第8話 八つ当たりの末に
清香に置いてけぼりを食らわされた挙げ句、色々と頭を悩ませる内容を聞かされてしまった聡は、悩んだ末、夜になってから清香の携帯に電話してみた。病院に付き添っているなら電源を落としているかと思いきや、予想に反して普通に応答がある。
「はい、佐竹ですが、どちら様でしょうか?」
その落ち着き払った声に、聡は(兄さんは大した事は無かったんだな)と安堵する半面、(尋ねてくるという事は、俺の名前をまだ登録してくれていないのか……)と、微妙に気落ちしながら口を開いた。
「清香さん、角谷です。今日はわざわざ出向いて頂いて、ありがとうございました」
そう礼を述べると、電話の向こうの気配が途端に慌てたものになる。
「そんな! 角谷さんにお礼を言って貰う必要なんかありません! いきなり中座して、私の方こそ却って失礼してしまいましたし。その上こちらからご連絡しないで、本当に申し訳ありませんでした!」
声の調子だけで清香が最敬礼している様子が見える気がして、聡は思わず笑い出しそうになった。それを何とか抑えながら、相手を宥めにかかる。
「それは構いません。自分の家族の具合が相当悪そうだと聞いたら、誰だって動揺しますよ。それで……、先生のお加減はいかがですか?」
それを聞いた清香が、益々申し訳無さそうな口調で詳細を伝えてきた。
「ご心配かけてすみませんでした。実は思ったより酷く無かったみたいで、帰宅したら大人しく横になっていたんです」
「そうだったんですか? それは何よりでしたね」
「はい。病院にも行かずに済みましたし、夕食も消化の良い物を食べられましたし、もう心配要らないと思います」
「それを聞いて、俺も安心しました」
聡は口ではそう述べたものの、内心では(ひょっとしたらと思ったが……。やっぱり仮病で、あの男とグルか)と断定し、密かに項垂れた。しかし1人で悶々としている訳にもいかない状況を思い出し、慎重に会話を再開する。
「それで……、清香さん。実はあなたにお話ししないといけない事があるのですが……」
「はい、何でしょうか?」
怪訝そうに問い返す清香に、聡は(もう兄さんにばれているなら、変に名前を偽っていたら益々印象を悪くするに決まっているし、ここは思い切って)などと考えながら口を開いた。
「初対面の時に角谷と名乗りましたが、実は本名は違うんです」
「え? それなら角谷と言うのは偽名ですか?」
「いえ、偽名では無くて職場で使っている通称です。初めてお会いした時、プライベートにも関わらず、ついうっかりそちらを名乗ってしまって、なんとなく訂正する機会を逸したまま、これまでズルズルと。申し訳ありませんでした」
「それは構いませんが、そうなると本当のお名前は、何と仰るんですか?」
不思議そうに尋ねた清香に、聡は一拍空けて本名を告げた。
「……小笠原です」
「小笠原さん、ですか?」
「はい」
怪訝な声でどこか躊躇いがちに問い返す清香に、聡は叱責もしくは非難されるのを覚悟した。
(やはり『小笠原』の名前位は知っていたか? どうして黙っていたのかと責められても仕方が無いが、ここで正直に言っておかないと、後々面倒な事になりそうだし)
しかし聡が無自覚に醸し出すそんな緊迫した空気とは裏腹に、清香はいたってのんびりと答えた。
「私は全然気にしていませんよ? ついうっかり、慣れた名前を口にしただけなんですよね? 私を騙そうとして、意図的に名乗ったわけじゃ無いんですから」
(やっぱり母さんに関する事は、兄さんから微塵も聞いていないらしいな)
明るく朗らかに言われてしまって、却って絶望的な心境に陥ってしまった聡だったが、更に予想外の台詞が耳に飛び込んできた。
「でも角谷さ、ええっと……、小笠原さんが、二十五歳ってお伺いした年齢の割に、落ち着いて見えた訳が分かりました」
「え? それはどういう意味ですか?」
「どういうって……、小笠原さんはもう結婚していて、結婚を機に奥様の方の苗字に改姓したけど、仕事上は旧姓のまま通しているんですよね?」
「は?」
「もう既に家庭を持っているなら、年齢より落ち着いて見えるのも道理です」
しみじみと語られた清香の話に聡は固まり、次いで慌てて弁解した。
「それは誤解です清香さん! 俺はまだ結婚していませんから!」
「え? そうなると本人に向かってはもの凄く言い難いですし、口に出すのもとても失礼なのかも知れませんが……、ひょっとして小笠原さ」
「あのですね! 今、何か変な想像をしてませんか? お願いですから、俺の勤務先の名称を思い出して欲しいんですが!?」
何やらまた妙な考えを口にされる前にと、聡が必死で訴えた内容に、携帯を介して清香が考え込む気配が伝わる。
「小笠原さんの勤務先ですか? えっと、確か小笠原物産の営業部で……、小笠原? え? あ、まさか……」
そこで言葉を区切った清香に、聡は心底安堵しながら事情を説明した。
「ええ、実は父がそこの代表取締役社長を務めています。色々対外的な事があって、入社するに当たって、父の旧姓を名乗らせて貰っているんです。父は婿養子ですから」
「ああ、そうなんですか。良く分かりました。親の会社に入社したりすると、確かに色々大変そうですよね」
(何だかもう、どっと疲れが出た)
一連のやり取りで、精神的な疲労感を一気に覚えてしまった聡は、これ以上会話を続行させる事を諦めた。
「それでは先生の容態が確認できましたし、これで失礼します」
「いえ、こちらこそ心配して頂いてありがとうございました。お兄ちゃんにサインして貰ったら、お渡ししますのでまた連絡しますね?」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
そうして表向き平穏に会話を終わらせた聡は、携帯を耳から話して深々と溜め息を吐いた。
「とても諸々を打ち明ける雰囲気でも、気力も保てなかった。……また今度にしよう」
極めて後ろ向きな発言をして現実から目を逸らした聡は、初手の躓きが後々祟るという事に、この時まだ気付いていなかった。
「う~ん、やっぱり社長の息子って分かると、社内で色々大変なのかな。あまり気にしなくても良いんじゃないかと思うけど」
リビングで首を傾げながら清香が携帯を閉じると、パジャマ姿で起き出してきた清人がドアから顔を覗かせていた。
「清香? 誰かと電話してたのか?」
「うん、小笠原さんと」
「小笠原?」
途端に目を細め、ピクリと眉を動かした清人に、清香が事も無げに聞いた内容を伝える。
「角谷さんの事。初めて会った時、つい職場で使ってる通称を名乗ってしまって、今までうっかり訂正するのを忘れていて申し訳無かったって謝られたの。別に大した事無いのに、律儀な人だよね」
「……へぇ、つい、うっかり、ねぇ」
かなり皮肉を交えた清人の口調だったが、自分の考えに浸っていた清香はそれに気がつかなかった。
「それにね? お兄ちゃんの具合を心配して、わざわざ電話してくれたの。お店に置き去りにしちゃって失礼な事をしたのに、気を悪くしたりしないで。やっぱり思いやりのある、優しい人だわ。そう思わない?」
「……ああ、そうだな。今度本を渡す時にでも、俺も礼を言っていたと伝えてくれ」
苦々しい思いを抑えつつ清人が型通りの受け答えをすると、清香は益々嬉しそうに言い出した。
「うん、ちゃんと伝えるね。それで、そんな優しい人のお母さんってどんな人だと思う?」
「さあ、どんな人だろうな……。あまり想像できないな」
話が嫌な方向に向かって行くのを察した清人は、不機嫌そうに話の流れを断ち切ろうとしたが、清香は思うまま話し続ける。
「やっぱり凄く優しくて、子供思いの人だと思うなぁ。あのカバーを見ても繊細で上品そうな印象を受けるし、一度会ってみたいなぁ、なんて」
「駄目だ!!」
「お、お兄ちゃん? 急にどうしたの?」
突然自分の台詞を遮って怒鳴った清人に、清香は驚いて目を丸くした。次いで恐る恐る清人に問いかけると、清人は幾分バツが悪そうに目を逸らしつつ、しかし語気強く言い聞かせてくる。
「その女性は病気で入院中なんだろう? 経過が良いと言っても見ず知らずの他人が押し掛けて良い状態の筈が無い」
「それは勿論、そんな事はしないわよ? 会えるなら会ってみたいなって言ってみただけで」
「それから、その小笠原さんとやらの前で『お兄ちゃん』とか連呼してないだろうな?」
「え?」
慌てて弁解しようとした清香だが、今までまさに清人の事をそう連呼していた清香は固まった。それを見越した様に清人が畳み掛ける。
「常々『子供扱いされたくない』と文句を言ってる割には、言動が子供じみているぞ。相手がそういう風に気遣いができる大人で、それにふさわしい言動をしているなら、対するこちらもそれ相応の対応が必要なんじゃないか? 俺に向かって『お兄ちゃん』と呼び掛けるのは構わないが、他人に向かっては『兄』と表現する位の分別は持って欲しいものだな。清香はもう二十歳なんだし」
「……はい」
「そして、必要以上相手に馴れ馴れしい態度を取らないのが、本当の大人というものだろう。これからは今まで以上に、言葉遣いに気をつけろよ?」
「気をつけます」
「じゃあ、俺は水を飲んで寝るから」
「うん、おやすみなさい」
すっかり項垂れてしまった清香を見て、清人は八つ当たりだと完全に理解していたものの、怒りを抑える事ができず、素っ気なく言い捨てながら踵を返した。
そんなやり取りがあってから数日後。清香と聡は連絡を取り合い、週末に某ホテルの一階ロビーに入っている喫茶店で待ち合わせた。
しかし席に追い付いた清香が、聡に問われて清人について話そうとする度に、妙に口ごもったり、言い直したり、口癖の『お兄ちゃん』が『兄』に置き換えられていたりと、聡からすると挙動不審さが際立っており、サインして貰った本を受け取るのもそこそこに、清香を問い詰めた。
「……という事があったんです。おに……、あの、兄にしてみれば、私は相当子供に見えてるんだろうなって思……、見えているかと思いますし、小笠原さんに対しても、初めて会った時から結構馴れ馴れしい言葉遣いをしてたかな~って、いえ、失礼をしていたのではと、今更ながらに不安になりまして」
清人に叱責された夜の経過を一通り語り、俯いて黙り込んだ清香を見た聡は頭痛を覚えた。
(兄さん、何も清香さんに八つ当たりする事はないだろう? そもそもの原因の俺が、言うべき事じゃないが。さて、どうするか……)
いつも明るい笑顔を向けてくる清香が、すっかり萎れて落ち込んでいるのを可哀想に思った聡は、何とか慰めようと口を開いた。
「清香さん、先生は何もあなたが憎くてきつく当たったわけでは無いんですから。それは分かっているでしょう?」
「ええ、はい、それは重々」
「どうやら先生が危惧したのは、俺が年相応に見えずに落ち着いていると清香さんが評した為に、清香さんのいつもの口調だと失礼に当たるかもと考えた事らしいですし。言わば老婆心ですから、あまり気にされない方が良いです」
「それはそうなんですが……」
「だからその対策として、俺はこれから清香さんに対して、同年代の人間に対する様に喋るから。清香さんもそのつもりで」
「はい?」
いきなり聡の口調が変化したのと、言われた意味を捉え損ねた清香は、思わず軽く目を見開きながら相手を見返した。すると聡は面白い物でも見つけた様に、ニヤリと笑いながら主張を繰り出す。
「俺も見ず知らずの女性に馴れ馴れしく話しかけるのはまずいと思ってたから、これまでは仕事上の口調に準じて喋ってたけど、もう見ず知らずじゃないから、そこら辺は構わないよね?」
「あ、えっと、それは……」
「だから、俺が馬鹿丁寧な言葉遣いをして、かなり年長者に感じさせる事が問題なんだろう? こういう言い方をする相手には、清香さんも気兼ねなく話せるよね? ああ、いっそのこと『清香ちゃん』とか『清香』とでも呼ぼうかな?」
「いえ、あのっ!そ、それは……」
流石に気恥ずかしいものがあり、それは止めて貰おうと口を挟みかけた清香に、聡があっさりと告げた。
「勿論俺の事は『聡さん』とか『聡』で良いよ? 寧ろ聡って呼んで欲しいな」
「……小笠原さんって、実はタラシですか?」
「タラシ? 俺が?」
清香が思わず疑惑の目を向けると、それを真正面から受けた聡は一瞬キョトンとし、すぐにお腹を抱えて爆笑した。いきなり大笑いされた清香が、些かむくれながら文句を言う。
「そこまで笑わなくても……」
「ごめん、悪かった。だけど自分の名前を呼び捨てにして欲しいって口にしただけで、女たらし扱いされたのは初めてだったから」
何とか呼吸を整えた聡は、清香に謝ってから苦笑交じりに話を続けた。
「話を戻すけど、だから俺の前では幾らでも『お兄ちゃん』って言って大丈夫だよ? 君の事を笑ったりしないし、寧ろ清香さんが先生の事を『お兄ちゃんが』って話している時は凄い良い笑顔をしてるから、見ているこっちまで嬉しくなる。『兄が』って緊張して話している時とは雲泥の差だ」
そう嘘偽りの無い本音を漏らすと、清香がそれを吟味する様に聞き終えてから、小さく笑って礼を述べた。
「ありがとうございます。やっぱり小笠原さんは私と比べると随分大人だと思います」
それに聡がすかさず突っ込みを入れる。
「ほら、清香さん。そういう時は何て言うんだっけ?」
それに清香は反射的に「うっ……」と詰まりながらも、嬉しそうに言い直した。
「えっと……、その。ありがとう、聡さん」
「ああ。まだ二十歳なんだし、そのうち自然に慣れるよ。無理に急いで、つまらないしがらみに捕らわれる事もないさ」
そうして二人の周囲の空気が穏やかになった所で、聡が徐に話題を変えた。
「ところで……、清香さんと図書館で会った時、確か榊原康孝の本を借りてたよね。この作家が好き?」
「ええ、作品は大体目を通しているし」
「そうか。それならこれ、要るかな?」
「何ですか?」
ゴソゴソとジャケットの内ポケットから長方形の白い封筒を取り出した聡は、その封をされていない中身を取り出して見せた。
「映画の試写会の招待券。榊原康孝の『春の波濤』が原作だって。小耳に挟んだ所では、当日監督と原作者も来るらしいよ?」
「え? 映像化の話が有ったんですか!? 全然知らなかった! これ、どうしたんですか?」
驚きと期待で目を輝かせた清香が、思わず身を乗り出して手元を覗き込んで来た為、聡が笑って続けた。
「職場が総合商社の営業部だからね。付き合いとかで色々回ってきたりするんだ。それでこれを見つけたから2枚掠め取ってきたんだけど、良かったら一緒に見に行かない?」
「勿論行きます!」
打てば響くように答えた清香に、聡も満足そうに頷く。
「良かった、貰って来た甲斐があったよ。じゃあここに書かれてある日時に、どこかで待ち合わせしようか。予定は大丈夫?」
「はい、空いてますから。ありがとう、凄く嬉しい!」
兄に怒られた事などすっかり忘れ去ってしまったかの様に、ニコニコと上機嫌に微笑む清香を見て、聡は思わず本音を漏らした。
「うん、清香さんは落ち込んでる顔もそれなりに可愛いけど、笑うとそれより数倍可愛いな」
常には清人以外の者にあまり口にされない賛辞を耳にして、清香は動揺して声を上げた。
「お、小笠原さんっ!?」
「聡」
容赦の無い笑顔での駄目出しに顔を若干引き攣らせつつ、清香が窘めようとする。
「う、……え、さ、聡さん。つまらない冗談は」
「本気だけど?」
「…………っ!」
真顔でサラッと言い返されてしまった清香は、本人が自覚しないままその頬を赤く染めていた。絶句して僅かに俯いてしまったその顔を真正面からじっくりと眺めながら、聡は自分の中で愛おしさが込み上げてくるのを自覚する。
(うん、やっぱり兄さんが、この子を溺愛しているのが分かる気がする)
この時、聡の頭の中を占めていたのは清香と清人の事のみで、あれほど重要だった母親の事は、綺麗に忘れ去られていた。
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