第6話 ルームシェア
「皆に、話があるんですが」
翌朝の朝食時、徐に口を開いた浩一に対し、食卓を囲んでいた全員が揃って視線を向ける。
「どうした? 浩一」
「近々ここを出て、一人暮らしをしようかと思います」
そんないきなりの宣言に、当然その場全員が困惑した。
「は?」
「何だと?」
「浩一?」
「いきなり何を言い出すわけ? まさか本当に、私達の事が目障りになったとか!?」
予想に違わず一番狼狽した声を上げたのは真澄であり、浩一は内心では(正直、それもちょっとはあるが)と思ったものの、そんな事はおくびにも出さずに姉を宥めた。
「それは違うから落ち着いて。あまり姉さんを興奮させるなと、後ろから清人が睨んでる」
「でもっ!」
「それならどういうつもりか、一応聞かせて貰おうか?」
柏木家に入ってからも、浩一とは遠慮の無い物言いをしている清人だが、逆に言えば本音で接しているという事であり、相手が若干気分を害している事を悟った浩一は、慎重に思うところを話し出した。
「別に大した事では無いんだが、少し環境を変えてみようかと思い立って。俺はずっと自宅から学校にも職場にも通えたから何不自由なく無く過ごしてきたが、そんな恵まれた環境にいる人間は珍しい方だろう?」
「確かにそうだろうが。それで?」
「自分では一社会人としての節度や常識は身に付けているつもりだが、端から見るとどうなのかと最近思い始めたんだ」
そこまで聞いた清人は、盛大に顔を顰めてみせた。
「お前は確かに恵まれているだろうが、俺の見るところでは自分を甘やかすタイプじゃないし、周囲もそうだと思うが」
「そうは言っても、一度気になり出すとなかなか……。それで三十過ぎてから一人暮らしなんて気恥ずかしいものがあるが、一度家を離れてじっくりと自分自身の事を考え直してみたいと思ったんだ。……勿論仕事に支障を来す様な、不摂生な真似はしません。父さん、どうでしょうか?」
「……そうだな」
そこで男二人のやり取りを静観していた雄一郎に浩一が意見を求めた途端、予想外の人物から反対の声が上がった。
「浩一、何考えてるの! あなたに一人暮らしなんてできる筈無いじゃない!」
「酷いな姉さん。何もそんなに頭ごなしに反対しなくても……」
いつもなら率先して自分を応援してくれる真澄に声高に反対され、浩一は密かに傷ついたが、そんな事には構わず真澄は言い募った。
「だって、身の回りの事はどうするの? 誰も周りに世話してくれる人は居ないのよ?」
「真澄様、それなら大丈夫です。浩一様には私どもが、炊事、洗濯、掃除に関して一通り指導済みです。さすがに清人様並みに凝った料理は無理ですが、簡単な物ならお作りになれますし、最近では巷のお惣菜も幅広く購入できますからご安心下さい」
そこで更に予想外な事に、壁際に控えていた松波が力強く断言してきた為、真澄は呆気にとられた。
「え? どうして浩一がそんな事を、皆に教えて貰っているわけ?」
「大学生の頃に『普段どんな風に手際良く仕事をこなしているか気になったから、一通り教えてくれないか』と頼まれまして。そうしましたら奥様から『じゃあこの際一人暮らしもできる程度に、料理も仕込んであげて』と言われまして」
松波に、にこやかにそんな事を言われた真澄が、慌てて玲子に向き直る。
「お母様!? 浩一にそんな事を、させていたんですか? 私は全くその類の事を、言われた事はないんですが?」
「だって浩一にさせるならともかく、真澄に練習させるのは時間の無駄かと思って。それにその頃既に真澄を清人さんに貰ってもらう内約が、香澄さんとできていたもの。清人さんは間違っても、真澄に家事をさせるつもりは無いでしょう?」
「勿論です。二人暮らしでも、俺が全てやります」
「ですって。マメな旦那様で良かったわね? 真澄」
「…………」
そこで優雅に微笑んだ玲子に対し、真澄は表情を消して黙り込み、周囲の者はそんな真澄に向かって、生温かい視線を送った。
(家事能力が弟以下と母親に断言されてしまった、私の女としての立場はっ……)
(姉さんが何を考えてるか分かる……。ごめん、姉さん。ただあの頃は、幾ら慣れ親しんだ皆でも、自分の部屋に勝手に入って貰いたくなくて、結構必死で身の回りの事を覚えていたから……)
過去の苦い思い出と、真澄に対する申し訳ない思いで浩一が胸を一杯にしていると、真澄が開き直った様に話を続行させてきた。
「それなら! 家事云々は大丈夫だとしても! 一人暮らしなんて危険が一杯でしょう! 宅配の配達員を装った強盗に押し入られたらどうするつもり!?」
「真澄、お前そんな突拍子も無い事を……」
「まるで年頃の娘を持つ母親みたいだな」
「何ですって!?」
どこかうんざりした風情の父親と夫のコメントを耳にして真澄は怒りを露わにしたが、浩一は疲れた様に溜め息を吐いてから、律儀に真澄を宥めた。
「落ち着いて姉さん。そんな事滅多におきないし、俺は男だし多少の事なら十分対処できるから」
「だけど急病で倒れたりしたら? 救急車を呼ぶ前に意識不明になったりしたら、誰にも気が付かれなくてそのまま死んじゃうかもしれないのよ!?」
「そんな大げさな……」
興奮したらしく涙ぐみながら訴えてきた真澄に流石に浩一が閉口すると、ここで清人がハンカチを真澄に差し出しつつ、自分の方に体の向きを変えさせて、浩一に詫びを入れた。
「すまん、浩一。真澄は妊娠中のせいか、最近少し、情緒不安定気味なんだ」
「酷いわ清人。馬鹿にして」
「してないから。ほら落ち着いて涙を拭け」
(ここまで姉さんが、反対するとは思わなかったな。心配をかけるのは不本意だが……)
そんな風に浩一が密かに困惑していると、真澄と向き合っている清人が、さり気なく提案してきた。
「それじゃあ真澄、そんなに浩一の一人暮らしが心配なら、ルームシェアと言うのはどうだ?」
「ルームシェア?」
不思議そうに真澄は首を傾げ、浩一も何を言い出すのかと清人に顔を向けると、清人は真澄と顔を見合わせながら話を続けた。
「俺のマンションを俺と清香の引っ越しと同時に、知人に貸したんだ。無人だとどうしても荒れるし、遊ばせておいても固定資産税がかかるしな」
「それがどうかしたの?」
「こちらは固定資産税程度の収入があれば良いから、家賃設定も破格の安値に設定したら、あの間取りで一人暮らしは贅沢だと相手が凄く恐縮していてな。だから浩一と二人で同居して貰えれば、お前が言った様な不測の事態は回避できるし、相手に浩一の面倒を見て貰う事で、好条件に対する引け目を軽減できると思うんだ。どう思う?」
「それは……、一人きりじゃないなら、安心かもしれないけど……」
まだ幾分煮え切らない返事をした真澄から清人は浩一に視線を移し、顔付きを改めて話し掛けた。
「あと……、以前から言おうかと思っていたんだが、浩一」
「何だ?」
「お前は確かに甘やかされてはいないが、身内ばかりに囲まれて生活してきただろう。一度は他人との共同生活を、経験した方が良いかと思っていたんだ」
「どういう事だ?」
思わず眉を寄せて相手の本音を探ろうとした浩一だったが、清人は小さく肩を竦めて指摘してきた。
「つまり……、仮にお前が結婚するしたとすると、相手がこの家で暮らす事になるだろう?」
「……そうだろうな」
(清人の奴、何を言い出す気だ?)
益々清人の物言いに胡散臭い物を感じ始めた浩一だったが、清人はその視線に気付かないふりで話を続けた。
「当然相手にしてみれば、他人ばかりのこの家に入って色々神経をすり減らすであろう時に、お前が的確にフォローできるか心配なんだ」
「……それで?」
「習うより慣れろと言うだろう。結婚云々の話が出る前に、他人と折り合いを付けたり、妥協しながら生活する経験を積んでみたらどうだ? 身内なら言わなくても分かってくれる事は有るだろうが、他人にはきちんと意思表示しないと伝わらないっていう実体験は、やはり必要だと思う。お義父さんはそこの所を、どう思いますか?」
そうして浩一と雄一郎に対して問い掛けつつ意味ありげな視線を投げた清人に、二人は密かに感心した。
(そうか……。清人は俺が外に出るのを援護しつつ、父さんに対して結婚云々の話はその後にと、さり気なく牽制してくれている訳だな? さすがに話の持って行き方が絶妙だ)
(なるほど……。清人はさり気なく浩一に結婚を意識させつつ、共同生活でその心掛けを準備させようと言うわけだな? 確かに色々不自由を感じたら浩一の意識も変わるかもしれんし、実家で家族の目があれば余計に女性と付き合いにくいか)
清人からの視線の意味を、親子で微妙に自分に都合の良い方向に取り違えつつその主張に納得した二人は、清人に小さく頷いてみせた。
「それは確かに、必要かもしれんな。どうせ一時家を出るなら、共同生活をしてみるのも良い体験だろう。浩一はどう思う?」
「俺にも異存はありません。ただ……、その相手の人はどう思うかな?」
話を振られた浩一も了承しつつ、清人に向かって懸念を示したが、対する清人は、完全に面白がっている風情で言ってのけた。
「そいつは気の良い奴だから、二つ返事で了解してくれる筈だ。だがどうしても相性って物はあるし、どうしても駄目だったら『やっぱり無理だったよ、お兄ちゃん』と、すぐに泣いて帰って来て構わないぞ?」
そう言ってニヤリと意地悪く笑ってみせた清人に、浩一も余裕の笑みで言い返す。
「馬鹿野郎。誰が早々に尻尾巻いて帰るか。それ以前にお前に泣きつくなんて有り得ないぞ」
「本当か? でも真澄にだったら泣きつくんじゃないのか?」
「当然だ。その時は姉さんを一晩借りるから、お前はどこぞに行ってろ」
「……随分生意気な事を、ほざく様になったじゃないか、浩一」
「誰かさんのおかげでな。誰とは言わんが」
開き直った浩一と思わず悪態を吐いた清人が、真澄を挟んで軽く睨み合う。しかし二人はすぐに噴き出して盛大に笑い出し、他の者もそれに釣られて日曜の朝の食堂内に、楽しげな笑い声が満ちた。
そして浩一が家を出る事が既定路線となり、無事に食事を終わらせて自分達の部屋に引き上げた真澄は、ドアを閉めるやいなや清人を振り返って、安堵の溜め息を漏らした。
「はぁ、緊張した……。浩一がこっちの思惑通りに、一人暮らしを言い出すかどうかも半信半疑だったけど、そこで反対しろなんて言われても、それでもし浩一が気を変えたりお父様が反対したらどうしようと思って、凄くヒヤヒヤしたのよ?」
そう言って些か恨みがましい視線を向けてきた真澄に、清人は思わず苦笑いする。
「大丈夫だ。上出来だったぞ? 真澄。そこら辺の大根女優より、よっぽどマシだ」
「それ、誉め言葉としては微妙よ? それに最初から二人でルームシェアを勧めれば良かったじゃない」
「いや、二人で組んだら俺が真澄を丸め込んで何か企んでると、絶対お義父さんと浩一に勘ぐられるからな。あれで良かった」
そう断言されて、真澄は益々深い溜め息を吐いた。
「父親と弟に、夫が腹黒人間だと認定されてるって言うのも、かなり微妙よね?」
「そんな男でもお前の夫と認めて貰ってるんだから、感謝しないとな。これからも、色々小細工はしていくぞ?」
「分かったわ」
そう言って微笑んだ清人を見て、真澄は諦めた様に小さく笑って頷いた。
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