるが、身の程を弁えろと言いたいところだ。信玄を倒すためには村上氏の協力が絶対欠かせないので粘り強く折衝している。


 軍師殿は胎内川の監督と軍事教練のかけもちに東奔西走している。南北にながい越後なら北奔南走と表現すべきか。鉄砲の生産は始まったばかりで一挺がはじめて完成した。完成品を見比べながら、作業の分業化を図る。来年の戦さには数が揃わないだろう。



 軍師殿の弟、矢沢氏から八月の初めに書状がおくられてきた。佐久ではただ一人抵抗している志賀城を七月末に信玄の本隊が包囲した。関東管領の上杉氏が二万余の軍勢を救援のため派遣した。しかし布陣した小田井原で別働隊におそわれ、もろくも敗走した、との内容だった。戦さ下手の定評どおりだと再確認するしかない。


 八月二十日、村上家の屋代氏から急使が届いた。早急に会談したい。当主みずから出向くので、そちらも景虎さまのお出ましを願いたい。会見場所は善光寺の薬王院といつもの場所だ。お忍びで会いたいので、双方十騎ずつの供にしたい、とつけ加えられていた。


 景虎さま、直江大臣、軍師殿、自分と側近衆の小島弥太郎、戸倉与八郎、そして護衛の者三名を選抜し出発した。当主が出席することは、交渉をまとめようと腹を決めたと思いたい。佐久のすべてが信玄の手に落ちて、次は我が身と危機感に襲われたかもしれない。


 五月のときと同じ部屋だった。庭をながめると若葉がもえたっていた庭木も、真夏の日に照らされて濃い緑色の葉を茂らしている。ジリジリと鳴くアブラゼミがいっそう暑さをつのらせる。


 床の間を正面に、左右に五名ずつ並んで会見がはじまった。村上家の当主、義清は四十台のなかば頃で、ふっくらした頬をもちエラがはった顎が強情そうな印象を与えている。薄くも濃くもない普通の眉で、眼光鋭いとはいえない穏やかなまなこで、精悍な武将面とは形容できない。戦場にでると表情が一変するのだろうか。


 景虎さまは青年武将としての風格を漂わせてきている。義清どのと正対し、ゆったりと座りこんだ。互いに目礼をかわし、視線を絡ませている。ふっと視線を外したのは義清どのだった。


 屋代氏と直江氏がそれぞれの随行者を紹介をした。当主は頷くだけだったが、家臣たちは両手をついて礼をつくした。屋代氏が話し始めた。


「本日お集まりをいただいたのは当家の決意を表するためでござる。信玄は佐久でただ一人従わなかった志賀城を包囲いたした。城主の笠原 清繁氏は助けを関東管領の上杉氏に求めた次第。ただちに二万余の軍勢が碓氷峠を越えて救援にかけつけ、志賀城の北にある古田井原に陣をしいたでござる」


「信玄はただちに板垣 信方、甘利 虎泰、横田 高松ら名うての武将を別働隊として編成し迎撃に向かわせた次第。激戦となったが管領軍はあっけなく敗れさった。兜首が十四、雑兵が三千人が討ち取られてしまった」


「勝敗は兵家へいかの常、そこに含むものはござらん。しかるに信玄が命じたのは、討ち取った敵の首三千を槍にかざし、平首は棚に掛け並べることだ。志賀城の者たちはおびただしい生首を見て戦意を喪失しただろうが、覚悟をきめて降伏しなかった。無念じゃが二日後に落城いたした」


「城兵の三百余名が戦死した。城に篭もっていた多くの男女と子どもは生け捕りになった。親戚縁者がいる者は二貫文から十貫文と多額の金額で見請けができた。多くの者は甲斐へおくられ市がたって売られた。男は黒川金山に坑夫として送られ死ぬまでこき使われるであろう。女は娼婦や奴婢として身をおとすしかなかろう」


「城主である笠原の夫人は、功あった家臣の小山田 信有が貰い受けて妾にしたそうじゃ。これほどの所業をする信玄は人ではない。佐久の民は声を出さずとも、みな非難誹謗の心が燎原の火のごとく広がっておりまする」


「ふうむ、信玄はかような悪行に手を染めたか。まさしく鬼畜の仕業しわざでござる」

 直江氏が怒りをあらわにした。


 作家の故 新田次郎氏は「風林火山」四巻にわたって信玄の生涯を書いている。さすがの信玄好きでも、この頃の信濃国で行った所業について苦しい言い訳をするしかなかった。これらの悪行によって信濃国の平定は大幅に遅れたと書きしるしている。


 屋代氏が言葉をつづけた。

「ここで、わが殿から胸の内を披露いたします」


「長尾家とは五月から折衝を重ねてまいった。わしも思うところがあって決断を延ばしてきたが、斯くなる事態に及んで先延ばしは出来ぬ。両家が力をあわせて天魔の如き信玄を倒さねばと思い定めた。長尾家が申し出た案で結構でござる。同盟をむすび憎っくき信玄を地獄へ叩き出そうぞ」


「村上どののお覚悟たしかにうけたまわった。両家が手を取り合えば、信玄とて人の子、恐るるに足らず。鉄槌を下すべく共に力を合わせ奮闘いたそう」


「力強きことば勇気百倍の思いでござる」

「ここで信玄に打ち勝つ必勝の戦法を真田より披露つかまる」



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