女王様の犬のストイックな純情

抹茶かりんと

第1話 半年ぶりの学校と思いがけない転校生

 ドアを開けた途端に目に入った風薫る五月の光は、この半年ずっと家に引き籠っていた身には思いのほか眩しかった。

 一瞬、その光の中に身を置くことに、ためらいを覚える。


 だからだろうか、

「……行って……き」

 発した声が、自分で思っていたよりも弱々しかった。


――ああ、こんなんじゃ、ダメ。


 和花名わかなは息を大きく吸い込むと、意識して声を張った。


「行ってきま~すっ」


 すると、キッチンにいた母親が、今それに初めて気づいたという風に、パタパタとスリッパの音をさせながら玄関先に姿を見せた。


――お母さん、さっきからずっと、こっちの気配、気にしてたよね?


 そんな思いが、自分をいかにも心配そうに見据える母親の眼差しに、つい嫌悪感を生じさせる。


和花名わかな、本当に一人で大丈夫?……何なら車で送って行ったって……」

「やだなーもう。お母さんってば、中三にもなってそれはないって。大丈夫だってば。途中で七紘なづなたちと待ち合わせしてるし……」

「そう……?でも、もし途中で具合が悪くなったら、我慢なんかしないで、早退して来るのよ?なんなら迎えに行ったっていいんだし……」


 何と言うか、過保護なんだよなウチの親は、と、内心鬱陶しく思いながら、そこは辛うじて笑顔で応じる。


「……はいはい、そうするから、心配しなくていいよ。じゃ、行ってくるね」

「何かあったら、すぐに電話しなさいよ」

「は~い」


 そのまま振り向きもしないでドアを閉ざす。その途端に漏れ出る溜息。


――ここで安堵のため息って、どんだけなんだか……


 もともと、和花名わかなの母親には過保護な傾向があったことはあったのだ。

 それが、半年前、和花名わかなが事故で入院したりしたものだから、その過保護に拍車が掛かった。

「……というか」


――母さんは気持ちを病んでるんだよ、だから、分かってあげよう……


 母の態度に対する不満をぶつけた父親から返された言葉に、その時の和花名わかなは言葉を失った。


 和花名わかなの母は、彼女が怪我をしたことで、必要以上に自分を責めていて、もう二度と同じ過ちを繰り返したくないという恐れから、和花名わかなを自分の目の届くところに置いておきたいという強い思いに囚われた。


 怪我が完治してからも、しばらく和花名わかなの体調が不安定だったこともあって、和花名わかなが母親のその強い思いによる束縛を解くのに、半年も掛かったのだ。


 本当なら、復帰は新学期に間に合わせたかったのに――


 世の中はGWも過ぎて、もう春もすでに終盤だ。


 病人扱いの半年間、和花名わかなはほとんど家から出して貰えなかった。

 外出といえば、母親とたまにショッピングに出るぐらいだった。お陰さまで、体力は下がりまくりで、こんな眩しい光の中を歩けば、たちまちに息が切れる……なんて。情けない限りだ。


「……はぁ……はぁ……」


――ダメだなもう、少し歩いたぐらいで息があがるって、どういうことよ……


「大丈夫。もう体は治ってるんだから。お医者さんだって、そう……言ってたじゃない」


――後は気持ちの問題だって。この息苦しさだって、きっと、気持ちの……問題……なんだから……


 自分に大丈夫だと暗示を掛ければ、大丈夫。そのハズなのに。その思いに反して、体がどうにも言うコトをきかない。


 そうこうするうちに、不意に全身に悪寒を覚えた。


――うそ。嫌だ、この感覚……


 抗う間もなく、体中まるで氷のような冷気に包まれたような感覚に襲われる。


――う……やばぃ……これやばい……


 全身に突き刺さるような、氷のように冷たい水の感覚と……

……息苦しさ。


 これって、まるであの時と同じ――



『和花名ぁっ!』

 そして、悠斗ゆうとの悲鳴のような声が、耳を刺す。まるでそれが引き金になったかのように――



「……や……息……できな……」


――何で私……もう大丈夫……なんじゃないの……


なのに――


 どうして、記憶が巻き戻るんだろう。

 もう忘れたいのに。

 どうして、一番辛いところに戻ってしまうんだろう。

 もう忘れるって決めたのに。


――大丈夫、和花名は大丈夫だから、和花名なら大丈夫だから……俺がついてるから……


 これは誰の声?

 これも悠斗ゆうと……なの……?


――ダイジョウブダカラ。


 記憶の中にその声に勇気づけられて、和花名は浅い息を繰り返しながら呟く。

「……私なら……大丈夫……大丈夫……だから……」

 暗示を掛けるように何度も繰り返し。すると、息苦しさが少し遠のいた気がした。


「大丈夫、私は大丈夫」


 自分に言い聞かせるように、自分を宥めるように、更にそう繰り返す。するとやっと正常な呼吸が戻ってきた。


「ふぅ……」


――もう、大丈夫、だよね……


 恐る恐るゆっくりと深呼吸を数度繰り返して、大丈夫を確認して、また歩き出す。


――くっそ~ここしばらく発作来てなかったから、油断したわ~


 やっぱり自分は、久しぶりの学校に緊張しているのかな。やっぱり自分は――


 あの事故以来、初めて悠斗ゆうとに会うことが……恐いのか……


「……お」


 ふと顔を上げると、行く手に見える、おおとり神社の朱塗りの鳥居の前で、同じ顔をした女の子が二人、こちらの顔を見て可愛らしく手を振ったのが見えた。


「あ、わっ花名ぁ~っ♪ おはよ~ぉ」

「和花名さん、おはようございます」

 

――相変わらず見事なハモりだなー。


 台詞も、言葉使いも、声のトーンも違うのに、二人の音声は見事にシンクロしていて、その事に、思わず口許が緩んで心を硬くしていた深刻な思考が粉砕されていく。



 この双子、五形ごぎょう姉妹は、昨年の秋にこの神社に着任なさった神主さんの娘さんである。和花名の母方の祖父が神社の氏子総代をやっていた関係で、すぐに家族ぐるみのお付き合いをする間柄になった。


「く~双子のハモりっ。懐かしすぎるんですけど」


 近づいた所で和花名がそう言うと、姉妹が、これ又ニコニコと可愛い笑顔を見せた。


――かっ、かわいいっ!


 双子たちは相変わらず癒し系で、和花名の気持ちをいい感じで和ませてくれる。


 ちなみに神社の繁忙期――お正月とか七五三なんかの時には、巫女さんとして神社の仕事を手伝うらしい。二人とも、純和風な顔立ちなので、そんな恰好も似合うのだろうなと思う。


 実は今年のお正月、和花名は一緒に巫女をやらないかとお誘いを受けていて、結構楽しみにしていたのだが、怪我をしてしまったせいで、残念ながらそのイベントはまだ未消化のままである。


「おっはよう」

 そんなこんなで、自然、応じる和花名の声もご機嫌になる。

「お体は、もう大丈夫なんですの?」

 双子の妹で、利発な方の七紘なづなが、聞いてきた。


「あ~もう、へ~きへ~き。休み過ぎて、かえって体がなまっちゃったみたいな?……ん?」


 腕に負荷が掛かった感触に視線を向ければ、姉の鈴七すずなが和花名の腕をわしっと掴んで、心配そうにこちらの顔を見上げていた。


「……えっとぉ……鈴七すずな?」

「……和花名さん……お顔の色が……」


 七紘なづなよりも2段階ぐらい小さな音量の鈴七すずなの声がそう告げて、その言わんとしたことを察した七紘なづなが補足するように言う。


「ああ、ホントですわ。和花名ったら、何か顔色がよろしくないみたいですよ?」

「う……まあ~そこはほら、病み上がりだからねぇ、バリバリ元気、とはいかないけど、ま、大丈夫、大丈夫」

「……それなら……宜しいのですが……」

「うん、心配してくれてアリガトね、鈴七すずな

「……いえ」

 鈴七すずなは俯きがちに少し照れたような笑顔になる。


 どちらかと言うと、七紘なづながかしましいせいであまり目立たないのだが、鈴七は細かい所にも良く気が回る。


「……かわいいなぁ、ホント」

 こう来るともう、お約束のように和花名は鈴七すずなをがばっと抱きつぶす。

「わわわ、和花名さんっ」


 長身の和花名は身長が170近くあり、双子は150ちょいだというから、何と言おうか、ちょうど抱き心地がいいのだ。


「も~朝から、何やってるんですか和花名はぁ。鈴七ばかり贔屓してズルイですわよ?」

「……あ、突っ込みドコは、そこな訳ね……うん、七紘もかわいいかわいい」


 双子の間では、何事も平等らしいので、和花名は手を伸ばし、七紘も一緒に腕の中に抱きこんだ。


「何だか~ついでというか~おまけ的な香りがプンプンするのですけれど……」

 腕の中から、七紘の不服そうな声がする。

「そんなことないって。七紘は、かわゆいよ」


『かわいい』よりも、上位の『かわゆい』を付け足してやると、七紘が肩を揺らしながら笑う。


「和花名って、男子だったら、間違いなくタラシ、ですわね」

「お褒め頂きまして、ど~も」

「あら、今のは褒め言葉ではありませんわよ?」

「……惜しい。うん、実に惜しい。こんなにかわゆいのに、性格がな~きっつい」

「ちょっ、和花名ってば、き、つ、い、に、力込め過ぎじゃありませんこと?」


 そこで互いに顔を見合わせて笑い合う。

 こんな馬鹿みたいな「ごっこ遊び」も、自然と呼吸の合う掛け合いも、何もかもが前のままで、そんなことで和花名の気持ちは穏やかさを取り戻していく。

 学校へ行っても、こんな調子で前と同じふうにいられれば、自分はあの忌まわしい出来事を忘れられるかも知れない。そんな淡い期待が和花名の心に生まれた。


 この半年、誰にも言えずに胸に抱え込んでいた……あの忌まわしい記憶を、自分は少しずつ手放して行かれるかも知れない。

 だがそんな願いも、七紘が次に口にした話題によって、あえなく消されることになった。


 半年前とは決定的に違う、間違いなく大きな変化ともいうべき事実が、和花名の目の前に突き付けられたからだ。


「そう言えば、和花名。聞いてます?この4月から、悠斗くんの双子の弟がウチの学校に転入してきたのですけれど」

「……え?」


――今誰の、何?って……言った?……

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