第93話 動き出す時間

 一人分ずつのスペースを、半透明のパーテーションで区切っている広いオフィスの一角で、浩一は机上で鳴り響いた電話の受話器を取り上げた。


〔はい、カシワギです〕

 するとこの間、声を覚えたオペレーターの女性が、取り次ぎの内容を伝えてくる。


〔コゥ、外線が入っているの。三番を取って貰えるかしら。あなたのいとこのMr.クラタと名乗っているわ〕

〔ありがとう、レイチェル〕

 短く礼を述べて切り替えのボタンを押しながら、浩一はほんの少しだけ考えた。


(倉田って……、正彦と修と明良のうち、誰だ?)

 しかし出れば分かる話だと、深く考えずに呼びかける。


「もしもし? 柏木ですが」

「浩一さん、明良です。元気にしてますか?」

「明良? どうした。いきなり電話なんて」

 予想通りではあり、ある意味予想外である明良からの電話に浩一は戸惑ったが、ここで電話越しに神妙な声が伝わってきた。


「すみません、お仕事中に。自宅や携帯電話の番号が、まだ分からなかったもので。転職先は清人さんから聞いて分かったから、こっちにかけてみたんです」

「それは良いが、どうした? 何か急用か?」

 日本で何かあったかと、急に心配になった浩一だったが、それと察した明良は笑って否定した。


「そうじゃなくて、実は来週にでも、アメリカに撮影に行くつもりなんです。それを聞きつけた真澄姉から、浩一さんの職場の様子をチラッと見て来いと、厳命が下ったものですから」

「姉さんも過保護だな」

 思わず苦笑いした浩一に、明良も同様に応じる。


「まあ、浩一さんが日本を出た事情が事情だから、真澄姉が心配する気持ちも分かるんですけどね。それで浩一さん、ちょっと職場に顔を出しても、大丈夫そうな雰囲気ですか? 十分位で失礼するけど、浩一さんが気になるなら、他の所で顔を合わせても良いんですが」

 控え目にそんなお伺いを立ててきた明良に、浩一は快く了解した。


「就職したばかりで、まだ仕事を覚えている段階で殆ど内勤だし、それ位ならいつでも構わないさ」

「助かります。じゃあ日程が決まったら、改めて連絡を入れますので」

「あ、じゃあ今から言う番号に、連絡を貰えるかな?」

「分かりました」

 そして連絡先を告げてから受話器を戻した浩一は、久し振りに日本語で会話した事もあって、無意識にリラックスしていたらしく穏やかな表情になっていた。その時、浩一のスペースの横を通り過ぎようとしていた同僚がそれを目撃し、嬉々としてからかってくる。


〔コゥ、随分楽しそうじゃないか。日本語だったし、電話の相手は恋人か?〕

 陽気に声をかけてきた同年輩の赤毛の男を見上げながら、浩一は首を振った。


〔いや、いとこなんだ。俺がちゃんとやってるかどうか、姉の命令でここに偵察に来るつもりらしい〕

 それを聞くと、小さく口笛を吹いて、笑いながら肩を竦める。

〔それは怖い。良いとこ見せないと、お姉ちゃんからのお仕置きが待ってるとか?〕

〔そういう事だよ〕

 そこで顔を見合わせて笑ってから、ジムが思い出した様に言い出した。


〔そういえば、お前、後から恋人を呼び寄せる話になってたよな? 部長に頼まれて広めの部屋を探しておいたんだが、やはり女性の意見を聞いた方が良いかなと思って、候補を挙げた段階で止めといたんだ。彼女って、いつ頃ステイツに来るんだ?〕

 何気なく彼が口にした言葉に、この間そこはかとなく事情を察していた周囲の者は、浩一とジムに心配そうな視線を投げかけた。そんな中、浩一が軽く息を吐いてから、落ち着き払って告げる。


〔悪い、ジム。広い部屋は、もう探さなくて良いんだ〕

〔へ? 何で?〕

〔離日直前に彼女と別れて、その話は無くなったから。こちらに来てから部長には話しておいたんだが、部長も君も忙しいから、話が伝わって無かったかもしれない〕

 浩一が申し訳なさそうにそう告げると、その周囲に気まずい沈黙が漂った。そして多少居心地悪い思いをしながら、ジムが謝罪の言葉を口にする。


〔その……、悪かったな、コゥ〕

〔いや、気を遣わせてしまって、こちらの方こそ悪かった〕

〔えっと、じゃあコゥ、仕事頑張れよ! 今度奢るから!〕

 そしてジムが自分の肩を軽く叩いて慌ただしくその場を後にし、浩一も中断していた仕事に再度取り掛かろうとして、ふと先程口にした事を思い返した。


(忙しくてすっかり忘れてたな、彼女の事……。少なくともそれだけは、こちらに来て良かったか)

 そんな考えを振り切ってから、浩一は中断していた仕事を再開するべく、そちらに意識を集中した。


 ※※※


 恭子が小笠原邸に滞在を始めてから一ヵ月が経過し、その日、真澄が彼女を引き取りに、小笠原邸へと出向く事になっていた。そして一ヵ月前と同様に荷物を纏めた恭子が、玄関先で再度女主人である由紀子に頭を下げた。


「由紀子さん。一ヶ月間、お世話になりました」

 それに由紀子は、微笑みながら応じた。


「いえ、大したおもてなしもできませんでしたが。それに常に若い人に居て貰えて、話し相手ができて楽しかったです。予想外に、真一君と真由子ちゃんに会う事もできましたし」

「本当に、口実としてはなかなかでしたね。真澄さんには敵いません」

「私なんか、最初から勝つ気はありませんから」

 女二人でしみじみと同意しつつ苦笑いしていると、門のインターフォンの対応をしたらしい家政婦が、奥から出て来て声をかけてくる。


「奥様。門の所に柏木様がいらっしゃいました」

 その声に門の方を見ると、ちょうど約束の時刻ピッタリに、ゆっくりと開いている門の間を抜けて、リムジンが敷地内にしずしずと入って来ている所だった。それを見た恭子が、再度頭を下げる。


「それでは失礼します」

「是非、またいらして下さい」

「はい、機会があれば、お伺いします」

 社交辞令で笑顔でそう言ったものの(そんな機会は無いと思うけど)と思いながら、恭子はスーツケースとショルダーバッグ、鉢植えの入ったビニール袋を持って、車の方へと進んだ。そしてそこに到達する直前、運転手の柴崎が恭しくドアを開けた後部座席から、悠然と真澄が降り立つ。


「こんにちは、恭子さん。荷造りは大丈夫?」

 にこやかに声をかけてきた真澄に、(何か今日も、絶好調みたいね)と密かにうんざりしながら、恭子は言葉を返した。


「こんにちは、真澄さん。お久しぶりです。ここに来た翌日に、連れ出されて以来ですね。荷物は全部、この前と同様纏めてありますので」

 軽く嫌味を口にした恭子だったが、当然の如く真澄はそれをスルーして、由紀子に向き直った。


「由紀子さん、今回は無理を聞いて頂いて、ありがとうございました」

「大した事ありませんわ。先程恭子さんにも言いましたが、大変楽しく過ごさせて頂きました」

「それなら良かったです」

 にこやかにそんな会話をしてから、真澄は背後を振り返った。


「柴崎さん?」

「はい、積み込みは終わりました」

 有無を言わせず恭子から荷物を受け取った柴崎は、短い時間の間にさっさとトランクに荷物の積み込みを完了させ、恭しく主に向かって頭を下げた。それを合図に、真澄が辞去する。


「そう。それでは失礼致します」

「お世話になりました」

「お気をつけて」

 そうして由紀子に見送られて車中の人になった恭子だったが、真澄と並んで広々とした後部座席に座って、暫くしても真澄が無言を貫いている為、流石に苛ついて声をかけた。


「……真澄さん」

「何?」

「どこに向かっているんですか?」

「そんな事より、あなたの考えを聞かせて欲しいんだけど」

 当然の要求をあっさり撥ね返され、恭子は(相変わらずの女王様発言。誰か止めて)とうんざりしながらも、何とか言い返した。


「因みに、何をお聞きになりたいんでしょうか?」

「この一ヶ月間、じっくり一人で考えてみた結果よ」

「…………」

 途端に表情を消して無言になった恭子を見て、真澄が不機嫌そうに眉を寄せる。


「何? まさか何も考えて無かったとか、言わないわよね?」

「そうではありませんが……。真澄さんにお話ししたら、気分を害される可能性もあるのですが」

 控え目に申し出た恭子に、真澄は少し不思議そうな顔付きになって話の先を促した。


「ふぅん? まあ、取り敢えず、言ってみなさい。でも私、ちょっと腹を立てたりした位で、暴れたりしないわよ?」

 そこで恭子が思わずボソッと呟く。


「……以前激怒した時は、大暴れしてましたよね」

「何か言った?」

「いえ、何でもありません。それでは一応お話ししますが……」

 すました顔で誤魔化しつつ、この間頭の中で纏めていた考えを、慎重に口にした恭子だったが、それを聞き終えた真澄は、相変わらず腕を組みながらクスクスと笑い出した。


「……そう。なるほどね。一応恭子さんに、言い分があるのは良く分かったわ」

 そう言ってまだ笑い続けている真澄に、恭子は内心(何がそんなに面白いのよ)と苛ついたが、無言を保った。すると笑うのを止めた真澄が、傍らの内線電話の受話器を上げ、隔壁があって声が届かない運転席に向かって呼びかける。


「柴崎さん? ……ええ、行先なんだけど、変更しないで当初の予定通り向かって頂戴。時間に間に合う様に、宜しくね」

 そう言って受話器を戻した真澄に、恭子は苛立たしげに声をかけた。


「あの、真澄さん? さっきから私の話を、全然聞いて下さっていないみたいですが」

「あら、嫌だ。ちゃんと聞いているわよ?」

「さっきから、この車の行先についても、答えてくれないじゃないですか! 一体、どこに向かってるんですか?」

「決まってるじゃない。成田国際空港第2ターミナルビルよ」

「え!?」

 当然の如くサラリと言われて、恭子は目を見開いて固まった。そんな彼女との間合いを詰めながら、真澄が低い声で恫喝してくる。


「一応、聞いておくわ。まさかとは思うけど、この前引っ張って行って取らせたパスポート、無くしたり捨てたり売り払ったりしてないわよね?」

 そう確認を入れてきた為、恭子は真っ青になって激しく首を振った。


「そんな事、間違ってもしてません! 写真の撮影料を含めて、手数料を真澄さんが全額負担したのに、そんな事怖くてできませんから!!」

 そんな悲鳴じみた弁解を聞いて、真澄は満足げに微笑む。


「非常に素直で宜しい。ついでにチケットも押さえてあるから。運行状況も今のところ問題なし。14:20発の便に乗って頂戴ね」

「『乗って頂戴ね』って……、あのですね」

「ちゃんと引率も付けたのよ。万が一、逃げ出さない様に」

 にやりと笑った真澄に、恭子は嫌な予感しかしなかった。


「……なんですか、引率って」

「明良の仕事のスケジュールを、ちょっと変更して貰っただけよ」

 にこやかにそんな事を言われてしまった為、恭子は心底申し訳なく思った。


(すみません、明良さん。とんだご迷惑をおかけして)

 そんな彼女とは裏腹に、真澄はどこまでも自分のペースで話を進める。


「あ、一応チケットは往復分あるから、心配しないでね? 向こうでも明良に最後まで面倒みさせるから。それから検疫とかが面倒だから、鉢植えは家で預かってるわ。後から取りに来て」

(もう微塵も反論できない……)

 事ここに至って、口答えするのを完全に諦めた恭子は、殊勝に頷いて見せた。


「分かりました。鉢植えの事は宜しくお願いします」

「ええ。心置きなく行ってらっしゃい」

 そこで真澄は満足げに微笑み、それから空港に到着するまでの結構な時間を、恭子は彼女から海外渡航時の注意事項その他諸々を、急遽レクチャーされる事となった。


 ※※※


 成田空港の見学デッキで滑走路を眺めていた真澄は、今まさに離陸して行った機体から視線を離さないままスマホを取り出し、夫に電話をかけた。明らかに勤務時間中の為、応答するまでに時間がかかるかと思いきや、すぐに繋がった事から、相手が自分からの電話を待っていた事が分かり、思わず笑みを零す。


「どうかしたか? 真澄」

「ちゃんと飛んだから、安心して頂戴」

「そうか。ご苦労だったな」

 短く答えた後、黙り込んでいる真澄に、清人は多少じれた様に電話越しに問いかけてきた。


「それで?」

「さあ……、どうかしら?」

「何だそれは?」

 思わせぶりに言ってからクスッと笑った妻に、清人は若干気分を害した様に問いを重ねる。すると真澄は、肩を竦めながら素っ気なく告げた。


「今後の事は、当人達次第ってところじゃない? これ以上干渉するつもりは無いわ」

 その言い草に、思わず清人が吹き出す。


「お前がそれを言うか……。これまで干渉しまくっていたくせに」

「あら、心外ね。清人程じゃないわよ」

「違いない」

 そして二人で笑い合ってから、清人が思い出した様に言い出した。


「そう言えば、お前が準備してた“あれ”はどうしたんだ? あいつに持たせたのか?」

「ああ、“あれ”ね。まだぐずぐず言ってたから彼女と賭けをして、私が勝ったら貰ってくれる事になったの。後から航空便で送るわ」

 淡々とそんな事を言われた為、清人は好奇心をそそられて尋ねた。


「因みに、お前が負けたらどうするんだ?」

「どうもこうも、浩一とは姉弟の縁をすっぱり断ち切るけど、彼女とはこれからも友人付き合いを続けるだけの話よ」

 それに笑いを堪えながら、清人が話を合わせる。


「そうか……。それなら俺も、浩一とは親友兼義兄弟の関係は返上して、あいつとご主人様と下僕の関係を続けるか」

「そんな事、微塵も思って無いくせに」

 そこで清人が笑いを収め、確認を入れてきた。


「ところで、ちゃんとあいつに明良を付けたんだろうな?」

 それを聞いた真澄は(やっぱり過保護だわ)などと密かに思いながら、平然と答える。


「ええ。ちゃんと空港で落ち合ったから、心配しないで。明良には私から、重々言い含めておいたし」

「分かった。じゃあ気を付けて戻って来い」

「大丈夫よ、柴崎さんもいるし。のんびり帰るわ」

 そこで通話を終わらせた真澄は、いつの間にか先程の機影が見えなくなった空を軽く見上げてから、五メートル程離れた所から自分の様子を窺っていた運転手に顔を向け、近寄りながら声をかけた。


「柴崎さん、お待たせ。それじゃあ帰りましょうか」

「はい」

 にこやかに微笑んだ運転手の後に付いて歩き出した真澄は、再度背後の空を軽く見上げて(二人とも、頑張ってね)と心の中で小さくエールを送ってから、駐車場へと向かった。

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