第百三十七章 領内法

 法務大臣となった長尾 景信氏と亜希子をくわえ三人で、越後における領内法の素案づくりに取りくむ。


 長尾氏が吠えた。

「それがしは法律の素養など持っておらぬ。何で法律など小難しい担当になったのじゃ。法務大臣といっても具体的な仕事の進め方など知らんぞ。お主達とは永年のよしみがある、二人に任せられると思ったから引き受けたんだ。お主たちに丸投げするしかないわ」


 気持ちは分からんわけでもない。二人で必至に宥める。

「景信さまは亡き母の弟君にあらせられます。景虎さまがいちばん信頼を寄せております。難しい仕事ですので、景信さましかおらぬと、お決めになられたのでありましょう」


「守護は徴税権と裁判権をにぎり、これがおおきな力の源泉となります。徴税権は大蔵大臣が主管することになりました。裁判権は法務大臣が管轄することになります」


「晴景さまの時代、裁判は守護の館がある府中で行われていたはず。当面その奉行人の組織を引き継ぐ形になろうかと思います。ここは大蔵大臣と同様の形になりましょう。裁判については、しばらく守護の組織を使うしかありません」


「裁判は永年にわたって培われた判例や先例がございます。急な変更は社会に混乱を招くだけと思われます。従前からの判断を踏襲せざるを得ないでしょうね。

ただ、今ある裁判制度を生かすとなると、景虎さまのあたらしい政策に合致しない裁判の判決がでてくる可能性がありますわ。上級審の役割を執政会議の一部に組み込むしか解決できないでしょうね」


「景虎さまは法の支配を訴えておられます。権力者の恣意的な考えで一貫性のない判断は領民の暮らしを阻害するだけです。領内法を整備して、国主その者が法を守る、法に従って政治・政策をおこなうことで領民は安心して暮らすことができます」


「先ずこの法律をつくることが法務大臣に課せられた責務と存じます」

「まあ、景虎が掲げた国造りに参加できるのは、わしの夢でもある。及ばずながら力を貸すのは、やぶさかでござらぬ」

「我ら二人の気持ちも同じでございます。力をあわせて邁進いたしましょう」


 まず亜希子が受験時に暗記したものを思い出しながら、主な大名の特徴を羅刹してゆく。


「伊達氏の『塵芥集』は伊達 稙宗 が制定しました。百姓が年貢や税をおさめずに他の領主へもとへ逃げこむと盗人して処罰する。しかも百姓を匿ったものは身柄を引き渡さない場合は同罪とする、って厳しい規定です。

こうした条文は農業をきばんとする大名にとって、ぜったい譲れない線なのね。条文も百七十条くらいあったかしら、半端じゃない数でございます」


「四国の長宗我部 元親がさだめた分国法は、喧嘩両成敗で有名です。喧嘩口論を禁じたうえで、たがいに勝負したときは、理由の如何にかかわらず双方を成敗する。これは武田家や今川家でも採用されております」


「今川家が決めた分国法は、喧嘩両成敗もありますけど、私婚を禁止したことで有名です。家臣の派閥ができて謀反に繋がりかねない閨閥を防ぎたかったんでしょうね。婚儀はかならず大名の許可制にしているわ」


「朝倉氏の分国法は、家臣を城下町に移住するよう促したわ。謀反の防止するため在地から切り離すことの重要性を知っていたのね。一朝 事あったさい動員を容易にする効果を狙ったんでしょう。条文がいちばん少ないことでも有名です」


「そして武田家の『甲州法度之次第』です。有名な条文は喧嘩両成敗だけど、追加の条文があります。相手から仕掛けられても、怒りを堪忍した者は処罰しないと定めていたわ。十三才以下の犯罪者は刑事責任を免除するなんて、少年法の精神を先取りしております」


「軍師殿の弟さんから、布告されている『甲州法度之次第』を、手に入れようとしたけれど残念ながら取得できない旨の連絡があった。ちょっと我々が先走っているかもしれない」


「あなた、いぜん軍師殿の三人で懇談したおり、三国志の曹操に触れたこと覚えている?」

「領国の運営をどういう形ですべきか話しあったときだね」

「曹操が自分できめた軍令をみずから破ってしまい、髪を切って兵士のまえで謝った故事を話したわ。あの時、あなたは信玄も似たような話しがあると言ったわね」


「よく覚えていたね。信玄が自ら法を破ったときは目安箱に訴えてくれ。理非を判断して覚悟をしめす、と責任を負うことをはっきり明示したんだ。それが曹操の話しと似ていると思ったんだ」


「そのくらいの覚悟を示さないと、部下や領民は従わないでしょうね」


「あちこちの領内法と申すのか話しがあったが、具体的にはどうやって手にいれる積もりなんだ。どんな手立てを持っておるのじゃ?」

「ここは軍師どのにお願いして軒猿を使うしかないのかしら」

「そうだね。ここいる三人は、その地の手づるを知らないし、出向くわけにもゆかない。やはり 軒猿の手を借りるしかないだろう」


 自宅に戻ってから

「初めて私の経歴を話したこと覚えている?」

「医者になるまでの一代記なら おぼえているよ」

「ソロバンの話ししたかしら」

「ウーン、その話し出たかな。学習塾に通わずストレートに入って感心したことは覚えてる」


「日商の珠算検定で二級で止めちゃったんだけど、そのとき簿記四級があるって気が付いたの」

「簿記って小遣い帳をつけさせられていたから、現金の出し入れのイメージしかないねえ。あと貸方と借方の言葉くらいは分かっている」


「わたしも親からつけさせられていたわ。まだ医者を志望するなんて思ってもいなかった。数字をあつかうのが好きだったから興味本位に勉強してみたの」

「へえ、小学生でも受験できるの?」


「ええ、受験の制限はないわ。対象が小規模商店の経理事務に役立つレベルだから

そう難しくもないわ。ただ工業簿記がはじめ戸惑ったけれど」

「フーン、小学生がそこまで考えるとは驚きだ。僕は外で走りまわって遊んでばかりだったなあ」


「医者になってから医療経営学のコースを取るか迷ったわ。科目のなかに財務・会計があるの。簿記四級なんて入門レベルだから、病院会計なんて複雑なシステムに応用できると思えず諦めたわ」


「でも基本原則は変わらないだろう? この時代に応用できる仕組みを考えたいね。そうだ、大熊氏と打ち合わせたらどうだろう」

「まあ、そうだわ。実務者と話しあったら良い知恵が浮かぶかもしれないわ」



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