第3話 ファースト・コンタクト
ある土曜日の午後。時間を見計らって、清人達の自宅マンション最寄りの図書館に出向いた聡は、書架の間から首尾良く目的の人物の姿を探し当て、軽く安堵の溜め息を吐いた。
(興信所を使って、彼女の生活パターンを調べさせたものの……。今時の学生にしては珍しくバイトはしていないし、サークル活動もしていないから、接点がな)
そしてスキニージーンズとパーカーの後ろ姿を見ながらほっとしたのも束の間、新たな問題に直面する。
(唯一、ここだったらそれなりに自然に知り合いになれるかと思ったが、どう声をかけたものか。下手するとストーカーとか、不審者扱いされかねないし)
棚を眺めている清香の動きに合わせ、周囲に怪しまれない程度にさり気なく移動しつつ、真剣に悩んでいた聡だったが、清香が頭を動かす度にゆらゆらと揺れる、真っすぐに床に向かって伸びているポニーテールを見ているうちに、ふと思ってしまった。
(ちょっと引っ張ってみたいな、あれを)
そして次の瞬間、自嘲的な呟きを漏らす。
「何、小学生のガキみたいな事を考えているんだ? 俺は」
そうこうしているうちに、既に左手に一冊抱えていた清香が二冊目を取ろうと書架に手を伸ばした。しかし目指すそれは最上段にあり、身長が百六十cm前後の清香が背伸びしてもギリギリ手が届かない高さだった。
普段なら列毎にキャスター付きの台形の踏み台が置いてある筈が、その日に限って何故か清香が見渡す範囲に見当たらず、ちょっと不機嫌そうに棚を睨み上げる。そうしてもう一度背伸びしてみようと踵を上げかけた清香に、背後から声がかけられた。
「俺が取りましょうか?」
「え?」
反射的に清香が振り向くと、チノパンにボタンダウンのカラーシャツを合わせ、ジャケットを羽織った聡がその前に立っていた。そのまま聡が、書架に近寄り上方に手を伸ばす。
「わざわざ踏み台を探してくる程の事では無いでしょう。……確か、これですよね?」
「あ、えっと……」
驚いて軽く目を見開いた清香の前で、百八十cm近い聡は楽々と目的の本を取り出し、彼女に差し出した。
「はい、どうぞ」
爽やかに微笑まれながら差し出されたそれに、清香は一瞬戸惑ったものの、素直に礼を述べて受け取る。
「ありがとうございます。助かりました」
「どう致しまして」
本来ならそこで話が終わる筈が、聡が何気なさを装いながら慎重に口を開いた。
「良くここに来るんですか?」
「はい?」
「そのポニーテールを、ここで度々目に留めていたので」
いきなり何を言い出すのかと怪訝な顔した清香が、僅かに首を傾げながら応じた。
「そんなに目立ちますか?」
「ええ、……ついつい引っ張ってみたくなる、色と形と長さですから」
真顔で告げられたその内容に清香が一瞬キョトンとした後、堪えきれずに噴き出した。
「やだ、子供ですか!? それとも昔、いじめっ子でした?」
「とんでもない、虐められる方でしたよ? だから昔出来なかった事を、今無性にやりたくて仕方がない」
しみじみとした口調の予想外の切り返しを聞いて、清香は益々爆笑したくなった。しかし場所が場所だけに精一杯声量を抑えようとした為、余計に苦しい思いをする羽目になる。
「何ですかそれ? すっごい迷惑です」
「すみません」
そこで清香は何とか笑いを静め、改めて初対面の苦笑している相手を見やった。
「でも度々って、あなたもここの常連さんなんですか?」
「常連と言うかどうかは分かりませんが、月に一・二回は来ていますね。本を読むのも好きですが、図書館の独特な空気と匂いが好き、と言うか」
考え込みながらそう告げた聡に、清香が我が意を得たりとばかりに力強く頷いてみせる。
「そうなんですか!? 私もそうなんです! 良いですよね? 整然と分類されて、年月を感じさせる書物の存在感。日常空間から切り離された雰囲気!」
「あの、分かりましたからちょっと移動しませんか? 他の人の迷惑かも」
「う……、す、すみません」
興奮気味に叫んだ清香に、割と近くに配置されていた閲覧席から幾つかの視線が突き刺さる。それを察した聡が清香を促し、清香もすぐに状況を理解して奥の方へと移動した。
そして多少笑いを堪える様な表情で、聡が口を開く。
「でも確かに珍しいかもしれませんね。女の子が図書館について、そういう風に熱く語るなんて」
「はい、友達にも良く言われるんです。『そんなカビ臭い事言ってないで、もっと周りに目を向けたら?』って」
思わず項垂れそうになった清香を宥める様に、聡が口を挟む。
「趣味嗜好なんて人それぞれですから、放っておけば良いのでは?」
「それはそうなんですけど、昔から進路もそれで決めてしまったので、余計にからかわれるネタなんです」
ここで「はぁ……」と軽く溜め息を吐いた清香に、聡は慎重に話を進めてみた。
「進路? 将来何になりたいのかな? 図書館とか本から連想すると、作家とか?」
「まさか! あんな大変な仕事、私には無理です。私、図書館司書希望で、大学も司書科目を取れる所を選択したってだけで」
大袈裟に片手を振りながら否定した清香に、聡は内心ほくそ笑みながら探る様に言い出す。
「そうなんですか。なるほど。だけど『あんな大変な仕事』って、まるで身近に文筆業の人が居る様な言い方ですね」
「あ、えっと、……まあ、そんなところです」
途端に視線を彷徨わせて曖昧に言葉を濁した清香に、聡はストレートに自分が目的としている人物の名前を口にした。
「まあ作家と言っても、ピンからキリまでありますけど、確かに東野薫位の売れっ子作家とかだと大変そうですね」
「え?」
「どうかしましたか?」
「その、どうしてその名前……」
聡が清人のペンネームを口にした途端、清香の顔が僅かに強張ると同時に、今更ながら警戒する色が浮かぶ。しかし聡はそれに気付かないふりをしながら、淡々と話を続けた。
「『東野薫』の事ですか? 実は母が以前からのファンで、デビュー以来発売された本を、全作揃えているんです。この前も新刊を買って届けたので、何となく名前が出ただけなんですが」
「そうなんですか?」
若干警戒の色を弱めた清香に、聡はスルスルと用意しておいた台詞を続けた。
「ええ。母はその中でも『覇権の階』とか『雷光』とか好きみたいで、繰り返し何度も読んでいます。なんでも初期の頃の作品より、ここ数年の作品の方がストーリーも人物描写も各段に良くなってるからと言ってましたが」
「嬉しいっ! お母様って、本当に本物のお兄ちゃんのファンなんですね!!」
いきなりそう叫びつつ清香が空いている方の手で自分のジャケットの袖を鷲掴みした為、流石に聡は驚いた。
「は? え? あの、ちょっと」
「ああぁっ! ご、ごめんなさい!」
瞬時に我に返った清香が慌てて手を離しつつ謝罪したが、聡は緊張しながらわざとらしく突っ込んでみた。
「いや、それは良いんですが、お兄ちゃんって……」
すると清香は幾分迷いながら、控え目に口を開く。
「あの、実は『東野薫』は私の兄なんです」
「本当に? 凄い偶然ですね」
白々しくそう驚いてみせた聡に、清香が切々と訴える。
「私がその妹だと知ると、『お兄さんのファンなんですよ』と良く言われるんですけど、それならどの作品をどんな風に好きかと尋ねると途端に口ごもったり、トンチンカンな受け答えしか出来ない人が大半なんです。でもお母さんがファンだって仰るなら、その通りなんですよね?」
「勿論です。見ず知らずのあなたに、嘘やお世辞を言っても仕方がないし」
苦笑しているふりをしつつ、聡は密かに冷や汗を流した。
(うっ……、下手に俺自身がファンだとか言わなくて正解だった)
そんな聡の内心など知る由も無かった清香は、頷きながら続ける。
「そうですよね。実は、お兄ちゃんがデビューした翌年に両親が急死して、その直後に私を引き取ったりして、当時金銭的にも色々大変だったみたいなんです」
当時の事を思い出したのか、沈んだ表情になって俯いてしまった清香に、何と言葉をかければ良いのか分からない聡は沈黙を保った。
「そんな事もあって、その後何年か編集さんの言いなりになって大衆受けする物ばかり書いていたから、『その頃の物は今自分で読み返してもつまらない』と言っていて。あ、これは勿論お兄ちゃんがそんな愚痴めいた事を私に言ったわけじゃなくて、アシスタントの人から『私が言った事は内緒ね』って口止めされた上で、こっそり聞かせて貰った話なんですけど」
顔を上げて弁解する様に告げた清香に、聡が安心させるように宥めた。
「分かりますね、それは。どんな職業だとしても新人時代はあるものだし、そういう場合不本意な事が多いのはお約束ですから」
それを聞いた清香は、安心した様に顔を綻ばせる。
「それで『自分の作品だって自信を持って言えるのは、五年目位からの作品だな』とも言っていたそうで、さっき名前を挙げてくれた本がその時期の作品だったから、お母さんは本当に良く読んでくれてるんだなぁって思って、凄く嬉しくなっちゃったんです」
「そんな風に言って貰えるなんて、母が聞いたら喜びます。今度行った時に伝えますね」
ニコニコと告げてきた清香に釣られて笑顔になった聡だが、ここで清香がささやかな疑問を呈した。
「ご両親とは離れて暮らしてるんですか?」
「いえ、同居してますが、今入院中なので」
「え? ご病気なんですか?」
途端に心配そうな表情を浮かべた清香に、聡が取り繕う様に続ける。
「でも大した事じゃありませんから。確かに手術はしましたが経過は順調で、来月末には退院できますし。……そんな心配そうな顔をしないで下さい」
何となく罪悪感を覚えてしまった聡が清香に言い聞かせていると、少しの間、何やら迷っていた様な清香が躊躇いがちに言い出した。
「あの……」
「どうかしましたか?」
「お見舞い代わりと言ってはなんですけど……、そんなにお兄ちゃんの作品のファンの方なら、サインとか貰いましょうか?」
聡にとっては願ったり叶ったりの申し出だったが、あからさまに喜びを露わにする事はできず、控えめに問い返した。
「え? それは嬉しいですが……、そちらに色々とご迷惑では?」
「私は構いません。せっかくですから最新刊とかにサインして貰って、そちらのご自宅に送る様に手配しましょうか?」
「あ……、それはちょっと……」
「何か拙いでしょうか?」
親切に清香がそう申し出たが、そうなると自分の名前と住所を教えなければならず、早々に自分が清香に接触した事が清人にバレる危険性に気がついた聡は、慌てて考えを巡らせた。
偽名を使ったり知人の住所を教えて誤魔化す事も考えたが、本来欲しかったのはサイン本ではなく、清人への足掛かりだった事から考えて、継続的に清香と連絡を取り合える状況を作り出す事が最優先だと結論を出す。そして短い時間の間に脳内をフル回転させ、目の前の人物を何とか丸め込めそうな流れを捻り出した。
「う~ん、サインを貰うだけでも悪いのに、新刊まで頂くのは正直言って気が引けるんです。それに、せっかくだから母が読み込んでいる本にサインして貰えないかと。書き手として、その方が先生も嬉しくないでしょうか?」
「言われてみれば、そうかもしれませんね」
「ですがそちらに本を送りつけるとなると、貴方の住所を聞かなくてはいけませんが……、先生に保安上、不用意に見ず知らずの人間に住所を教えない様に言われていませんか? 勿論俺は、不特定多数の人間に漏らす気はありませんが」
「そうですね……、ファンと言っても色々な人が居ますから、出版社でも公表してないって聞いてますし」
聡の繰り出す話に頷きつつ考え込んでしまった清香に、聡は優しく笑いかけながら打開案らしき物を口に出した。
「だからあなたさえ良ければ、あなたの携帯番号かメルアドを教えてくれませんか? 二人で連絡を取り合って、自宅では無いどこかで直接本をやり取りすれば良いかと」
「あ、なるほど。その手がありましたね! そうしましょう!」
嬉しそうに同意し、左手に抱えていた本を棚の空いているスペースに乗せ、斜め掛けしたショルダーバッグから今にも携帯を取り出しそうな様子の清香に、自分がそう誘導したにも関わらず聡は頭を抱えたくなった。
(見ず知らずの男に住所を教えるのは確かに危険だが、あっさり携番やメルアドを教えるのもどうかと思うんだが)
そして自分の携帯のプロフィールには本名の「小笠原聡」の名前で登録されている事を思い出し、あっさりと赤外線通信でデータ送信はできないと判断する。
そして何か考える前にジャケットのポケットから財布を取り出し、更にその中から仕事で使っている名刺を取り出した。
「すみません。今、手元に携帯が無くて。代わりにこれを渡しておくので、後で都合の良い時に連絡をくれませんか? 仕事中でないので名刺入れを持って無くて、財布に入れていてくたびれた奴で申し訳ありませんが」
続けて取り出したボールペンでサラサラと裏面にメルアドと携帯番号を書き込んで清香に差し出した名刺には、聡が職場で名乗っている父の旧姓である「角谷聡」の名前が刷られてあった。それを受け取って眺めた清香は、少し困った顔をする。
「ええと、ごめんなさい。この名字の読み方は『すみや』さんですか? それとも『かどたに』さんか『かどや』さん……」
「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。『すみやさとる』です。でも読み方をちゃんと確認して貰えて嬉しいです。いい加減な人間はそのまま流して、次回に自分が適当に思った読み方で声をかけますから」
実際、これまでに何度か不愉快な思いをしていた聡が思わず嬉しそうに本音を述べると、清香は多少恥ずかしそうに話を続けた。
「こちらこそ名乗るのが遅れてすみません、佐竹清香です。仕事柄、読み書きに関してはお兄ちゃんが五月蝿いんです。それに加えて『人様の名前を間違えるなんて失礼極まりない。社会人としての礼節に欠けるから、曖昧な場合には初回にきちんと確認する様に』って念を押されてて」
「そう。先生は清香さんの事がよほど大切なんですね」
「どうしてそう思うんですか?」
同じ事を友人に話した時は「口うるさい」とか「厳しい」とか評された経験しかない清香は意外に思ったが、聡は目元を和ませながら当然といった口調で続けた。
「だってそれは清香さんが社会に出てから恥をかかないようにっていう、先生の優しい心配りからきている言葉でしょう? 凄く大事にされてるのが、その一事で分かります」
そう告げられた清香は間接的に清人を褒められた事ですっかり嬉しくなり、満面の笑みで聡を見上げた。
「はい! お兄ちゃんは頭が良くて優しくて何でもできる自慢のお兄ちゃんなんです。だから私も大好きです!」
「そう……」
その時、聡は自分の胸中に、何とも言い難い感情が宿ったのを感じた。
それが清香から絶対的な思慕と崇拝を受けている清人に対する嫉妬心と、兄である清人に対するその感情を躊躇い無く表に出す事のできる清香への羨望である事に気付くのは、もう少し先の事になるのだった。
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