第56話 真澄の激昂

「帰宅早々、災難だったわね」

 そう言ってクスクス笑った真澄に、恭子は半ば確信しながら問いを発した。


「あの、真澄さんは浩一さんから頼まれたんですか?」

「ええ。浩一からメールでSOSを受けてね。清人共々会議で動けないから、マンションに居座ってる女を追っ払ってくれって」

 それを聞いた恭子は素直に頭を下げた。


「ありがとうございました。でも大丈夫なんですか? 柏木産業のパーティーで顔を合わせたなら、あの人は取引先とかお仕事で関係がある方の娘さんですよね?」

「まあね。でも気にする程の事では無いわ。それよりメールを貰ってすぐに子供を母に預けて何も食べずに出て来たから、お腹が空いちゃたわ。夕飯をご馳走して貰えない?」

「すみません、気が利かなくて。取り敢えず中に入って下さい」

「ありがとう」

 そうして恭子は急いでキーを取り出し、ドアを抜けて真澄と一緒に奥のエレベーターに乗り込んだが、ボタンを押しながら調理に必要な時間を概算し、申し訳なさそうに背後を振り返った。


「すみません、急いで作りますので、少しだけ待っていてくれますか?」

「恭子さん。私、ピザが食べたいの」

 そこで唐突に、悪びれない笑顔を向けてきた真澄に、恭子は完全に面食らった。


「え? いえ、あの、でも……。お詫びにご馳走するのがデリバリーのピザって、どうかと思うんですが……」

「だって家では絶対食べさせて貰えないんだもの! 清人が『授乳中なんだから、栄養が偏ったり、刺激物が入っている物なんか駄目だ』って頑として譲らなくて。シェフの中村さんを丸め込んで毎日毎日薄味料理……。私はとろけるチーズの上に、目一杯ブラックペッパーとタバスコをかけて、コーラをがぶ飲みしながら食べたいのよっ!!」

 笑顔から一転して鬼気迫る表情で恭子の肩を掴み、切々と訴えてくる真澄に、恭子は思わず遠い目をしてしまった。


(何か心の叫びっぽい……。そうよね。乳幼児がいるから真澄さんの性格からして、そうそう外出して出先で食べる機会も無いでしょうし。よほどストレスが溜まっているとみたわ。迷惑をかけたお詫びとして、先生に睨まれたり嫌味を言われる位甘んじて受けようじゃないの)

 そう腹を括った恭子は、力強く頷いた。


「分かりました。真澄さんがお好きなピザのLサイズを二つと、コーラの2Lボトルを頼みましょう。偶にはジャンクフードもいいですよね?」

 その途端、真澄が満面の笑みで、両手が荷物で塞がっている恭子に抱き付く。


「うわぁ~ん恭子さん、大好き! 愛してるわ!」

「それは先生の前では、言わないで下さいね?」

(ピザ位、偶に食べさせてあげなさいよ。本当に真澄さんと清香ちゃんに関しては、融通が利かない頑固者なんだから……)

 心の中で苦笑していると、真澄がスルリと恭子のポケットからICレコーダーを抜き取りつつ体を離し、恭子の目の高さまでそれを持ち上げた。


「それと……、配達を待ってる間にこれを聞かせてね?」

「……何も入っていませんよ?」

 思わず僅かに顔を引き攣らせた恭子がしらを切ろうとしたが、真澄は愛想よく笑いながら確信している口調で告げる

「あの女、上っ面だけ良くて結構えげつなさそうな顔をしてたし、最悪手を出してきたら正当防衛を主張する為に、やり取りを録音位しておいたわよね? 恭子さんならそれ位するでしょう?」

 微笑みながら返事を待っている真澄に、恭子は頭痛を覚えながら諦めきった台詞を口にした。


「お耳汚しかと思いますがどうぞ。それからできればこれは、先生や浩一さんの耳に入らない様にお願いします」

「勿論分かってるわ。部屋で一回聞いたらすぐに返すから。……うふふ、思いっきりピザを食べられるなんて久し振り。嬉しいわぁ」

 そんな上機嫌な真澄を伴って、恭子は漸くマンション内に帰り着いた。


「恭子さん!」

「真澄、迎えに来たぞ。何事も無く済んだか?」

「あ、お帰りなさい浩一さん。お二人とも夕飯はまだですよね? 今ピザを温め直しますから」

「……ピザ?」

 男二人がリビングのドアをやや乱暴に開けて声をかけると、恭子はソファーから立ち上がりつつ、いつも通りの笑顔で出迎えた。しかしそこで清人が軽く眉を寄せると、それ以上に不愉快そうな声が上がる。


「おっそ~い! レディーをこんなに待たせるなんてけしから~ん! 不届き千万な企業戦士ども、そこになおれぇぇっ!」

「姉さん?」

「真澄?」

 ソファーに座っている真澄が、プリプリ怒りながら足元の床を指差した為、男二人は怪訝な顔で真澄を眺めてから問い掛ける視線を恭子に向けた。すると彼女は居心地悪そうにしながら、ボソッと謝罪の言葉を口にする。


「久しぶりにコーラをがぶ飲みして、さっきから妙なテンションになっているみたいです。すみません」

 見れば確かに真澄の目の前のテーブルには、中身がだいぶ減ったコーラの2Lボトルと大ぶりのグラスが置いてあり、それを見た清人の眉間にはっきりとした皺ができた。さすがに浩一も(コーラで酔っぱらうとは思えないが……)と頭を抱えたくなったが、ここで真澄がビシッと清人を指差しながら断言する。


「あぁ~ら、恭子さんが謝る筋合いじゃ無いわよぅ。普段一滴たりとも飲ませてくれないあいつが悪い! この諸悪の根源が!! 猛省しろっ!!」

「…………」

「一応、簡単にサラダとスープも作りましたので、今ピザと一緒に二人分お出ししますから、少し待ってて下さい」

「こんなのに出さなくっていいわよ~?」

 無言で真澄を睨む清人の眉間に更に一本皺が増えたところで、恭子は触らぬ神に祟り無しとばかりにそそくさとキッチンに逃げ込んだ。その背中に能天気な声をかけ、彼女がキッチンに入った事を確認してから、真澄は二人に手振りでソファーに座る様に指示する。


「浩一、清人、何なの《あれ》は?」

 二人が腰かけるなり先程までの上機嫌さをかなぐり捨て、キッチンに聞こえない程度の小声で悪態を吐いてきた真澄に、男二人も瞬時に真顔になった。


「すまなかった、姉さん。面倒かけて」

「第一、あの話は断ったって言ってなかった?」

 確認を入れてきた真澄に、二人は顔を見合わせて渋い顔になる。


「確かに俺は、父さんに断りを入れたんだが……」

「それは俺も、お義父さんから聞いた。だがお義父さんは正月中、と言うか、冬休みが終わるまで清香を引き止めて小笠原家に帰さないで、お祖父さんと一緒に構いまくっていただろう? 他の細かい所が吹っ飛んでいて、先方に話が伝わって無かった可能性も……」

「邪魔なんてしないから、伯父馬鹿っぷりは別な時に発揮して欲しかったわね」

 苛立たしげにそう吐き捨てた真澄に、清人は何気なく尋ねてみた。


「今日押し掛けて来た女が、お前に何か失礼な事を言ったのか?」

 清人は(そうであれば看過できんな)と軽く考えながら口にしたが、真澄の反応は清人の予想の上を行った。


「失礼以前の問題よ。私に《あれ》を『義妹扱いしろ』なんてほざくなら、即刻離婚よ、清人。浩一とは、姉弟の縁を切らせて貰うわ。そのつもりでいなさい」

 怒りを内包した声音で真澄が簡潔に述べると、浩一と清人は瞬時に真剣極まりない顔付きになった。


「その女性と結婚する気は無い」

「お義父さんには確実に断りを入れる様に念押しする」

「当然よ」

 真顔で三人が意思統一していると、キッチンから出て来た恭子が、準備した夕食を手早く食卓に並べて声をかけてきた。


「準備ができましたのでどうぞ」

「ああ」

「頂くよ」

 何食わぬ顔で男二人がテーブルに向かって歩き出すと、真澄が再び明るい笑顔で恭子に催促してきた。


「恭子さん恭子さん、私、ココアが飲みたくなっちゃった。無い?」

 無意識に顔を顰めた清人からの視線は見なかった事にして、恭子は快諾した。

「多目に作りますね。クリームも乗せます」

「やっぱり恭子さんは、話が分かるわ~」

(ココア位、偶にはがぶ飲みさせてあげなさいよ!)

 すこぶる上機嫌な真澄とは対照的に、清人は終始面白く無さそうな顔をして食べていたが、何やら浩一が一緒に食べながら小声で窘めていたらしく、恭子に直接的な被害は及ばなかった。


 そして夕飯を食べ終わった所で清人は迎えの車を手配し、それに乗り込んだ真澄は、マンションの出入り口まで出て見送ってくれた恭子と浩一に愛想良く手を振ってから、走行中の車内で綺麗に表情を消して無言になった。下手な事は言わない方が良いと判断した清人が、自身も黙って様子を窺い始めて数分後。真澄が徐に口を開く。


「……清人」

「どうした?」

 慎重に問いかけてきた夫に、真澄は前方に視線を向けたまま、低い声で確認を入れてきた。


「披露宴に招待した位だから、加積氏の連絡先を把握しているわよね?」

「それは勿論だが……、どうしてそんな事を」

「私にこれ以上、無駄な会話をさせないで」

 自分の方に顔を向けて言い放った真澄に、清人は素直に答えた。


「……帰宅したら教える」

 それきり再び前を向いて黙り込んでしまった妻を見て、清人は密かに溜め息を吐いた。

(低脳女が。よほど真澄を怒らせたらしいな。何を口走ったんだか)

 半ば八つ当たりじみた事を考えた清人は、この先何が起こっても件の女になど同情するかとバッサリ切り捨てた。

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