第2話

 私はいつものように昼少し前に起き、トイレに行くと、いつものように無気力な意識のままコーヒーを淹れるべくキッチンへと向かった。

 いつものように使い古したマグカップを置き、電気ポットに手を伸ばした。その時だった。ベランダで何かうごめく影を視界に感じ、私はぎょっとした。見ると網戸の向こうに小さな女の子がいる。

「コラッ、どこ行ったぁ」

 遠くで多分この少女の事だろうを叫ぶドスの利いた野太い声が響いた。多分、あの隣りの隣りの部屋だ。

 少女はその声を聞いて更に慌てたように、きょろきょろと身の処し方に窮し、私の狭いベランダで無駄な右往左往をし始めた。私の狭いベランダには少女が隠れられそうな場所は何も無かった。クーラーの室外機さえもなかった。それでも少女は一生懸命自分の救いを探し回った。

 窮した少女は遂に網戸を開け、私の部屋の中に入って来てしまった。薄暗い部屋の中に入って初めて私の存在に気付いた少女は、私を見上げ、固まった。私もどうしていいのか分からず、黙ってその少女を見つめた。少女には子供に常識的に備わっている何か大事な表情がなかった。

 しばらく見つめ合った後、少女は遂に涙を流し始めてしまった。しかし、決して声を立てて泣きはしなかった。声を押し殺し、苦しみを小さな体に押し込めるように静かに泣いた。

「どこだ、コラぁ」

 また、怒鳴り声がした。多分この子の父親なのだろう。少女は続きのベランダ越しに自分の部屋から逃げてきたに違いない。

 少女の長いきれいな黒髪のおかっぱ頭は、脂ぎって頭皮にへばり付いていた。少女が着ているこの季節に似つかわしくないアニメキャラクターのプリントの付いた赤紫色のトレーナーは色あせた上に汚れ、首筋の部分は擦り切れ穴が開いていた。

 少女は相変わらず止めどもなく涙を流し、父親なのか私になのか、その両方になのか、怯え固まっていた。よく見ると左の頬が少し腫れているようだった。

 どうしたものかと考えていた私は、ふと自分が幼い時に、近所の知らない家の中に迷い込んでしまった時のことを思い出した。その家にはおじいさんがいて、そのおじいさんと廊下で突然鉢合わせになった。その時、私はどうしていいのか分からず泣き出してしまった。今思えば多分、おじいさんの方が相当驚いたに違いない。しかし、そんな私を見て、おじいさんは何も言わずなぜか静かに飴玉を差し出した。

 あいにく私の家に飴玉はなかったが、何かないかと思いめぐらした瞬間、コーヒー用の何かでもらった角砂糖があることを思い出した。

 私はその角砂糖の入った瓶をキッチンカウンターの上に見つけると、ふたを開け、一つ取り出し、少女を怖がらせないよう少女の方にゆっくりと歩み寄り、差し出した。少女は涙を流しながらも素直にそれを受け取り、直ぐに口に入れた。少女は泣きながら、まるで口だけを別の生き物のようにもぐもぐとしばらく動かしていた。

 食べ終わった少女は、再び泣き顔で私を見つめた。でも、少し落ち着いたようではあった。私は少しほっとした。が、その瞬間、突然少女は走り出し、私の横をすり抜けて、凄まじい勢いと速さで玄関から出て行ってしまった。

私はあっけにとられ、その場に立ち尽くしまま、その少女の出て行った自分の部屋の玄関を見つめることしかできなかった。

 我に返った私はコーヒーを淹れようと思っていたことを思い出し、キッチンに行くと再び電気ポットに手を伸ばした。当たり前ではあるのだが、マグカップは最初に置いたところと同じところにちゃんと置かれていた。しかし、その時、それが私にはなぜかすごく奇妙なことのように思われた。

 コーヒーを淹れ、ふと見ると、少女が入ってきた網戸が開け放たれたままベランダの前に虚しく佇んでいた。

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