4 魔人闊歩


「ふふ~~~~ん♪」



 暖かな湯気の満ちる浴室。

 白い煙に包まれて、少女は実に気分のよさそうな声をあげた。

 残念ながら共同浴室は肌着着用が義務付けられているため、裸体ではないのだが――しなやかな両足を思いっきり伸ばし、水面を叩いては弾ける湯しずくを散らす様は無邪気で愛らしい。

 魔術学院女子寮の個室には、浴室が無い。それは設備が古いせいではなく、かつて魔法生物を浴室で飼育した生徒がおり、大問題になりかけたせいだ。

 公共浴場が一般的ではない女王国ではプライバシーが確保できない共同浴室を恥ずかしがって使わず、シャワーで済ます生徒も多い。

 けれど彼女はどこぞの国からの異世界人と同じく、広々として泳ぐことさえできそうな浴槽を気に入っていた。


「やっぱりおっきいお風呂は気分がいいなあ♪」


 時刻は深夜に差し掛かろうとしている。


 時間帯に加え《竜卵》の件のせいで、寮生の一部は里帰りしていて風呂場には彼女以外に人気がなかった。


「……ん?」


 湯煙の向こうで何かが動いた気がして、彼女はそちらに気を取られる。

 しかし人影などはなく、壁面に取り付けられた《鏡》があるだけだ。

 なんだか不気味な気配がする。

 この寮は学院の始まった当初からある非常に古い建物だ。歴史の長さのぶんだけ、語り継がれる《不気味な話》――つまり、怪談話の類には事欠かない。

 最初は気にしないようと努めていたものの、なんとなく気にかかり、早々に少女は湯舟を出ることにした。

 浴室を出た先、シャワーブースと化粧台のあるあたりは、いつも通りの風景だった。生徒証によって開閉できる入口は施錠されたままだし、彼女のもののほかに荷物もない。

 気のせいだっただろうか、と自らの取り越し苦労を笑い、濡れた髪を乾かそうと鏡台の前に座った。

 体の温もりのせいで鏡面がすぐに曇る。


「ここの鏡、古くて曇り取りもないし、やだなあ……」


 何気なく、持っていたタオルで鏡面を拭う。

 その瞬間、自分がそうしていることに気がつく前に、少女は絶叫を上げていた。

 鏡の中にいるはずの湯上りの自分はどこにもいない。

 うつっているのは、真っ黒に塗りつぶされた人影だ。

 黒影はこちらをじっと覗き込み、こちらに指先を伸ばしてくる。

 しかも指は鏡面を越え、少女の目もとに伸ばされている。


「コ…………チョ……………は、ドコ……………だ…………」


 その指先が前髪に触れた瞬間、少女は気を失い、後ろ向きに倒れた。

 一瞬遅れて悲鳴を聞きつけた寮生たちが飛び込んでくるが、そこには倒れている少女以外には何者の姿も認められなかった。



*



 一旦天市に戻り、翌朝、再び魔術学院に向かった。

 送り迎えはリブラの使用人がしてくれる。何も考えずとも目的地に到着する生活というのは、きわめて楽だ。バスや電車の時刻表を頭に入れておかなくてもいいというのは、まさに貴族の特権といえる。

 それにしても、この生活の激変ぶりは特筆に値する。

 こちらに来るまでは学校と家の行き帰りと生活必需品の調達以外にはやることが無い日々を送っていたが、最近は何かと忙しない。

 それはきっと僕が関わる相手が増えたからだ。しかも適当なウソでおざなりの人間関係を築いていた異世界転移前とは違う。かなり大掛かりなウソとハッタリで、綱渡りのような人間関係に翻弄され、ときどき血塗れにもなるようなやつだ。黒曜大宰相が言っていたとおり、厄介で後もどりのしにくいところまで来ている。

 ちなみに厄介な人間関係の筆頭であるリブラは紅華のサポートで忙しそうだった。

 翡翠宮は夜を徹して竜卵の対応に追われてて、黒曜大宰相は既に一週間寝てないとか言っていた。黒曜のほうは、ざまあみろという感情が多めだ。

 ついでに避難するかどうか聞かれたけれど、返答は保留にしておいた。

 で、朝になってまた車を出してくれて、海市にとんぼ帰り……。運転手つきの車というのは気分がいいけれど、保護者同伴みたいで何となく恥ずかしく学院の手前で降ろしてもらう。

 そんな僕の通勤の様子を通学中の生徒たちが不思議そうに見ていた。

 その視線でようやく、貴族連中が多い魔術学院では高級車での送り迎えなんてごく当たり前の日常茶飯事で、とくに珍しい現象ではないのだということに気がついた。だとしたら校内まで乗りつけてもらったほうがまだ目立たず、不自然ではなかったはずだ。

 浅慮を後悔しつつ。

 何人か、礼儀を大事にし過ぎている生徒が挨拶してくるのを適当にやり過ごし、足早にさっさと教室のある建物に逃げ込もうとする。

 厄介な人物選手権の急先鋒に襲われたのは、そんな矢先だった。

 朝のさわやかな校舎、そしてあんまりいい思い出がない噴水を通り過ぎたところで、そいつは待ち構えていた。


「よう、来たな!」


 朝日を浴びて黄金に輝く髪をなびかせながら、仁王立ちで……その名を認識する前に僕の両足は華麗なUターンをキメていた。

 全速力で門へと逃げていく僕の背中を、獅子の爪は逃してくれはしなかった。

 その後の記憶は一瞬飛んで、僕は美しい庭を教室の窓から清々しい思いで眺めていた。 

 まあ胃の中のものが真下の地面を汚しているワケだが、部屋の中でぶちまけなかっただけ偉い。


「記録更新おめでとぉ!」

「おうよ。俺様は日々進化している。おそらくこれは地上で行われたうちで最速の誘拐行為だぜ!」

「人のことをスナック感覚で誘拐するな! そして謎の記録に挑むな!! みんな、僕の人権についてもう少し真剣に考えてくれないかな!?」


 キャッキャと楽し気にハイタッチしているふたり、黄水ヒギリと桃簾イチゲに悪びれた様子は微塵もない。

 そう、僕はヒギリに校門のところで誘拐された。しかも魔術を使われ、光速で誘拐されたのである。

 あの場所での僕の誘拐され率は、ハンパなものではなくなってきている。それこそ世界記録に挑戦できるだろう。


「ていうかぁ、先生はちょっと、魔術学科の教官にしてはガードが緩すぎ? みたいな」

「基本、ありとあらゆる人類にナメられてんだよ、アンタ」


 ぐぬぬぬぬ……。何故、この国の人たちは僕を誘拐したがるんだろう。

 しかもなんで犯罪行為に及んだ側がこうも堂々としているのか。

 その原因を追及するために今すぐおうちに帰りたいが、逃げ出そうとしても遠からず地上最速の誘拐犯に捕まるだろう。

 ここは、当初の目的をとっとと果たしたほうが利口というものだ。


「それで、話って何なの」

 

 何を隠そうこの僕は、ここにいる二人に呼び出されたからこそ避難の誘いも断り真面目に通勤などして学院までやって来たのである。朝はやいのに。

 話を切り出すと、竜鱗騎士の卵であるふたりの顔色が著しく悪くなった。

 明らかにワントーン、彩度が落ちている。

 その様子を見ると、ただ事ではなさそうだ。この世の中で起きる大抵の《気に入らないこと》は暴力で解決できるこの超人的な人種が、これほどまでに困惑している姿を、僕はこれまで見たことがない。

 いや、何回かあるか?

 数えたことがないだけで。

 ただ彼女たちの態度が、ほんの少し興味を引いたのは確かだ。


「……それがさぁ、出ちゃったんだよ。昨日、女子寮で、《魔人》が」


 僕は、驚きに目を丸くした。


「女子寮」

「注目するとこそっちじゃねえだろが!」


 光速のツッコミを受け、僕は再び意識を手放した。

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