第25話 悪魔の契約

「あの、本当にそんなことが可能なのでしょうか?」

 悪魔も、皇帝も蹴散らす方法なんて、あるはずがない。

 泣き止んで、冷静になるとエレノアは急に怖くなった。ジルフォードに危険なことはやっぱりさせられない。

 震える声で問えば、ジルフォードはにっと笑った。

「悪魔は最強最悪の存在だが、出し抜くこともできる」

「悪魔を、出し抜く……?」

 ジルフォードの言葉に、エレノアは呆然とする。考えたこともなかったことだ。

「俺は教会で育ったからな。悪魔の対処法についても少しは知ってる」

 悪魔の対処法などよりも、さらりと出て来たジルフォードの過去の話に、エレノアの胸は高鳴った。

(ジルフォード様は、教会で育ったのですね)

 どんな子どもだったのか。どんな環境だったのか。何をしていたのか。過去のことを色々と聞き出したい衝動に駆られたが、今はその時ではないだろう。せっかく、ジルフォードがエレノアのために考えてくれているのだから。エレノアも、悪魔を出し抜く方法について考えるべきだ。

「カルロス様は、悪魔との契約でエレノアを“悪魔の花嫁”として差し出した、ということで間違いないか?」

「おそらく……この国を大きくするために、父は娘である私を差し出したのだと思います」

 エレノアも、詳しいことは何も知らない。自分のことなのに、侍女たちの曖昧な記憶の中でしか情報を得られなかった。

「本来であれば、契約者の魂を代償として差し出すべきところを、娘を差し出した……悪魔にそう要求されたのか、自分から差し出したのか……」

 真剣な表情で考えているジルフォードに、エレノアは不覚にもときめいてしまう。好きな人が自分のことで本気で悩んでくれている。その姿に、恋する乙女が何も感じないはずがない。うっとりと見つめていると、ジルフォードと目が合ってしまった。

「……どうして、エレノアは今まで無事だったんだ?」

「それは、“悪魔の花嫁”になるのは十八歳だからだと思います」

 十八歳になれば、〈宝石箱〉から出されて、エレノアは悪魔のところへ差し出される。もし逃げようものなら、悪魔が迎えに来るのだろう。その覚悟を持ったまま、ずっと〈宝石箱〉で生きてきた。

 しかし、ジルフォードはそのことに疑問を持ったようだった。

「娘を差し出す、という契約が交わされた時にエレノアを渡すこともできたはずだ。生まれたばかりの赤子なら、抵抗もしないだろうから……」

 ジルフォードにそう言われて、エレノアもはじめて気づく。十八まで待つ意味はあったのだろうか、と。

「そもそも。カルロス様は自分の魂を差し出すつもりで悪魔を呼び出したはずだ。だが実際は、娘を差し出すことになってしまった。十八になれば“悪魔の花嫁”として差し出す、ということが本当なら、それはおそらくカルロス様が悪魔に要求した猶予期間だろう。悪魔と長期の契約を結ぶことは、契約者にとっても危険を伴う。そんな危険を冒したのは、エレノアを守るためではないか?」

 ジルフォードの言葉が、理解できない。理解しようとしても、心が受け付けない。これまでの十七年間、心を殺してきたのだ。冷たい孤独の中で、恐ろしい記憶ばかりに晒されて、自分は愛されることのない存在なのだと理解していた。そんな中で、ジルフォードの存在だけが、エレノアを救ってくれた。感情を教えてくれた。

 救世主でもあり、初恋の人であるジルフォードが、あの冷酷非道で、血に塗れた皇帝が、娘を守ろうとしていたと言う。いくら大好きな人の言葉でも、信じられるはずがない。ジルフォードは優しいから、エレノアを慰めようとしてくれているのかもしれない。

「ありえません。あの父が、私を守っていたなんて」

 ひどく冷たい声が出た。

 本当はずっと、心のどこかで期待していたのだ。〈宝石箱〉と呼ばれる部屋で、たた一人で育てられながらも、自分は愛されているのではないか、と。しかし、その期待は十七年間裏切られ続けてきた。

 エレノアは一度も家族と会ったことがない。生贄として捧げられる娘を愛することなど、できないのだろう。誰も、会いに来てくれなかった。それに、世間的にはエレノアは存在していない。いつか、悪魔のものになるから。

 自分はここにいる、と叫びたかった。存在しているのに、存在していない。自分を見て欲しかった。やむを得ない事情があったのだ、悪魔に差し出すつもりはなかったのだ、という一言が聞きたかった。何か事情があるはずだ、父も苦しんでいたのだ、と自分で自分に言い聞かせていた。けれど、エレノア宛てに届けられるものは血生臭いものばかり。逆らうな、という圧力だけがエレノアに向けられる。苦しくて、悲しくて、寂しくて、心が押しつぶされそうだった。だから、心を殺していた。

 自分は愛されない存在なのだと、諦めていた。

 それなのに、もう期待なんてしたくなかったのに、ジルフォードはエレノアが父から聞きたかった言葉を口にした。本当は、娘が大切だったのではないかと。守ろうとしていたのではないかと。しかしそれは、ただの推測にすぎない。エレノアがずっと、自分自身に言い聞かせていたことだ。

(ジルフォード様だって、知っているはずなのに……)

 皇帝カルロスがどれだけ恐ろしく、冷たい人間なのか。ジルフォードが帝国軍を離れたのだって、カルロスが関わっているのは間違いない。エレノアが覗いた記憶の中で彼が泣いていたのだって、カルロスのせいだろう。それなのに、カルロスのことを娘を愛するただの父親と同じように考えている。

「そうだな。カルロス様が何を考えていたのか、本当のところは俺には分からない。だが、それはエレノアも同じだろう」

 黙り込んだエレノアの耳に、落ち着いたジルフォードの声が聞こえてきた。

 エレノアは、父に会ったことも話したこともない。どんな人間なのか、他人から得る情報しか知らない。知らないくせに、決めつけていた。自分は愛されていない、と。

 父はエレノアを愛しているかもしれないし、愛していないかもしれない。

 悪魔との契約で娘を失った男は、今のエレノアのように心を殺さなければ生きていけなかったのかもしれない。

 それを知るためには、悪魔をどうにかする必要がある。

 エレノアが“悪魔の花嫁”でなくなれば、父と話ができるかもしれない。家族にも、会えるかもしれない。皇女の存在が公表されるかもしれない。諦めるしかないと思っていた未来が、手に入るかもしれない。

「私、もう諦めたりしません。父にだって、直接文句を言ってやらないと気が済みませんわ」

 エレノアは顔を上げて、にっこりと笑った。今まで悩み、ため込んでいた感情がすべて昇華されたような気分だ。

「ああ。その意気だ」

 そう言って、ジルフォードは笑顔でエレノアの頭を撫でてくれる。ジルフォードの手の感触が心地良い。剣を握る男の人の手なのに、優しくて、あたたかい。

(このままずっと、撫でてくれたらいいのに……)

 しかしジルフォードの手は、さらりと髪の毛をすくって離れていった。まだ頭に残るぬくもりを愛おしく思いながらも、エレノアは思考を切り替えた。

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