第43話 心からの願い

「おやめなさいっ!」

 女性の叫び声が聞こえたかと思うと、エレノアの身体はぐっと後ろに引っ張られた。

 そして、細い腕に抱きしめられる。

 強く、強く。その細腕が折れそうなくらいに。

「悪魔、あなたにこの子は渡しません!」

 この声が誰のものかを理解した途端、エレノアの視界は涙で歪んだ。

「どうして、ここに……?」

 かすれる声で、エレノアは口にした。

「わたくしはあなたの母だから」

 エレノアの母、皇妃ジャンナ=フォル=ヴィンセント。

 その言葉を耳にして、エレノアの胸は熱くなる。こみ上げてくる想いは、とても言葉で言い表せるようなものではなくて。

 涙が、止まらなかった。

(お母様……!)

 誰にも愛されることはない、と諦めていた。ずっと、独りで閉じ込められていたから。

 でも分かる。母の腕は、エレノアを決して離すまいとしている。この人は、好きで娘を手放した訳ではない。会えずとも、その心はエレノアを案じ、愛してくれていたのだと。

 しかし、初めての母子の対面にしては、あまりにも空気が重かった。


「十八年前の契約により、その娘は私のものだ。逆らうというのなら、この国を滅ぼそう」

 無感情な声で淡々と、悪魔は国の破滅を口にした。その言葉に、母ジャンナの身体が震える。

 すでにもう、悪魔が実体化したこの空間の中では、息をすることも立っていることも難しい。

 “悪魔の花嫁”であるエレノア以外の人間にとっては。

「いいえ。そんなことはさせません」

 しかし、ジャンナは怯まなかった。娘を庇うように前に出て、悪魔と対峙する。

 そこに、悲劇の皇妃と呼ばれたか弱い女性はいなかった。

 あるのは、子を守らんとする、強き母の姿。

「望み通り大きな力を得て帝国を築いておきながら、娘を渡したくないだと? 皇妃、そんな都合の良い話は悪魔である私には通用しない」

 悪魔は失笑し、右手をジャンナに向けた。

 その瞬間、ジャンナの身体は悪魔に引き寄せられ、その細い首は悪魔の手に掴まれていた。


「お母様っ‼」

「母上!」


 エレノアと同時に悲鳴のような声を上げたのは、床に転がるブライアンだった。その目は限界まで開かれ、その整った顔は怒りで真っ赤になっていた。しかし、悪魔の圧倒的な力に抑えつけられているからか、ブライアンは微動だにできない。

 咄嗟に動けたのは、ジルフォードだけだった。悪魔は、ジャンナを苦しめるためにわざとゆっくりと首を絞めている。その背後で、ジルフォードは剣を振り上げた。

 悪魔は、片手でジャンナの首を絞め、もう片方の手でジルフォードの剣を受け止めた。

「くっ、やはり簡単にはやられてくれないか」

 あのジルフォードが片手であしらわれている。


(今ここでまともに動けるのは私だけ……)

 エレノアは震える足を一歩踏み出し、その勢いで走り出した。

 先程までの、“悪魔の花嫁”として運命を諦めていた時とは真逆の意志を持って。

(ジルフォード様も、お母様も、私のことを諦めていなかった。悪魔から取り戻そうと必死で戦ってくれている……)

 エレノアは今の今まで、諦めないと言いつつも心の奥底では諦めていた。悪魔に敵うはずがない、と。

 そして、ジルフォードのことが大切だからこそ、巻き込みたくなかった。自分から巻き込んでおいて身勝手な話だが、エレノアが逆らわずに悪魔にこの身を捧げれば、何の問題もなくこの世界は回っていく。

 そのために、エレノアは閉じ込められ、誰の心にも残らない存在として育てられてきたのだ。

 しかし、今は違う。

 皇女でもない、“悪魔の花嫁”でもない、エレノアを見てくれたジルフォード。

 突然現れた日常を乱す存在に文句を言いながらも受け入れてくれたロイス。

 会ったばかりの皇女エレノアを選んでついてきてくれた騎士たち。

 会ったこともない娘を命懸けて守ろうとしてくれた、母ジャンナ。

 もうエレノアは独りぼっちではなくなった。だから、昔のように運命を受け入れることなんてできない。


(私、大切な人たちと生きていきたい!)


 エレノアの心にあるのはそれだけだった。

 だから、迷わずエレノアは走る。悪魔ではなく、血にまみれた皇帝カルロスの元へと。

 十八年前の真実を、契約書の在り処を、カルロスだけが知っている。そして、それを知ることができるのは、エレノアだけだ。

 ずっと知りたかった。知りたくなかった。見たかった。見たくなかった。

 そこにある真実が、自分を傷つけるものだと思っていたから。


「お父様、すべてを私に見せて!」


 傷ついてもいい。

 悪魔との契約の穴を見つけられるなら。大切な人たちを生きる未来を掴みとるためなら。

 それに、向き合うと決めたのだ。冷酷非道な皇帝と呼ばれる父親と。

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