第45話 男子高校生

 赤いシートに身を預けたまま、さっきからあたしは何を話したらいいのかわからずに、膝の上で組んだ指を見つめてる。

 カオルさんは何を考えているんだろう。聖蹟桜ヶ丘なんて全ての電車が停まるのに、わざわざ各停に乗るなんて。って、各停で新宿まで行ったあたしが言えた義理じゃないけど。


「高校二年生の時だな」


 いきなりカオルさんが口を開いた。


「初めて漫画の新人賞に応募した。その時の審査員に神代エミリー先生が居た」


 何を言い出すんだろう。カオルさんの事だよね。


「俺たちは爺ちゃん婆ちゃんに育てて貰ったんだが、俺が高校に入るころには爺ちゃんはもう定年になっていて、収入が殆ど無かったんだ。だから俺は焦ってた。少しでも早く俺が独り立ちしてメグを食わしてやらなきゃならないと思った。俺たちさえ出て行けば、あとは年金でどうにかやって行けるだろうと思った」


 そうだ、この兄弟は両親がいないんだ。カオルさんが三歳の時に亡くなったって言ってた。メグル君に至っては親の顔すら知らない。


「俺の作品は最終選考まで残った。これでデビューが決まれば独り立ちできる。俺だけでも先に家を出て、少しでも負担を軽くできる。仕事が貰えるようになれば、メグを呼び寄せることもできる、そう思ってた。だが、俺の作品は最後の最後で落とされた。講評で『勢いはあるが、ストーリーに必然性が無い、話が破綻してる』と書かれた。俺はとにかく焦ってた。焦っていたから、つい、静岡から電車に飛び乗って、神代エミリー先生のところに押しかけてしまった。今考えればメチャクチャだったがな」

「えっ? カオルさんがですか?」

 

思わず口をついて出た言葉に、彼はフッと笑って答えた。


「俺にも若い頃はあった」


 今だってまだ二十四じゃないですか! って言いたいけど、なんかこの人二十四っぽくないんだよな。妙に落ち着いてて。


「神代先生は……面白い人だな、あの人も。俺がいきなり押しかけて『どこがまずいのか教えてください』って言ったら、驚いた顔一つせずに『原稿は持ってきたか』と聞くんだ。俺が『無い』って言ったらすぐに新人賞の事務局に電話して、今から取りに行くから準備しておけってな。あの人も本当にメチャクチャだ」


 確かにメチャクチャだ。でもあの人なら言いそうだ。


「それで俺は神代先生について来るように言われて、八王子からタクシーで虎ノ門まで行った。そこで原稿を受け取って、そのまま近くの超高級ホテルに直行」

「えっ? ホテルですか!」

「そうだ」


 何故かカオルさんが愉快そうに笑ってる。何よ、どうしたのよ。まさか神代先生に食われちゃったの?


「あれには驚いた。バカ広いツインルームで……部屋にダイニングテーブルがあった。そんなの見たことないから、東京のホテルはみんなこうなのかと思ったくらいだ。平日で一泊七万は下らないだろうな。その部屋に入るなり夕飯を選びなさいってメニューを渡されて俺が驚いて固まってたら勝手にフロントに電話かけて、『ルームサービス頼んだから、もし来たらここに運んで貰いなさい』と言い残して自分はシャワー浴びに行っちゃうんだ」

「シャワー! やる気満々じゃないですか!」

「そう、やる気満々。もう俺どうしたらいいかわからなくてカチカチになってた」


 このカオルさんが、緊張でカチカチ! それだけで笑える! いや、ここは笑うとこじゃない。でもカオルさんは笑ってる。あのカオルさんが楽しそうに笑ってる!


「バスローブ状態で出てきた神代先生が、『あなたもシャワー浴びてらっしゃい』って言うんだ。それで俺が断ると『あなた汚い体で神聖なものに触れる気ですの?』って叱られちゃってな、仕方なく俺もシャワー」


 神聖なのか! 神聖なんだな! ああ、ツッコミたい! でも、今のあたしはそれが許される立場にない! しかもカオルさんの神代先生の真似がビミョーに似ててウケる、ちょーウケる!


「んで、俺が出てきたら、そこに寿司がバーンとあるわけ。『あなたお腹減ったでしょ? これ、食べなさいな』って。食えるかよ、こんなに緊張してんのに」


 そうだよね。これから食われるのに、最後の晩餐かいって感じだよね、わかる、わかるよ、カオルさん。


「俺が固まってたら『これから一晩中頑張るんだから、ちゃんと食べなきゃダメですわよ』ってな、自分がパクパク食べ始めちゃって。一晩中って何だよ、一晩中って! 仕方ないから俺も食べたんだが、それがもう本当に旨くて、こんな旨い寿司食ったことないと思ったら、急にメグに食わせてやりたくなってな。ついうっかり『メグ』って声に出てしまった。神代先生は聞き逃さなくてな。『メグってどなたですの?』と聞かれたから正直に答えたんだ。祖父母の家で育てて貰って、あまりわがままが言える立場じゃなかった、こんな旨い寿司は食ったことない、弟に食わせてやりたいってな。そうしたら神代先生がこう言った。『あなたが自分の力でメグさんにこのお寿司を食べさせてあげればよろしいんですのよ。そのために、あなたはここに来た。そうじゃありませんこと?』ってな。そうだ、俺はそのためにここに来たって思いだした。寿司食ってる暇はない、そう言ったら『そのためにご飯をちゃんと食べなさい!』ってまた叱られた」


 あーん、神代先生、いちいち難解すぎる。思考回路が理解できない。


「今になったらあの時の先生の行動の意味が全部わかるが、あの時は本当に意味不明だったな。思い出しただけで笑える」

「今、わかるんですか?」

「勿論だ」


 明大前だ。井の頭線の方から流れて来るのか、人がたくさん乗って来る。女性客の視線が集まってくるのがわかる。カオルさんの美しさのせいで喧嘩するカップルが居ませんように。


「俺も育ち盛りの高校生だったし、寿司も旨かったし、お腹が満たされたらそれまでの変な緊張感がなくなっていい感じに気持ちがほぐれてきた。そこで神代先生はテーブルの上を片付けて綺麗に拭いた。それから手を洗い、歯磨きをして、俺にも同じようにしろと指示を出した。俺は言われた通りにした。不思議と緊張はしなかった。それまでガチガチだったのにな。そして神代先生が俺の目をしっかり見てから言った。『始めますわよ。大丈夫、心配しなくても手取り足取り教えて上げましてよ』ってな。俺はよろしくお願いしますって頭を下げた」

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