第30話 内通者

 二月に入ったある日、講義が終了して次の教室へと向かいながら、朋美は並んで歩く清香に、さり気なく話しかけた。


「清香。今年のバレンタインはどうするの? 勿論、聡さんにあげるんだよね?」

「いつも通りお兄ちゃんには作るけど……、聡さんには渡そうか渡さないか迷っているの」

 本気で悩んでいるらしい口振りに、朋美は驚いて足を止めた。


「はぁ!? 付き合い出して、初めてのバレンタインよ? ここは気合いを入れて、手作りチョコを渡すところよね!?」

「だって、私、料理の腕前が皆無と思われる顔みたいだし」

「……ごめん、私にも分かる様に話して」

 がっくりと項垂れながら言われた台詞の意味が分からず、朋美が説明を求めると、清香が真顔で事情を語り始めた。


「だって、今まで五人に手作りチョコを渡したら、そのうち二人に受け取りを拒否されたの」

「何それ」

「そして他の三人は貰ってくれたけど、当日中に一人、翌日二人に『やっぱり貰えない』って真っ青な顔で返されたの。開封もしないでそのままって、私の作った物を、食べる気にならないって事じゃない?」

 そう言って更に落ち込んだ様子を見せた清香に、朋美は流石に清人に対する怒りが湧き上がった。


(清人さんっ! あん、何て事をしてくれたんですか!? しっかり清香のトラウマになてますよ!!)

 恐らく過去に手段を選ばず、相手にチョコを突き返させたであろう清人を、胸中でひとしきり罵ってから、朋美はある決意をして口を開いた。


「清香、今年はやっぱり作るべきよ」

「そうかな? お兄ちゃんは、私の作った物は何でも喜んでくれるけど、聡さんは迷惑に思わない?」

 自信なげに問い掛けてくる清香に、朋美は溜め息を吐きそうになるのを堪えながら言い聞かせ始めた。


「私が今までそんな話を聞いた事が無かったって事は、それは小中時代の話よね?」

「うん、そうだけど」

「そんなお子様時代の、所謂ガキの言動に、未だに引きずられてどうするの。料理が下手そうな外見云々の問題じゃ無くて、大方周りの連中にチョコを貰った事を冷やかされて、恥ずかしくなって発作的に返したとか、そんなところよ」

「そうなのかな?」

 まだ疑わしい顔の清香に、朋美は大きく頷いてみせた。


「実際、清香の料理を食べて腕前を知っている私が保証するから、何も心配要らないわ。聡さんは絶対喜ぶから、自信持って作ってあげなさいって!」

「そうかな……、朋美がそう言うなら、今年は二人分作ろうかな?」

「悪いこと言わないから、そうしなさい」

「うん、ありがとう朋美」

 漸く明るいいつも通りの笑顔に戻った清香と共に、朋美は次の教室に向かって再び歩き始めたが、次の休憩時間、適当な理由を述べて清香から離れた朋美は、携帯である人物に連絡を取った。


「……もしもし、真澄さんですか? 朋美です。今大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。頼んだ件、どうなったかしら?」

 以前から清香の周囲の情報源が、絶対に彼女の近くにいると確信していた真澄は、清香から朋美の存在を聞き出した段階で、彼女がそれだと目星を付けていた。しかし彼女なりの事情があると察して、これまで静観していたのだが、今回は敢えて清香を介さずに連絡を取ってみて、動揺する彼女に事情を話、ささやかな協力を要請していたのだった。すると案の定、朋美は憤慨しきった声を返してくる。


「チョコを作って、渡す様に誘導しました。今回だけは全面的に、真澄さんの意見に賛成です。何、妹のトラウマになる様な事をしくさってるんですか、あの人はっ!?」

 現状としては清香に近付く男を排除する役目を担わされている朋美だが、基本的に親友思いの彼女が、清人に向かって直接言えない分、怒りまくって自分に訴えてくる内容を、真澄は黙って聞いてから、疲れた様に溜め息を吐いた。


「……本当に、普段冷静な人間が見境無くなると、手に負えないっていう良い実例ね。協力ありがとう、朋美さん」

「どういたしまして。今回のこれは清香にバラした訳では無いし、清人さんとの契約の範囲外の事ですから」

 きっぱり言い切った朋美に、真澄はつい小さな笑いを漏らす。

「今回は、お互いの意見が一致して助かったわ。ついでにアフターケアもお願いできるかしら?」

「勿論、この件に関しては、最後まで面倒を見ます。安心して下さい」

 清香へのこれまでの罪滅ぼしの意味でも、朋美の意思は固かった。


 そしてバレンタインを控えた日曜日。朝食を食べながら清人は清香に確認を入れた。

「清香、今日は正彦君と出掛ける予定だったか?」

「悪いけど、正彦さんには昨日急遽断りを入れたの。どうしても今日じゃ無いと空かないと言われたから、そっちを優先しようと思って」

 あっさりと言われた内容に清人の箸の動きが止まり、若干声のトーンが低くなる。


「……じゃあ誰と出掛けるんだ? 小笠原君か?」

 何とか顔を普通の状態に保ちながら、(清香に無理を言って予定を入れさせたのか?)と密かに憤っていると、そこで清香が思いもかけない事を言い出した。

「午後から真澄さんが、ここに来るの。昨日言ってなかったかな?」

「は? いや、聞いていないが……。彼女が何をしに、ここに来るんだ?」

「バレンタインのチョコを作りによ」

「はあぁ!?」

 驚きの声を出しただけでは足りず、無意識のうちに箸を取り落としてしまった清人に、清香は非難がましい視線を浴びせた。


「何? 別にそんなに驚く事は無いでしょう?」

「……彼女、食べられる物を作れるのか?」

 思わず漏らした内容に、流石に清香が怒りの声を上げた。


「もう! お兄ちゃんまで、聡さんと同じ事言わないで。幾ら何でも真澄さんに失礼じゃない!」

「彼が何だって?」

「明日出掛けないかと言われて、真澄さんと一緒にチョコを作る約束をしたからと断ったら、少し黙った後『食べられるの? それ』って言ったの。当然叱りつけたわよ、全くもう! キャリアウーマンだからって、料理ができないなんて思い込みは、失礼極まりないわ!」

 その時のやり取りを思い出したらしく、怒りを増幅させた清香を眺め、清人は不覚にも(初めてあいつに、親近感らしき物を感じた)と思ってしまった。

 そんな風に呆然としていると、清香はまだ怒ったまま、清人に宣言した。


「そういう訳だから、お昼過ぎからキッチンは使うから」

「ああ、分かった……」

 そして清人は何となく落ち着かない気分のまま午前中を過ごし、昼食を取って後片付けが済んだ所で、エントランスからの呼び出し音が鳴り響いた。それは予想に違わず真澄からの連絡で、清香がモニター越しにやり取りしてから、出迎える為に玄関へと向かう。

 そしてすぐに大きめの紙袋を抱え、片手にはバッグを提げた真澄が、清香と話しながらリビングに現れた。


「本当に、今日は押し掛けちゃってごめんなさいね。お邪魔します、清人君」

「こんにちは」

 ソファーに座って新聞を読んでいた清人に、真澄が愛想良く声をかけたが、清人は辛うじて非礼にならない程度に挨拶を返しただけだった。しかしそんな態度を気にもせず、ダイニングテーブルの上に真澄が持参したチョコの材料らしき物を取り出しながら、女二人は話を続ける。


「真澄さん、話を聞いた事無かったんですけど、毎年チョコを作っていたんですか?」

「今年は偶々よ。ちょっとあげたくなった人が居たから、作ってみるのも良いかなって」

 その真澄の言葉に、清人は新聞を捲る手の動きを止め、清香は期待に目を輝かせた。


「どんな人ですか? 職場の人とか?」

「それなら手作りなんかしないで、既製品を買うわ。でもよくよく考えてみれば、私、義理チョコの類も渡した事は無かったわね。買いに行く時間と、お金の無駄だと思っていたし」

 小さく笑いを零しながら真澄が答えると、清香が尚も答えをねだった。


「それなら益々、どんな人か気になるなぁ」

「それは内緒。だけどいざ作ろうとしたら、家のシェフが『厨房を破壊しないで下さい!』と言って、断固として使用拒否するんだもの。ふざけてるわ」

 手の動きを止めないまま憤慨してみせた真澄に、清香は僅かに顔を強張らせ、慎重に尋ねてみた。


「真澄さん。どうしてその方は、真澄さんが厨房に入るのをそんなに嫌がるんですか?」

「真顔で『危険過ぎる』って言うのよ。確かに以前、ちょっと炎が燃え上がって火事になりかけて、何かの弾みでオーブンが爆発して、ちょっと手が滑って包丁が飛んだ時、偶々シェフが水を飲みに来て、鼻先にそれが刺さったけど。年を取って、心配性になったみたい」

 真顔で淡々とそう述べた真澄に、清香と清人は無言になり、心の中で突っ込みを入れた。


(それなら、当然だと思う)

(それなら、以前のあの特製ジュースのレシピは、どうやって考えたんだ?)

 そんな動揺している兄妹の心境など推し量る筈も無く、真澄は明るく清香に声をかけた。


「清香ちゃんの指示通り、材料は揃えて来たわ。指導を宜しく」

「うん。任せて」

 一応笑顔を浮かべた清香だったが、心なしかその顔が微妙に強張っているのを見て取った清人が、ソファーから立ち上がりながら、恐る恐る口を挟んだ。


「清香? 一応、俺も見ているか?」

 しかしここで顔付きを険しくした清香が振り返り、清人にきつく言い聞かせる。


「一緒にお兄ちゃん用のチョコを作るんだから、見ていたら駄目でしょう!? 毎年貰った時の、お楽しみなんだから」

「いや、しかし」

「締切が近いから、今日は頑張るって言ってたじゃない。ほら仕事仕事!」

 尚も言いかけた清人に清香は走り寄り、両手で仕事部屋の方へと押しやった。それで清人は説得を諦め、大人しくリビングを出て行きながら一言付け加える。


「それじゃあ、何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」

「分かってる」

 力強く頷いた清香に一抹の不安を覚えながらも、清人は大人しく自身の仕事部屋へと入った。そして真っすぐ机に向かって、やりかけの原稿に再び手を付け始めたが、十分も経たないうちに両手で頭を抱えて音を上げる。


「……勘弁してくれ。気になって仕事になるわけないだろうが」

 しかしそんな愚痴を零しても、締め切りが待ってくれる筈も無く、五時近くになってから清人は漸く何とか仕事に一区切りつけ、立ちあがって仕事部屋から出て行った。

 そしてキッチンに入ると、カウンターの向こうのダイニングテーブルで、真澄と清香が何やら手を動かしながら、語り合っているのが見える。


「それで、ここにこれを通して、捻って? そのままこっちの方向に引っ張って纏めるの」

「こう、かな? ……うん、上手くできた!」

「綺麗にできたわね。早速使えるわよ?」

「ありがとう真澄さん。……あれ? お兄ちゃん。休憩?」

 人の気配を感じた清香が振り向いて声をかけてきた為、清人は曖昧な頷きを返した。


「ああ、何か飲もうかと思って……」

 そうして清人が黙ったまま、清香が手にしている物に目をやると、それを察した清香が嬉しそうにそれを差し出してみせる。

「チョコを冷蔵庫に入れてからお茶にして、その後真澄さんにリボンフラワーの作り方を教えて貰っていたの。可愛いのができたでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 サテンのリボンとビーズを束ねて作ったらしい、小さなコサージュの様に見えるそれを、思わず清人は凝視した。


「わざわざ持って来て頂いたんですか? すみませんでした、真澄さん」

「余り物をついでに持って来ただけだから、気にしないで」

 そう言いながら、真澄は既にラッピングされている手のひらに乗るサイズの、しかし結構深さのある二つの箱に手早くリボンをかけ、更に結び目の所に、先ほど清香と作っていた物を飾りつける。


「さてと、これで完成」

「うわ~、素敵。売り物みたい、真澄さん」

 その出来映えに思わず誉め言葉を口にした清香に、真澄もにっこり笑ってから、持参した袋をごそごそと漁った。そして目的の物を引っ張り出す。


「ありがとう。じゃあ最後の仕上げに、清香ちゃんにこれをあげるわ」

「何ですか? これ」

 一見何の変哲もない保冷バッグの様な、銀色で僅かにモコモコしている袋状のそれを、清香は不思議そうに見つめた。すると真澄は仕上げたばかりの箱を、その袋の中に入れながら説明を始める。


「持ち歩く間に、せっかくのデコレーションが崩れたりしたら勿体無いでしょう? これは今度うちで取り扱う新製品なの。ここの横のラインを見ていて?」

「ここですか?」

 箱を入れて直立している袋の縁から縁へ横に延びている線を清香が見やると、真澄は左手で袋の左縁を押さえ、右手で右端に付いていた何かのラベルを勢い良く引っ張ると、それは繊維状のものを引き出しながら外れた。そして十秒程してから清香に促す。


「ほら、どうなったのか分かる?」

「え? あ、凄い! 何もしてないのに線の所で密着してる! 不思議」

「凄いでしょう。専用の圧着機とか熱で溶着させないで、出先で手軽に密閉できるの。清香ちゃんを驚かせたくて持ってきちゃった。チョコを入れて保管運搬するのに使ってみて」

「うわ~、面白そう! 早速使ってみます」

 ウキウキと清香がそれを受け取ると、真澄が手早く荷物を纏めた。


「そろそろ失礼するわね。迎えが来る頃だし」

 そこで唐突に携帯の着信音が鳴り響き、真澄が自分の物をバッグから引っ張り出して時間を確認しつつ、苦笑いで応答した。


「五時ジャスト、さすがね。今降りるわ」

 そして再び携帯をしまい込んでから、清香とキッチンでお茶を煎れ始めた清人に向かって、声をかけた。

「下に車が来ているから、失礼するわ。お邪魔しました」

 そして下まで送ると言った清香を、真澄は玄関での見送りで押し止め、彼女はすぐにリビングに戻って来た。


「もう少ししたら、夕飯を作り始めるから」

「それは構わないが……、流しも綺麗に片付いているし、終わったのか?」

「うん」

「そうか」

 そこで何やら言いたげな清人の気配を察したのか、清香がボソッと言い出した。


「お兄ちゃん、柏木のおじさんのお家ってお金持ちなんだよね? 専属の料理人だって、いるみたいだし」

「そうだな。それが?」

「真澄さんが、厨房に立ち入り禁止の理由……、分かった気がする」

 視線を逸らしながら言いにくそうに述べた清香から、清人はキッチン全体に視線を移して眺めやった。そして平然と言い聞かせる。


「まだマシな方だと思うぞ? 短時間で綺麗に片付く程度なんだから」

「え?」

 当惑した清香に、清人は淡々とある事実を告げた。


「香澄さんも深窓育ちだったから、結婚当初、家事は壊滅的だったからな。父さんは仕事で忙しかったし、必要に迫られて俺が一通り教えたんだ。……俺はあれで『忍耐』という言葉の、本当の意味を悟った」

「……………………」

 清人が真顔でそう告げると、キッチンに不気味な沈黙が漂った。

 清香としては(確かにあまり手際良く無かったけど、あれでもマシになった方なんだ)という驚愕や、(十歳の義理の息子に、家事を指導される継母ってどうなの?)という疑問などが頭の中で渦巻いていたが、母と真澄の名誉の為にも、取り敢えずこの話題はここで終わりにしようと気持ちを切り替える。


「えっと……、それじゃあ、夕飯の支度の前に、チョコの仕上げだけやってしまおうかな」

 そんな事をわざとらしく口にしながら、清香は冷蔵庫に向かった。清人もそれ以上話を蒸し返す事はせず、無言のまま茶を淹れてソファーへと向かう。

 そして清香が冷蔵庫から取り出したトリュフチョコを、ダイニングテーブルで一粒ずつ丁寧に箱詰めし、慎重に包装紙で包みリボンと先ほどのリボンフラワーを付けるのを、お茶を飲みながら何気なく眺めていた清人は、清香が真澄から貰った銀色の袋にその箱を入れた所で、漸く真澄の今回の訪問の意図を悟った。


(しまった……。あんな特殊な物で密封されたら、小細工なんかできないじゃないか!)

 真澄が清香にも正確な目的を悟らせず、聡へのチョコへの手出しを完璧に封じてみせた事に気付いて、清人は小さく歯軋りした。


(あいつの肩を持つ気ですか……。それ以前に、それだけの為に、わざわざチョコを作る話を出したんですか……)

 清人が、真澄に対する怒りに駆られているなど夢にも思わない清香は、楽しそうに清人を振り返った。


「見てお兄ちゃん! 本当に、一瞬でくっついたわ。面白~い!」

「そうだな。良い物を貰ったな」

「うん! これって緩衝材にもなってるし。せっかく作ったリボンフラワーを、崩さないまま見て貰えるわね」

 そんな風に上機嫌で語る清香を、清人は苦々しい思いで見詰めていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る