第1話 引っ越し
外気はまだ寒さが厳しい二月末ではあったが、招き入れられた小笠原邸の応接間は程良く暖房が効いており、雇い主に連れられてこの場にやって来た恭子は、その暖かさで僅かに緊張を解した。その雇い主である清人は、この家の主たる勝と笑顔で挨拶を交わし、勧められるままソファーに座る。
当然、恭子も並んで腰を掛けると、勝が時間を無駄にせず話を切り出した。
「それで……、清人君。そちらが電話で話を伺った川島さんだね?」
「はい、そうです。川島さん。こちらは小笠原物産社長の小笠原勝氏です」
すこぶる冷静に相手を紹介した清人から勝に視線を移し、恭子は神妙に頭を下げる。
「はじめまして、川島恭子です。お噂はかねがね、先生や清香さんからお伺いしておりました。この度は、宜しくお願いします」
「こちらこそ。こちらは妻の由紀子です」
愛想良く挨拶を返した勝は、自分の横に座る妻であり、清人の生母である由紀子の方に顔を向けつつ恭子に紹介した。すると由紀子もはにかんだ笑顔を見せながら、恭子に声をかけた。
「はじめまして、由紀子です。私共も恭子さんの事は、清香さんから折に触れお伺いしていました。お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ光栄です」
そんな風に一通り顔合わせが済んだところで、勝が幾分言いにくそうに由紀子に語り始めた。
「それで、川島さんに今日家まで来て貰った理由なんだが……、実は来月から彼女に小笠原物産で働いて貰う事になったんだ」
「え? でも川島さんは、きよ……、あの、柏木さんのアシスタントをされているのでしょう?」
驚いて息子の名前を口走りかけ、馴れ馴れしいと思ったのか慌てて言い直した由紀子に、それは聞かなかったふりで清人が素っ気ない口調で説明を加える。
「そうですが、近々執筆活動を一時休止する予定でして。その間の彼女の職場を探していたところ、小笠原さんに快く引き受けて頂きました」
「そう、だったんですか。主人から聞いておりませんでしたので……」
多少夫を恨みがましく見やって視線を伏せた由紀子を見て、恭子は幾分気の毒になった。
(う~ん、他人行儀な息子が息子なら、母親は未だに必要以上にビクビクしてるわね。今更名前位呼んでも、取って食ったりしないと思うんだけど)
ほんの一年ほど前まで絶縁状態だった母子の観察をするのは、なかなか興味深いものがあったものの、からかったりしたら十倍返しの制裁が漏れなく付いて来る為、恭子は無言を保った。そんな中、勝が話を進める。
「由紀子、彼女は非常に優秀な人材でな。この際、通常業務以外の事でも働いて貰うつもりなんだ」
聡が清香に近付き始めた頃、清人と恭子が小笠原物産に仕掛けた妨害行為の数々を脳裏に思い浮かべているであろう、明らかに皮肉交じりの勝の笑顔に、恭子は思わず肩を竦めたが、そんな事情など知る由もない由紀子は怪訝な顔になった。
「通常業務以外、ですか?」
「ああ。平たく言えば、社内の大掃除に一枚噛んで貰う。俺も後何年かで楽隠居したいから、後顧の憂いを無くす為、今のうちに戸越、川野辺、根岸その他一党を排除したい。彼女にはその裏工作に当たって貰う事になる。お前には色々申し訳ないが……」
そう言って妻の顔色を窺う素振りを見せた勝だったが、由紀子の答えは明確だった。
「構いません。そのお三方は確かに小笠原家の縁戚ですが、大した力量も無いのに社内でかなり横柄な態度を取っているとの醜聞位、耳に入れています。勝さんが居るうちは問題ないでしょうが、さすがにその後は、周りが困るでしょう。そういう事ならこの際、綺麗さっぱり排除して下さい」
自分の血縁者の不祥事を、これまで内心苦々しく思っていたであろう由紀子の口調と表情に、勝は安堵した様に一瞬表情を緩めたが、すぐに真顔になって話を続けた。
「そう言って貰えると、俺としては気が楽だが……。それで、川島さんを採用するに当たって、俺が人事にねじ込む形にして、わざと彼女と俺の関係を疑わせて、社内で噂になる様に仕向ける予定なんだ」
「あら、どうしてそんな事を?」
本気で不思議そうに問いかけた由紀子に、ここで当事者の恭子が口を挟んだ。
「そうする事で、社長の弱みを掴みたい連中が、私に接触して来る事で色々釣り上げられますし、私がお金でどうこうできる類の人間と思わせられれば、より抱き込みやすいと考えさせて油断させる事もできますから。ただこれに伴って変な噂が奥様のお耳に入るのは心苦しいので、予めご説明とご了解の為、本日お邪魔させて頂いた次第です」
そう言ってこの訪問の理由を述べて頭を下げた恭子に、由紀子は如何にもおかしそうに笑いかけた。
「なるほど、良く分かりました。でも川島さんにご足労かけて申し訳なかったわ。勝さんから一言説明して貰えば事は済んだのに」
そう言ってクスクスと笑う妻に、勝は思わず渋面になって弁解しかける。
「そうは言ってもだな」
「だって勝さん、浮気なんかしないでしょう?」
「……まあ、確かにせんがな」
笑いながら不思議そうに夫に一言告げてから、何事も無かったかの様に優雅にお茶を飲み始めた由紀子を見て、恭子は密かに舌を巻いた。
(うわ、この人、清香ちゃんとは違った意味で天然……。別に自分の容姿に自信が有るとか、自分から離れる筈がないとか、自慢してるとか思い上がってるわけじゃなく、本当に何も考えずにサラッと言ってるわよね? 小笠原さんや先生まで、ちょっと呆然としてるし。この二人にここまで間抜け面させるのができる人なんて、そうそう居ないわよ)
ある意味大物の由紀子に呆れていると、当の由紀子は茶碗を口から離し、しみじみとした口調で言い出した。
「これまでにもね、特に先程話のでたお三方のご夫人達には色々つまらない事を言われてたのよ? 勝さんと秘書や受付嬢の中が怪しいとか、婿養子で体面を取り繕ってるだけだとか、財産を掠め取って女に貢いでるんだろうとか、馬鹿正直にそんなのを放置してるなんて情けないとか、他にも色々」
それを聞いた途端、その場の男二人の眉間に揃って皺が寄った。しかし清人は無言を貫き、勝は如何にも不愉快そうに低い声で尋ねる。
「そんな事を言われていたのか? どうして俺に言わない」
「だって勝さんがそんな事をする筈はないし、一々耳に入れるのも馬鹿馬鹿しくて、適当に聞き流していたの。勿論会社に関わる様な事は、あなたにちゃんと話していたけど」
「…………」
(なるほど……、単なる苦労知らずの奥様って訳では無いわけだ。陰で色々言われてきたっぽいわね。となると、どうせなら少し協力して頂こうかしら?)
淡々と報告して再びお茶を飲んでいる由紀子を見て、恭子は素早く算段を巡らせて口を開いた。
「奥様、これまでは聞き流されていた様ですが、今後はその手のお話で多少動揺する素振りを見せて頂けませんでしょうか?」
「川島さん? どういう事ですか?」
いきなり口を挟んできた恭子に由紀子は驚いた顔を向け、男二人も(何を言い出す気だ?)と不審がったが、取り敢えず様子を見守る事にした。そんな三人の視線を受けながら、恭子が真顔で話し出す。
「これまでとは違い、奥様が気になっている様な相手なら、社長の愛人として信憑性が増しますので。後ろ暗い連中が、こぞって接触してくると思います」
それを聞いた由紀子は僅かに首を傾げてから、慎重に確認を入れてきた。
「……その方が、川島さんはお仕事がし易いのかしら?」
「はい、大変助かります」
「それなら幾らでも協力しますけど……。私、愛人でも無い方を愛人だと嘘を吐いたり、演技したりするのには自信が無くて……」
心底申し訳なさそうに言われてしまった恭子は、笑い出したいのを必死で堪えつつ説明を加えた。
「多分大丈夫ですよ。今、私をご覧になってますから、どなたかから『最近社長に纏わり付いている女が居るようだ』と言われたら、下手に否定しないで私の容姿を思い出しながら、『心当たりがある』とでも仰って下さい。勿論わざわざ挨拶に来たとは言わないで、『主人と外出中に見られていた気がする』とか『家の周囲で見かけた気がする』とか適当に誤魔化して頂ければ」
「それで良いのかしら?」
「はい、奥様は嘘を吐くのは慣れておられないみたいですし、虚実織り交ぜて曖昧に話せば却って真実味を帯びると思います。愛人だとはっきり言わなくても、あとは相手が勝手に自分の都合の良い方に解釈してくれる筈です」
そう力強く断言されて、由紀子は漸く安心した様な笑みを浮かべた。
「それなら何とかなりそうね。川島さん、小笠原の内部の事でご面倒おかけしますが、宜しくお願いします」
「こちらこそ。色々お心を煩わせる事になるかもしれませんが、なるべく早く奥様に安心して頂ける様に、努めるつもりですので」
「それは大丈夫よ。本当に気にしないで下さいね?」
互いに軽く頭を下げつつ、いつの間にか意気投合していた二人を勝と清人はどこか複雑な表情で眺めていたが、それから幾つかの簡単なやり取りをして清人達は小笠原邸を辞去した。
そして清人の車に乗り込んですぐ、助手席から恭子が笑いを含んだ声で、清人に声をかける。
「清香ちゃんが、先週から小笠原さんのお宅に下宿を始めましたから、ひょっとしたら顔が見れるかと思っていましたが残念でした」
「今日はあいつとデートだそうだ。お前の小笠原物産入りの話を清香の耳に入れたら、あいつに筒抜けになるからな。ちょうど良い」
「社内で顔を合わせるまで内緒ですか。きっと仰天しますよ?」
「小笠原さんには了承済みだ」
「そうですか」
改めて手強すぎる人間を敵に回してしまった聡に恭子は同情しつつ、さり気なく話題を変えてみた。
「初めてお会いしましたが、なかなか興味深い方ですね」
「そうだな」
敢えて主語を抜かしてみたが、清人はわざわざ尋ね返す事はせずに応じた。それでそれ程機嫌は悪くないと察した恭子は、続けて話を振ってみる。
「ご夫婦仲もよろしいようで、結構な事ですね」
「ああ」
「先生も相変わらず、ひねくれていますよね。柏木家に入った手前、もう大っぴらに小笠原に関われないからって、私を突っ込もうとするなんて」
「……何の事だ?」
ここで初めて不機嫌そうにチラリと助手席を見やった清人に臆することなく、恭子は話を続けた。
「小笠原内部での、何か不穏な噂でも最近耳にしました? そうでもなければ、わざわざ私の小笠原物産への就職斡旋なんて考えないでしょう。小笠原社長は聡い方みたいですから、先生のご好意に便乗する事にしたのでは?」
「……何を言っているのか分からんな」
「そうですか。それでは私の見当違いと言うことで」
そこであっさりと追及を止めた恭子だったが、(本当に素直じゃ無いんだから)と必死に笑いを堪えた。その気配を察したのか、運転席から、些か不機嫌そうな声が投げつけられる。
「いつまでも、そんな無駄口を叩いている暇は無いぞ。通常業務に加えて小笠原社長からの密命と、俺の課題もこなす必要があるんだからな」
その言葉尻を捉えて、思わず恭子は気の毒そうな声を出した。
「そうなると、やはり聡さんが居る営業一課に配属決定ですか……」
「ああ、小笠原社長が嬉々として確約してくれた。陰で派手にいびってやれ。特別手当を出してやる。どうだ、嬉しいだろう?」
前を向いたまま異父弟である聡への嫌がらせを唆し、人の悪い笑みを浮かべた清人に、恭子は微妙にずれた感想を返した。
「通常のお給料の他に、小笠原社長からも特別手当を頂けるそうですし、忙しい分おいしい仕事ですね」
「そういう事だ。精々頑張るんだな」
「そうします」
(恨まないで下さいね、聡さん。借金返済がかかっていますので)
思わず不憫すぎる清香の恋人である聡に、恭子が心の中で詫びを入れていると、急に清人が口調を改めて話題を変えてきた。
「それからもう一つ、川島さんにお願いしたい事があります」
「何でしょうか、先生」
作家『東野薫』である清人の下で、働き始めて六年以上。
互いにそれなりに気心が知れて、先程の様にぞんざいな口調で応じる事はあっても、清人が『仕事』の口調と言い回しを用いた時には、即座に自分の立場に即した対応が身に染み付いている恭子だった。それを当然の事として受け止めている清人は、淡々と用件を口にする。
「先週から俺が柏木邸に、清香が小笠原邸に引越しをして、今現在あのマンションが空家です。そこに住んで管理して下さい」
唐突に指示された内容に、恭子は困惑の色を隠せなかった。
「あのマンションに、ですか? 柏木邸に移った後も、仕事部屋としてそのまま使うつもりでは無かったんですか?」
「当初はそう考えていましたが、予定が変わりました。ですが人が住まない無人の状態ですと、どうしても荒れますから。川島さんが今住んでいるアパートは古くて利便性に劣る分家賃も安いですが、それが必要無くなる上、こちらから管理費として毎月五万出します。広さも十分ですし、何か問題でも?」
確かに好条件ではあるものの、これまでのあれこれでつい清人の言う事については、頭から疑ってかかる習性が身に付いていた恭子は、不信感ありありの表情で彼の横顔を凝視した。
「私的には、異存はありませんが……。わざわざ私に管理費を払ってまで私を住まわせなくても、賃貸に出せばよろしいのでは? あそこの立地条件なら、固定資産税を払っても余裕の家賃設定が出来る筈ですが」
運転中であり前方を見ながらも、顔の左半分に痛い位の視線を感じた清人は、些か疲れた様に小さく息を吐き出してからそれらしい理由を述べた。
「……あそこは、俺が独立して初めて、独力で手に入れた部屋ですから、色々思い入れがあるんです。下手に見ず知らずの人間を、入れたくはありません」
「私は構わないんですか?」
「既に招き入れて、一時期同居していますから今更です」
一瞬不思議に思ったもののすぐに過去を思い返し、恭子は苦笑しながら頷いた。
「そう言えばそうでしたね。分かりました。明日……、はさすがに無理ですが、明後日には引越しします」
「そんなに早くできますか? 無理しなくても良いですが」
僅かに眉を顰めつつチラリと助手席を見やった清人に、恭子が平然と応じる。
「いえ、生活に必要な物は先生のマンションに丸ごと残っている筈ですから、家具や食器類をリサイクルショップに売る算段をつけたりゴミとして捨てる手筈を整えて、衣類や小物でダンボール箱で何箱か運ぶだけですから」
そう言って早くも「あれとあれの中身で、箱二つ分位かしら?」などと呟きながら段取りを考えている恭子に、清人は密かに溜め息を吐いた。
「相変わらず、あっさりとしていますね」
「こんなものだと思いますが?」
「そうですね……。それから、後からスーツを揃える為のお金を渡します。小笠原物産の件は長期に渡りそうなので、おかしくない程度に小物も含めて整えて下さい。これは必要経費です」
「分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます」
そうしてアパート最寄駅沿線の駅前で降ろして貰った恭子は、自宅に戻るなり、早速引越しの算段を立て始めた。
大して広くもない安普請の1Kであり、リサイクルショップに翌日の見積もりと買い取りの要請を済ませてしまうと、後は衣類と必要最低限の小物で一時間もしないうちにあっさり纏まってしまう。しかしここで第三者が見ていたら絶対に口にしないであろう言葉を、恭子は口にした。
「何か、増えてる……」
大き目のダンボール三個程に収まる自分の全財産を、恭子は少しの間憮然として眺め、次いで自分自身を慰めるように、独り言を発した。
「ほら、だって、お屋敷から出る時には、余計な服とか小物とか一切持って来なかったもの。服を全部捨てれば、大して増えてないわよね」
そこで自分が口にした言葉で、恭子は唐突にある事に気付いた。
(そうか……。いつの間にかお屋敷で暮らした年月より、ここで暮らした方が長くなっていたんだわ……)
そんな事を考えつつ、恭子はここに来た当初と大して変わらない殺風景な室内を、無言で感慨深げに見回していた。
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