第6話 正しい家族のあり方

 遺族配偶者対策課の通知は、新しい家族が来ることを少女とその母親に伝えた。引っ越しをせずにすむことは手間が省けてありがたいことだ。たまたまこちらに転勤する人間がいたのだろう。


 当日になって、二人の男性が少女の家に踏み入れた。新しい父親と弟だ。二人とも温厚そうな人間だった。少女は密かに緊張を緩める。前の前の父親は酷く乱暴でその時の母親のみならず、当時いた姉や少女までもが性欲の対象として犯された。


 父親は髪の薄い頭をかきながら少女に問う。


「もう一人いるんだよね。どこ?」

「お母さんは部屋にこもってずっと出てこない。出るのは誰もいないときだけ。」

「なんじゃそりゃ。それはないだろ。」


 父親が顔をしかめる。


「俺、母さんとちゃんと話したい。」

「だな。」


 良い子な弟に父親も同意する。二人は母親の部屋に行き、その扉をノックした。


「すみません、今日から家族になる者です。挨拶したいので出てきてもらえませんか。」


 もちろん返事はない。しかし父親は諦めなかった。それから毎日母親の部屋の前で話しかける。


「あのさ、家族ってのは互いに助け合わなきゃいけないんだよ。それなのにそうやって寄生虫みたいにしてちゃ駄目なんだよ。あんたは母親なんだよ、わかってるの?」


 父親の愚痴は夕食の場にまで及び、弟もそれに同調する。


 少女は言う。


「別に私はこのままでいいけど。今のお母さんってそんな悪くないでしょ。とりあえず誰かを傷つけたりしないよ。」


 今の母親とは全く会話もないが、それでも誰もいない時に家事をやってくれている。


「だからなんだ。ちょっと家事してそれで満足して引きこもっているようなやつは人間として失格だ。役立たずだ。義務と責任があるんだよ。人は関わり合うことで意味をなすのに、あんなのが家族なんて恥ずかしい。俺達に迷惑だろ。」

「迷惑って……」


 少女は返事に窮する。


「お前らもあんな大人になっちゃいけないからな。わかったか。」


 弟が溌剌と頷く。少女は上手く首を縦に振れなかった。


 それからしばらくして父親は扉を壊し、母親を強引に部屋から連れ出した。母親は抵抗したが男性の膂力に敵うはずもなかった。


 父親はこれまでの母親の所業を非難し、罵倒し、これからはまっとうな母親として生きることを誓わせる。


 青白い顔で誓った母親は翌日に自殺する。少女は泣かなかった。ただ、その日はいつもより食事の量が少なかった。




 彼女は細い指で兄の胸板をなぞる。やがて指先は乳首に辿りつく。形の整った爪でそれを弾く。弄り続けると固くなる。彼女はくつくつと腹の底から微笑みを浮かべた。「やめてよ。」と兄がその腕を払うと、彼女は「やだよ。」と笑みを深める。


 兄は彼女の裸体を抱きしめる。事後の身体はしっとりと温かく、ラブホテルのやたらやわらかいベッドによく馴染んだ。


「そういえばさ、新しい両親どう? 前から気にしてたじゃん。」

「ああ……。まあなんと言うかやりにくいね。」


 兄は言葉を濁す。


 大手製薬会社に勤めている父親は仕事を理由にしてほとんど家に帰って来ない。帰宅するにしても大抵は深夜だ。たまに香水の匂いをつけて帰ってくるから、愛人がいるに違いなかった。他の家族とはまともに会話すらしていない。


 家事の技能だけを見れば母親は極めて優秀な人間だ。しかしその技能はあくまで自分のために使われる。


 まず、父親の出勤を合わせて朝食を作ることはない。洗濯や掃除などは家族の分もするが、それは個別に分ける方がかえって手間がかかるからだ。だから食事は時間が合えば他の家族の分も作ってくれる。


 そして暇な時間、大抵は白昼から、男が母親を訪れる。茶髪、眼鏡、壮年などなど。一人だけのときもあれば複数人が来るときもある。頻度からして、母親のお気に入りは細身で背の高い青年のようだ。


 彼らが何をしているかは言うまでもない。事後、家には濃密な男女の臭いが満ちる。


 父親は母親の振る舞いを許容していた。父親が求めている役割はハウスキーパーであり、母親はそれを完璧にこなしているからだ。ある意味、二人は均衡をよく保っている夫婦であった。


「僕はまだ我慢できるけど、妹の方が合わないらしくてね。ちょっと苛々している。」

「あの子はわりと潔癖というか、夢見がちなところがあるよねー。」

「まあ、そうかな?」

「うん、あとブラコン。そして君はシスコン。」

「家族だからね。それなりにそういう面があることは否定しないよ。」

「否定しなよ。」


 彼女は砂糖菓子を齧るみたいに兄の首筋に噛みつく。彼女が口を離すとくっきりと跡が残る。


「痛いって。」

「うん、だろうね。」

「何がしたいのさ。」


 兄は噛み跡をさすりながら問う。


「何がしたいっていうか、妹ちゃんに嫉妬してるのさ。」


 彼女はしなびた茄子のような陰茎をきゅっと掴む。


「君のせいなんだよ。」




 兄が自宅の玄関を開けようとすると、その眼前で戸が開いた。白昼の太陽が箱庭の侵入者を照らす。髭を蓄えた中年の男だ。その背は高く、兄を僅かに見下ろす。


「ああ、どうも。」


 髭の男は軽く頭を下げる。それはある種当然の挨拶ではあったが、侵入者の態度としてはふてぶてしいものだった。


 兄は何も言わず会釈だけ返す。玄関を通れるように兄が体を横に寄せると、髭の男はそのまま振り返らずに去っていった。


 昨夜髭の男が触ったノブを回して家に入る。家には母親しかいなかった。あられもない下着姿でソファに寝そべっている。


「あら、おかえり。朝帰りとはいい御身分ね。」


 母親は短くなった煙草を灰皿に押しつけた。それから寝そべったままテーブルにあるチョコレートに手をのばし、届かないのでそのままおろす。


 リビングには惨状が広がっていた。床には使用済みコンドームが死体のように散らばり、テーブルにはビール缶や食べかけの菓子が雑然と置かれている。そして何よりも臭う。汗。精液。膣液。セックスの臭いだ。かつての団欒は死体すら残らず消え失せている。


「掃除はするわよ。」

「そうなんだろうけどさ。」


 母親が言葉を違えることはないだろう。だが兄は語尾を濁す。


 キッチンの締まり切っていない蛇口から無機質な水滴が零れ落ちて、落ちて、落ちて、正確に音を立てる。


 兄はまだリビングを出ない。


「なあに?」


 母親は兄に問う。


「なんてね。冗談よ、冗談。わかってるって。私がこうやって家でセックスばかりしているのが嫌なんでしょう?」


 唐突な決めつけに兄は何も言えない。

 母親は沈黙を無視して喋り続ける。


「あなたが家族に縋るように、あの人が仕事に縋るように、私はセックスに縋っているだけ。私とあの人が結婚したのは互いの利害が一致したから。別に子どもなんて要らなかったけど、年齢的にいないとあの人の税金上がっちゃうしね。」


 母親は生温い使用済みコンドームを摘まみあげる。そこに溜まっているのは人間のもとだ。ただしそれは継承されることのない不発弾だった。

 

 兄の口から文脈のずれた感想が漏れる。


「でも避妊はするんだ。」

「それは、まあねえ。」


 母親はコンドームを手放して指を三本立てる。


「三回。三回妊娠して最初だけ産んだ。後はすぐに堕(お)ろした。私は自分が幸せだとは思わないし、これからも幸せになれるとも思えない。将来の希望なんて絵空事でしかない。未来は現在がどんどん悪くなった今だと思う。」


「幸せかどうかを決めるのは他人じゃない。自分自身だ。」


「そうだね、それはまあそうかもしれない。でも、予想はできるよ。今よりも簡単に自殺して、いっそう繁殖が義務付けられて、財政は悪化して、人の命を大量生産大量消費。こんな世界でまっとうに幸せを享受できると思う?

 私はできないと思う。幸せになれない私が、子供に不幸になるとわかりきった人生を押しつけるくらいなら、最初から子供なんて作るべきじゃないんだよ。


 そう、資格がない。私は子供に人生を与える資格が。子どもを作るってのは未来に責任を持つってことだ。親になっていいのは自分が幸せで子供にも幸せを与えられる人間だけだよ。ま、今の世の中ってのは必要だからってとにかく作るって感じだけどさ、作らないってのは未来に責任を持てない私なりの責任の持ち方ってこと。」


 母親はソファから悠然と身を起こし、大きく伸びをする。細い肉体だ。けれども女として充分な肉体だ。


「さて、私はシャワーで浴びてくるから。一緒に入る?」

「入らない。」

「残念。息子が反抗期で辛いわ。」


 ぺろりと赤い舌を出してから、母親は兄の前を通り過ぎ浴室に行く。


 残ったのは汚れたリビング。兄は溜息をついて自室に戻ることにした。それでも二人は同じ家の中にいる。

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