第54話 終わりと始まり

「すみません、今夜はやっぱり帰ります」

 その宣言に、周囲の者達は予想通り揃って目を丸くした。


「は? どうした浩一。こんな時間に」

「忘れ物があっても、家に一通り揃っているから、不自由は無いだろう?」

「いえ、そうでは無くて……。どうしても休み明けまでに纏めておきたい企画があるんですが、大晦日と元旦位は仕事を忘れようと思って、中途半端にして部屋に資料を置いてきたんです。だけど今になって気になってしまって……」

 父と祖父の問いかけに、自分でも苦しい理由だと思いつつ弁解すると、玲子がそれに笑って応じた。


「あらあら、浩一は思った以上に仕事中毒だったみたいね。じゃあ苛々しながら年越しするのもなんだし、今日は帰りなさい」

「まあ、真面目なのは結構な事じゃな」

「今からその資料を取って来るのか?」

「そのまま仕事をして、明日もう一度こちらに戻ります」

 結果的に取り成してくれた形の母に密かに感謝しつつ、雄一郎に改めて頭を下げると、清人が真顔で確認を入れてきた。


「今日は一滴も飲んでないから大丈夫だな?」

「ああ。食べながら良い考えが浮かんできたから、酒で考えを鈍らせたく無かったんだ」

「じゃあ今日は帰れ。気分良く新年を迎えたいだろうしな」

「そうするよ。じゃあ、また明日来ます」

 取り敢えずすんなり解放して貰った事に安堵しながら浩一は挨拶をして廊下に出たが、玄関を出る前に背後から少し慌てた口調で呼び止められた。


「浩一、ちょっと待って!」

「姉さん?」

 思わず足を止めて振り返った浩一に、真澄は笑顔で四角い風呂敷包みを差し出した。


「はい、これを持って行って」

「何?」

「中村さんに頼んで、お節料理を二人分、詰めて貰っておいたの。恭子さんと一緒に食べてね」

 にっこり笑いながら風呂敷包みを押し付けてきた姉の顔をまじまじと見ながら、浩一は当惑した様に尋ねた。


「……俺が今夜、帰ると思ってた?」

「五分五分かしら? でも『帰る』って言ってる場所が『実家』じゃないって辺り、必然って感じだけど? 明日こっちに『また帰る』じゃなくて『戻る』って言ってたし」

「参ったな……」

 クスクス笑って自分の表情を窺ってくる姉に、浩一は苦笑いする事しかできなかった。そして軽く包みを持ち上げて礼を述べる。


「ありがとう。貰っていくよ」

「気をつけてね」

 そして玄関先で浩一を見送ってから応接間へ戻ろうとしていた真澄を、難しい顔をした雄一郎が廊下で呼び止めた。


「真澄、ちょっと聞きたい事があるんだが」

「はい、何ですか? お父様」

 足を止めて素直に応じた真澄だったが、父親の質問内容を聞いて傍目には分からない様に気を引き締めた。


「お前は清人のアシスタントをしていた、川島恭子という女性の事を知っているか? お前が彼女と友人付き合いをしていると、清人が言っていたが」

「はい、出産してからは偶に電話やメールをやり取りする位ですが、その前は月に一度位は一緒に出掛けていましたが。それが何か?」

 悠然と微笑んでみせた真澄に、雄一郎が慎重に問いを重ねる。


「その……、清人は『クラブ勤めをしていた彼女をスカウトした』とか言っていたが、そこの所は……」

「勿論、本人から聞いて知っていますが。それが何か?」

「お前……、何とも思わんのか?」

 少々疑わしそうに尋ねてきた雄一郎に、真澄は冷たい視線を向けながら一刀両断した。


「……お父様。職業に貴賤無しと言いますよ? それにまさか、清人と彼女の仲を疑うとか仰いませんよね? それこそ下衆の勘繰りと言うものです。言動に注意して下さい。そんなに気になるなら、勝手に調べさせたら良いじゃありませんか。周りまで不愉快にさせないで下さい」

「あ、ああ……。すまん。悪気は無かったんだ」

 真澄の仏頂面に気圧された様に、雄一郎は弁解しながら奥へと戻って行った。それに背を向けて玄関の方向に向き直ってから、真澄は溜め息を吐いて沈鬱な表情で呟く。


「来年は、年明けから大荒れみたいね……」

 ある程度先を見通して気が重くなっていた真澄とは対照的に、本人が知らない所で話題にされていた恭子は、大晦日もあと二時間程となった頃、静まり返ったリビングでしみじみと満足げに呟いていた。


「はぁ……、静かねぇ。心が洗われる様だわ。……え?」

 何やら玄関の方から物音がした為、一瞬泥棒かと顔を強張らせた恭子だったが、慎重に様子を窺っているうちにリビングに顔を出した人物を見て、すぐに肩の力を抜いた。


「ただいま」

「浩一さん? こんな時間にどうしたんですか? 何か忘れ物でも?」

「うん、まあ……、そんな所」


 何となく立ち上がって出迎えた恭子に、浩一は曖昧に笑って答えた。それに恭子が真顔で応じる。


「ご苦労様です。じゃあすぐご実家に戻るんですね」

「いや、今からはちょっと。明日また行くよ」

「そうですか」

 何となく納得しかねる顔つきで小首を傾げた恭子に向かって、浩一は誤魔化す様に風呂敷包みを差し出した。


「そういうわけで、お土産。お節を詰めた物を姉さんに持たせて貰ったんだ」

 それを受け取った恭子は、苦笑いしながら肩を竦めた。


「お節を準備しない事、お見通しみたいですね。毎年一人分だけ作ったり買ったりするのが馬鹿らしかったので。あ、でもお餅も準備して無いわ」

「普通にご飯とかでも良いよ?」

「取り敢えずどんな物が入っているか、見せて貰って良いですか?」

「構わないよ」

 そしてダイニングテーブルで風呂敷包みを解いて蓋を開けてみた二人は、何とも言えない表情でそれを見下ろした。


「一段目……、お餅とお雑煮用の食材ですね」

「そこまで読んでたか。やっぱり侮れないな、姉さん」

「じゃあ、明日の朝はお雑煮とこのお節を出します。それを食べてからご実家に帰っても大丈夫ですよね?」

 笑って確認を入れてきた恭子に、浩一は慌てて言葉を返した。


「ああ、昼前に戻ると言ってあるし」

「分かりました。だけど、お節か……」

「どうかした? 何か食べられない物とかあった?」

 何やら感慨深く重箱の中身を見下ろしている恭子に、浩一が心配そうに尋ねると、彼女は慌てて手を振った。


「いえ、昔は毎年母が作るのを手伝わされていたんですが、一人になってから全く作っていないので、作り方を覚えているかどうか自信が無くて。どんな味だったかも、うろ覚えだなと。ただそれだけです」

(嫌だ……、ちょっと湿っぽくなっちゃったわ……)

 自分の発言で重い空気がその場に満ちた事に恭子は狼狽えたが、浩一はさほど気にしていない風情で、何気ない口調で言い出した。


「……ちょっと羨ましいな」

「何がです?」

「俺の母は全く料理をしないんだ。雇っている料理人が日々の食事の他、弁当やお節料理とかも作るから。だから俗に言う『お袋の味』って概念が無いから、そういう事で悩んでみたい」

 淡々とそんな事を言われて恭子は一瞬キョトンとしてから、小さく噴き出した。


「それは、贅沢な悩みですね」

「全くだな。……作ってみたら?」

「え? 何をですか?」

 明るく笑いながら唐突に言われた内容に再度恭子が戸惑うと、浩一が笑みを消さないまま話を続けた。


「お節料理。来年、覚えている範囲で。作っているうちに思い出す事も有るだろうし、味付けとかは作りながら調節もできるだろう? 無理に昔の味に固執しないで、自分好みの味を見つけてみても良いんじゃないかな?」

「はあ……、そう、ですね。でも少量ずつ品数多く作るのって、結構煩わしくて」

 正直に述べた恭子に、浩一は何気ない口調で応じた。


「無理強いはしないよ。考え方は人それぞれだし。恭子さんさえ良かったら、食べるのは俺が半分引き受けるし」

「え?」

「じゃあこれは冷蔵庫にしまっておくから」

「あ……、お願いします」

(確かに来年以降もルームシェアを続けるなら、一緒に食べる機会もあるでしょうけど……)

 戸惑った声を出した恭子を半ば無視して、浩一は元通り重箱の蓋を閉め、それを抱えて台所へと消えた。そして冷蔵庫の開閉音がしてから、浩一が戻ってくる。


「さてと、じゃあやり残した事はあと一つだな」

「今から何かする気ですか?」

 先程から予想外、意味不明な浩一の言動に困惑していた恭子だったが、そんな彼女に浩一は明るく笑いながら告げた。


「今年はお世話になりました。来年も宜しく」

「はい?」

 唐突な挨拶の言葉に恭子は面食らったが、変わらずに微笑んでいる浩一を見て、ゆっくりと笑顔になって言葉を返した。


「こちらこそお世話になりました。来年も宜しくお願いします」

 そうして二人にとって激動の一年は、静かに幕を下ろした。

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