第1話

「お疲れさまでした。お先に失礼します」

軽く頭を下げてバイト先を後にすると、私は足早に歩き出した。車のロックを解除して乗り込む。車内のデジタル時計は午後6時を少し回ったところだった。

悠紀子から『同窓会のお知らせ』というメールが届いたのは一昨日の朝のことで

『明後日の17時半から近況報告会を含めた同窓会を行いたいと思います。

出欠だけ確認したいので今日中に返信をお願いします。

会費は五千円の予定です』

という内容のものが私と奏愛宛てに送られてきた。

崩れていない文章が彼女らしくて、思わず笑ってしまった。親友に送るにしてはあまりに硬い。

悠紀子が指定した居酒屋はバイト先から5分と離れていなかった。真っ赤な暖簾をくぐると、駐車場の空きが多かったにも関わらず、お座敷には十数人の同級生の姿が確認できた。

「波帆ちゃん、こっちだよ」

奥の席で満面の笑みを浮かべた奏愛がひらひらと手を振っている。白いブラウスの袖が動きに合わせて揺れていた。隣に座っている悠紀子は壁にもたれて座っている奥平くんと何かを話している。

あちこちで私に気付いた人が、久しぶり、元気か、と声をかけてくれる。そのひとつひとつに笑顔で返事をしながら、私の目は彼を探していた。

あの後、連絡が幾度かあった。私はそのどれにも返事をすることができなかった。

奏愛の前の空いた席、その隣に衣笠の姿はあった。背を向けた状態の彼に

「こんばんは」

そう言って、私はするりと隣に身体を滑り込ませた。衣笠は軽くこちらを見たが、何も言わずにメニュー表を渡してくれた。


彼の箸の持ち方は綺麗の一言に尽きる。

大きな手の親指と中指がしっかりと箸を支えて包み込む。握り込んだりせず、箸を交差させたりもしないその持ち方を見るたびに目が吸い寄せられる。

ただ、持ち方は綺麗でも使い方はいまいちとしか言いようがなかった。

見兼ねた私が衣笠の手から菜箸を取り上げると、彼はさも当然といった風に私に皿を差し出した。釈然としない面持ちで、それでも鶏肉を数切れと付け合わせの人参をよそって彼に渡す。

「ありがとう」

語尾を持ち上げるような言い方だった。小さな子供を相手にしているような気分になる。

今のやり取りを見つめていた悠紀子が言った。

「傍から見れば二人は夫婦で通るよね」

「やめてよ、そういう冗談」

秋刀魚の小骨を取ることに躍起になっていた奥平くんが、上目遣いで

「本城さんは高校のときから相馬にだけは甘かったよな。僕に対してもそういう態度にならない?」

などと訊くので、私は、ならない、とばっさり切り捨てた。

すげなく断られたにも関わらず、奥平くんは穏やかに微笑んで、そうだよな、などと一人で納得している。お酒の飲みすぎで酔いが回っているのかもしれないと密かに考えた後で、彼はもともと必要以上に感情を波立てない人だったと思い直した。そういうところが衣笠と正反対だったなとも。

「就活って嫌になるよな」

衣笠がそう吐き捨てて、飲みかけだったビールを呷った。ジョッキから落ちた水滴が汗のようだった。彼が同意を求めるように奥平くんに視線を向けると

「僕は院に上がるからまだ先の話だよ」

奥平くんはのんびりと答えた。

ノンアルコールのカシスオレンジを注文しようとしていた私を含め一様に、え、と驚きの声が上がった。衣笠はジョッキから手を離さずに

「お前、就活組じゃなかったのかよ」

「そうしようと思ってたんだけど、今の研究を続けてみないかって教授に誘われてね」

少し照れたように頬をかきながら話す奥平くんは誇らしげだ。

「何よ、あんた達。同じ大学に通っておきながら、そんな大事な話もしてないの?」

「同じ大学っていう括りなら、お前もそうだろう」

批難の口調で正面から顔だけ詰め寄った悠紀子を衣笠がじろりと睨み返す。

普段は犬猿の仲のわりに大人な対応をする二人だけれど、喧嘩をするときは派手だ。こういう時、奥平くんと奏愛はその場に居ないかのように静かになり、仲裁に入るのは私の役目となってしまっている。

私はため息をついて、剣呑な雰囲気を醸し出す二人の間に割って入った。

「通信と通学を一緒にしないの。奥平くんも親友には一言くらい言っておいてもよかったんじゃないかと思うよ」

奥平くんにもさりげなく釘を刺すと、彼は

「相馬の反応は面白いから、つい」

真面目な顔をして悪びれる様子もなく言ってのけた。その言葉に私と奏愛は顔を見合わせて笑い、悠紀子は吹き出し、衣笠は、お前ってそういう奴だよな、と落胆したように肩を落とした。

中断された注文を終えた後、それより、と私は奏愛に尋ねた。

「喫茶店は順調?」

奏愛はにっこり微笑んで、おかげさまで、と頷く。

「波帆ちゃんの所からもお客さんが来てくれるんだよ。『人、ちゃんと入ってるのか』ってみんな心配してくれる」

「うちのマスターがね、弟子が開いた店だって宣伝してるから。他所の店より自分の店の宣伝をするべきじゃないのかって常連さんから突っ込み入れられてたくらい」

あははは、と屈託なく笑ったのは奥平くんだ。

「うちの大学からも近いから、僕と衣笠もたまにお邪魔するんだけど、本当にコーヒーが美味しいよ」

「俺はあの店のチョコレートケーキが気に入ってる。ちょっと苦味があって飽きがこない」

「波帆ちゃんのところが姉妹店扱いしてくれるおかげで、奥さん直伝のレシピを教えてもらって、それをアレンジしてるだけだから」

「何言ってるの。結月さんも奏愛も自分の店の味にしてるじゃん。マスターもあいつは一人前になったって泣いて喜んでたよ」

彼女の働いている喫茶店は私の喫茶店でバイトをしていた人が一昨年開いたのだ。結月さんというのはそのバイトさんで、奏愛の恋人でもある。私は一年だけその人と一緒に働いていた。

お待たせしました、と運ばれてきたアルコール類を手分けして配り、自分の分のノンアルコールに手をつけようとしたとき、ふいに

「波帆、指輪は?」

もしかして落とした。

眉を潜めて心配そうに私を、右手の薬指を見つめる悠紀子から、何の感触もしない指をそっと隠すように撫でる。今にも逃げ出したくなりそうだったけれど、崩さずに座っていたせいで痺れた足先は私が動くことを良しとしない。

悠紀子は知らなかったのだ。

店中の賑やかさがどっと押し寄せてきたようだった。両手で握り締めるようにしたグラスの中の氷がからんと軽快な音を立てた。

「ああ、あのね。別れたんだ、振られちゃったの」

「付き合ってたのか」

小さく衣笠が呟いた言葉に、別れたことを知っていた奏愛が耐え切れずに顔を背けた。

「去年の秋くらいからね。3つ年上の理学療法士だった人」

もう終わったことだから気にしないで。

からからに渇いた喉を潤すために、私はカシスオレンジを一口含んだ。

「僕達、まだまだ若いんだし、次があるよ、次が。なんだったら僕とか将来有望株ですよ」

おどけた口調で奥平くんが自分を推して、それはない、と私が切り返したところで、悠紀子がほろ酔い状態の同級生達を素早く見やり、同窓会の終了を告げたのだった。


二次会に行くという同級生達を居酒屋の外で見送って振り向くと、衣笠がそばの電柱に寄りかかって項垂れていた。酔いのためか、それとも体調を崩したのか、力なく歩くそぶりを見せた彼に

「私、車で来たから、歩けないんだったら送るけど」

と、申し出ると、衣笠はのろのろと顔を上げて、頼む、と呟いた。

我ながら大胆なことを言ったなと思いながら、彼の傍に近付く。人一人分くらいの距離を開けて下から衣笠の顔を覗き込むと、両頬が紅潮して、閉じかけた瞳には薄く膜が張っていた。

「歩ける?」

たぶん、と頷いた彼は電柱から身を離したが、直後にふらりと身体が傾いた。

「危ない」

私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。その腕のがっしりとした筋肉の付きように私と彼は違う性別なのだと唐突に思い出した。

彼はあまり外で酒を飲まないと言っていた。それなのに、今日は珍しくかなりの量のアルコールを摂取していた。ふらふらになるのも当然だ。

衣笠を乗せて車を駐車場から発進させた。すぐに座席をやや倒した彼は腕を組んで俯いている。

なるべく振動の少ないよう慎重に車を走らす。静寂の中にあるのは、エンジン音と微かな息遣い。ラジオでもかけようと左腕をハンドルから離した瞬間

「何かあったのか」

小さく、けれど低く響く声で訊かれた。

「いや、何も特別なことはなかったよ。振られた、ただそれだけ」

行き場を失った左手が衣笠の右手に取られて、触れられたところから熱いくらいの体温が伝わる。

「この前会ったときのことが関係してるのか」

「この前?」

「駅のホームで会っただろ。その時のお前、なんかおかしかったし、今日もおかしい」

無理してるんじゃないか、と付け加えられた言葉。

軽く握られた手から私の全てが流れ出してしまうのではないかと思った。私達は寄り添うことに慣れているけれど、いつだってその関係が友情以上であったことはないのに。

「私ね、もうすぐ大学もバイトも辞めるの。なんだか疲れちゃって」

衣笠との待ち合わせに使っていた駅は目前で、私はハンドルを切るために彼の手を振りほどいた。ウインカーを出して駅への道に入り、ターミナルに車を停車させる。

着いたよ。

酔い潰れている彼のためにシートベルトを外し、自分のシートベルトを外したところで、動かない彼を心配して、助手席に視線を向けた。

衣笠は自分の身を素早く起こし、壊れ物を扱うように私を引き寄せた。一瞬、驚きで身動きが取れなくなった後、すぐさま混乱は春の終わりを伴ってやってきた。私はもがいて離してほしいと懇願したけれど、彼は私を包み込むと私の肩に顔を埋めた。

アルコールと汗の臭い、彼が好んでいる香水。浅い呼吸を繰り返すたびに彼の匂いが私を満たす。

目の前にいるのはあの人じゃない。

それでも抱きしめ返すことはできなくて、右手で彼のTシャツの裾をぎゅっと掴んだ。

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