アイちゃんと悪の氾濫
思わず逃げ込んだ、緑の水が波打つ深泥池。コンスタンティアがここは心地がいいとよく言っていたっけ。それは、ここにたくさんの死体が沈んでいるからなのだろうか?
橘と灰淵の一人一人が守ったり、狂いながらも、平和を保ってきた。この中には死体のほかに、何があるのだろう。好奇心は猫も殺すけれど、あたしは何度も死んでいるし、今だったら死んでも構わないと思った。
起きあがって、嫌な臭いのする水に触れようとすると、水面が盛り上がって、顔が見える。あたしは叫んで後ろに下がり、コンスタンティアに思わずしがみついた。じっと、赤い二つの目がこちらを見ている。いくつかの沈黙のあと、その顔はぬらりと腕を出し、池からよじのぼり、水から這い出てきた。
髪は深い青で腰くらいには長く、その体には、四肢がない。いや、あるのだが、その四肢は、ビニル袋に入っている水のようで、途中で切断された四肢につながっている。
体も水の色をして、うっすらと骨や、そして胸にひとつだけ心臓だけが見えるが、それは動いてはいない。顔つきは優しげで、裸だが、男女を見極めるようなものはないが、少しだけ、胸に少女らしいひかえめな膨らみがあるように見える。身長はツォハルよりも高く、コンスタンティアよりは小さい。
あたしにはわかる。赤い目は、赤くなる目は悪魔の目なのだ。
「や、やあ。こんにちは」
声は少し低く、少年のようだった。きごちなく笑う、それ。
「あ、ああ、こんにちは……」
あたしは返す。コンスタンティアの様子を伺うと、はっと、目を見開いて、それがなんなのかわかったようだった。
「し、知り合い?」
「いいえ……、ても、有名な方よ。お会いできて、とても嬉しいです」
コンスタンティアが膝をつき、頭を下げる。
「いいって、そんなのさ、こっちにいる間は関係ないから。顔上げて……。いつか、話をしたいと思ってたけど、おれはここから動けないから。えっと、こっちではメルヴィルって呼んでくれる? それがこっちでの名前なんだ」
そう、手を出す、メルヴィルと名乗った悪魔。あたしはその、水の手を握った。まるでスライムでも触っているような感触だった。
「あたしはアイ。こっちはコンスタンティア」
「うん、知ってる。よろしく」
いつもこの池には居たのに、なんでまた、このタイミングでメルヴィルは出てきたのだろう。そして、なぜここにいるのだろう。
ツォハルが見つけたという、大きな竜とやらでは、なさそうだけれど、メルヴィルはどう考えても悪魔だ。赤い目は、悪魔の目だ。
「そろそろかなと思った頃合いに、来てくれてよかったよ。おれはセイイチロウ……、セイくんって普段は呼ぶんだけど、まあ、それは置いといてね、セイくんに憑いてる悪魔だよ」
あたしはやはり、と思った。
「つまり、うん、セイくんはキミのおじいちゃんで、おれはこの池を守ってるわけなんだ、よね」
メルヴィルは少し目を閉じた。
「セイくんの娘が、しきたりを嫌がってこの地を飛び出したから、セイくんとおれは池を守ってるんだ。池を守らないと、たくさんの、これまでとじこめてた悪いものが飛び出してくるんだよ。この池はずっと昔から呪われていたからね。それで、さ、セイくんも歳だし、おれも、腕と足がなくなっちゃったんだ。あまりに長い時間を、ここで過ごしすぎて」
コンスタンティアは手で口を覆う。
「そんな……、手足は戻るんですか?」
「わからないけど、きっと、セイくんとおれが池を離れることができて、おれがもともといるべき所に帰れば、戻ると思う。おれは、まあ、そこまで弱くはないし……」
と、俯向くメルヴィル。コンスタンティアの反応からして、メルヴィルはかなり悪魔の中でも有名なもののようだ。そう、たとえば、ツォハルのように……。そんな悪魔が、長い時間とはいえ、四肢を無くすほどの呪いを身に受けている。
あたしはおじいちゃんを継いで、コンスタンティアとこの地を守るつもりでいた。シヅルを自由にさせたかった。けれど、コンスタンティアが酷い目にあうのは、嫌だ……。お母さんたちにも悪魔がいて、仲が良くて、その悪魔が呪いを受けることを嫌がったのかもしれない。強い悪魔を従えるべきだ、と、いう言葉が頭に響いている。
「セイくんは、後継にアイちゃんをと思っているみたいだよ。セイくんの言うことは正しいからね」
「……そ、うなんだ……」
おじいちゃんが、あたしを。あたしなら出来るって、そう思ってくれたなら嬉しいけれど。でも、……。
「うん、セイくんは少し先の未来が見えるんだ。シヅルくんとアイちゃん、どちらがいいのか見て……、アイちゃんがいいって。でも、嫌だったり、シヅルくんがやりたがったらそれは本人たちに任せるとは言っていたけれど……。でも、セイくんの顔は深刻だった」
そ、うか。おじいちゃんは見えていたんだ。娘たちに後継を無理やりさせるか、自分とメルヴィルでこのまま続けるか、どっちがいいのか。そして、娘たちが深泥池を離れるのを、本当に、苦しい思いで見送ったのだろう。狂ってしまうのが、わかるから。
そしてわかるから、おじいちゃんは灰淵家に頼んで、アキラの兄のヤマトらを娘の監視役に置いて、すぐに悪魔を殺せたんだ。
おじいちゃんはメルヴィルと一緒だとしても、孤独だった。おじいちゃんだって、強く見えるけど一人で必死に背負って生きてきたんだ。
あたしに大きなテレビと、机を買ってくれたのも、きっとシヅルとあたしが仲良くなることを知っていたから、だったんだ。
おじいちゃんとメルヴィルだって、あたしたちと変わらない、人と悪魔なんだもの。でも、シヅルに憑いているのは御使いだ。
「シヅルがダメなのは、ツォハルのこと?」
「あ、ああ。あれは、ツォハルって名乗っているのか。はは……、バカらしいや。……そうだね、前の代は御使いがここにいたんだけど、その御使いがなかなか同意しなかった。御使いはそもそも、神の使いだからね。人の使いじゃあない。自分の一番やるべきこと、神に従うことができなくなるってことは、それはすなわち御使いでなくなる、堕天する、悪魔になるってことで、奴らが一番恐れていることだからさ」
ならば、なおさらあたしがやらねばならない。どうすれば……、いい答えが見つかるのか。おじいちゃんが、あたしにと言うなら、あたしにできるはずだ。でも、どんな形で?
メルヴィルはコンスタンティアをじっと見る。
「ああ……、キミはリリンなのか。リリンにやらせたことは一度もなかったはずだね……」
リリンとは、悪魔の子だと聞いた。何も恨まず、憎まず暮らす弱い悪魔だと。メルヴィルはリリンではない。
「……その、ごめんなさい、アイちゃん。私には、メルヴィルさまのようなことはできないわ。できたとしても、数年もつかどうか。だから、あまり意味がないと思うの……」
「いや、コンスタンティア、おまえが傷つく姿を見るのは嫌だよ。だからあたしも、あたしが継ぐのはいいけど、コンスタンティアにさせたりやしない」
そのやりとりを見て、メルヴィルは申し訳なさそうにする。
「そうだね。難しいと思うし、おれが引き継ぐのも正直言って、かなり苦しいから、リリンではない悪魔を呼ばなければならないね。ただ、おれが苦しいのは長い時をここに繋ぎとめられていたからだから、いつものように引き継いでいくのなら、断る悪魔なんてほとんどいやしないよ。なんたって、セイくんたちの死の匂いはおれたちを夢中にさせるんだ……」
ごぽごぽと、手足の水から泡の音がする。メルヴィルが体を動かすたびに、泡がたつ。長い髪を、水の手で耳に引っ掛けた。
「その時が来れば、セイくんから話があると思うよ。苦しいかもしれないけど、どうか、セイくんと、それからおれを、この池から引き剥がしてほしいんだ。これ以上の苦しみは、おれには耐えられそうにないから……」
四肢のない身体は、本当に痛々しい。それほどの呪いを何十年も引き受けてきたメルヴィル。この姿を晒すことだって、嫌なはずだ。メルヴィルの正体を、コンスタンティアは知っているようだった。
「その、嫌だったら答えなくていいんだけど、メルヴィルって、偽名だよね?」
あたしが尋ねると、メルヴィルはさっきの憂鬱な顔をからりと変えて、笑った。
「そうだよ! セイくんと出会ったときにつけてもらったんだ。本当の名前を日常的に呼ぶのはまずいからね。と、いうか、コンスタンティア、キミもそうだろう? 本名をもしかして、教えてないのかい?」
コンスタンティアは居心地悪そうに、よくわかっていないあたしに、優しく抱きついた。
「ごめんなさい、アイちゃん。本当に……、ごめんなさいね」
「おまえには、名前がなかったんじゃあないのか?」
前に憑いていた人間につけられた名前、コンスタンティアを上書きしたあたし。名前がないから、つけてくれと言ったと聞いたけど。
「普通は一緒にいると決めたときに、名前をつけるの。あの人と私には、名前を呼びあう必要がなかったから。本名は教えていたわ。最後に、この世界で生きるための名前をもらったのよ。人間に本名を教えるのは、名前を知ることは、一緒にいて、あなたの言うことを聞きますってお約束なの。だから、普段呼ぶときの偽名をつけるのよ。だから、なんだか、私怖くて、アイちゃんに伝えられなかった。ツォハルも、メルヴィルさまも、本名があって、それを教えているのよ」
「あたしには、やっぱり、教えられないか?」
泡の音と、息づかい。呼吸で上下する胸。たとえ、あたしがメルヴィルとおじいちゃんの引き継ぎをするために、コンスタンティアと離れなくてはならなくても、でも、まだ時間はある。
コンスタンティアと過ごした時間は長くはないが、短くもない。喧嘩もしたし、仲直りもした。一緒にいて心地がいいし、あたしの心の支えであり、コンスタンティアの支えにも、あたしはなっているはずだ。
名前を教えることを断られても、あたしは傷つかない。あたしはあたしを殺すことをしっているし、これまで通り、一緒に映画を見て、お風呂に入って、同じ羽布団に体を埋めるだけだ。何も変わらないし、変えられない。
「アイちゃんなら、いいわ。私、すごく幸せよ。アイちゃんが、私を傷つけたくないって、そこまで、思ってくれて。私もそう思っているから。私、自分にとって最高の女の子と出会えたんだわ、って、思ったの……」
どくり、と、血の流れる音が耳に響いている。胸の奥から、生きている証として、主張する音だった。あたしは生きていく、コンスタンティアと、これからを。
抱き合っていた腕を離して、コンスタンティアは腰をかがめて、あたしと目線を合わせた。
「私がお母さんからもらった名前はね、エステルよ。エステル、っていうの。有名な人からとったらしいけれど、私はそこまですごいことはできないわ」
エステル。エステル。心の中で何度も叫ぶ。
「ありがとう、コンスタンティア……」
あたしは口にはしない、その名前を。エステルの気持ちを知っているから、あたしはコンスタンティアと呼ぶ。二人きりでも、エステルの存在はあっても、あたしのそばにいるのはコンスタンティアだ。エステルではない。あたしのそばにずっと居てくれたのは、エステルではなく、コンスタンティアだから。
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