鶴川橋暮れ六つ
筑前助広
第一回 五文のお役目
「ご苦労様でございます」
手代風の男が、取って付けたような労いの言葉と共に、差し出していた五文を徴収箱に投げ入れた。
銭が重なる音。それを確認した
九州豊前、
鶴川には岩国の錦帯橋を真似た大きな橋が架かっていて、この橋を渡る際には五文の通行税を支払わなければならない。その徴収の任に当たっているのが
覚平が番小屋の軒下に置かれた長椅子に腰掛けてから、ざっと二刻は経っている。その間昼餉の為に一度だけ席を離れただけで、それ以外では腰を上げる事なく、橋を渡る者が投げ入れる五文の行方を目で追っていた。
通行人の中には、
「地蔵尊に賽銭をあげているようだ」
などと嘯く者もいるが、覚平も全くその通りだと思っている。
自分は、路傍の地蔵。そうでも思わないと、御橋番役という退屈な役目などやってはいけない。
雲一つない秋晴れの午後。夏に戻ったと思わせるような陽気で、川の方から流れてきた赤蜻蛉も、気持ち良さそうに飛んでいる。
(いかんな……)
思わず大きな欠伸が口から漏れ出そうになり、覚平は慌てて噛み殺した。
昼餉の満腹感も相成ってか、ついつい眠気を誘われる。うたた寝しようと誰も咎めはしないのだが、それは自らの矜持が許さなかった。
路傍の地蔵であっても、領民にとっては厳格な徴税官であらねばならない。いくらお役目が退屈であっても、手を抜きたくはない。抜けば人として終わってしまうと、覚平は思っている。
「よいお天気ですな」
そう声を掛けたのは、鶴川橋をよく通る行商人だった。背負っている行商箪笥には、「よろず商い」と記された白地の幟が括り付けられている。歳は四十ぐらいだろうか。自分よりはやや上に見えた。
(この男か……)
三日に一度は通る、鶴川橋の常連と呼んでもいい男である。だが、名前は知らないし、世間話をされるのも初めてだった。
「この陽気なんで、出発を遅らせましたよ。行商のくせに暑気に当たっては笑われますからな」
行商は城下で商品を仕入れ、何日も村々を巡っては売っているのだ。そんな事をこの行商を含めた客同士の会話から、小耳に挟んだ事がある。
「まぁ、急いだところで大して売れはしませんし、うちの嬶も私の帰りを待ってはおりませんしねぇ。って、お役人様には関わりのないお話でございますな」
行商は自嘲し、懐から五文を差し出した。確かに、一文銭が五枚。覚平は頷いた。
「しかし、こんな陽気だと眠くなりましょう?」
「いや、左様な事はござらん」
覚平は淡々とした口調で答えると、行商は白けた様子で、
「そうでございますか。それは結構な事で」
と、徴収箱に五文を投げ入れ、足早に去っていった。
(さては、また気分を害してしまったか)
覚平は、人付き合いが得意ではない。口下手であるし、たまに口を開けば相手を不快にさせる事を言ってしまうようなのだ。亡き父からは常々、
「お前は、感情の機微というものを読めぬ。そんな事では出世はせぬぞ」
などと、言われたものだ。
口下手な自分を、忌々しく思った時も確かにあった。だが、今ではこのままでもいいと考えている。というのも、これまで散々変わろうとしてきて、失敗続きだったからだ。この性分は変われないのだと思い定めると、案外と気持ちが楽になった。
(どうせ私は、人というものがわからぬ)
勿論、だからと言って割り切れはしないのだが、努力が空回りして嘲笑されるよりはましだった。
「はい、お代ですよ」
また銭が差し出され、覚平は軽く目を伏せた。今度は駕籠で、人数分の他に三文が加えられている。駕籠は三文、牛馬は六文と決まっている。
(こんなものをして、御家の懐は潤うのだろうか……)
と、疑問に思ってはいるが、そうせざるを得ない状況も十分理解していた。
長年に渡る財政難に喘ぐ霜野藩が、交通と物流の要である鶴川橋に通行税を設けて、七年になる。その額は、一人五文。産婆と飛脚、お役目や参勤など政事に関わる事であれば、この五文が免除される事になっている。
民衆の間ですこぶる評判が悪いこの税を導入したのは、
通行人の中には、
「こんなもの、いつ無くなるんですかねぇ」
と、訊く者もいたが、そんな事など
(すると、隠居まで橋守りか)
覚平が御橋番役に就いて、五年が経とうとしている。その間、覚平はずっと鶴川橋を眺め続けていた。
鶴川橋は、四代藩主の
覚平は、視線を鶴川橋の方へ向けた。
河川内に三つの橋脚を有し、拱門状になった鶴川橋の姿は、雄大で四季折々美しい姿を見せる。勿論、五十五間の川幅を持つ、水量豊かな鶴川の流れも美しい。
しかし五年も眺めていると、流石に感動も薄らぐどころか、時には陰鬱なものに見えてしまう。
(異常は無さそうだ)
覚平は、再び徴収箱に視線を戻した。
覚平の役目は、徴税の他にも色々とある。まず鶴川橋を渡らず、筏や小舟、或いは泳いで川を越えようとする不届き者がいないか監視する事。橋自体に異常がないか確認する事。そして、鶴川橋周辺の治安維持である。
しかし覚平には三人の手下がいて、彼らが交代で監視しているし、橋を渡らなかったら打ち首という厳しい法がある以上、五文を惜しんで命を賭そうなどという者はいない。事実、覚平が御橋番役となり鶴川橋を騒がせたのは、肩が触れたの何だのと言う
閑職だった。忠勤の限りを尽くしても、御橋番役に出世の芽は無い。町奉行所の同輩からもそう言われた。別に出世したいとも思わないが、全く出来ないとわかってしまうと、覚平の気持ちを塞がせ、優美な鶴川橋を陰鬱な存在に変えてしまった。
確かに、御橋番役は居心地がいい。危険は少ないし、不寝番も無い。そして、無駄な人付き合いもなければ、上役に阿諛追従をする必要もないのだ。通行料だけを徴収していれば、それだけで役目を全うする事が出来る。
しかし、何かが足りない。何かが、確実に物足りないのだ。このままでいいのか? とは思うが、かつての日々を思い返せば、このままでいいかとも思ってしまう。
〔むっつり覚平〕
覚平が書院番に籍を置いていた時、余りの口下手さから上役や同僚にそう呼ばれては嘲られていた過去があった。煩わしく屈辱だった日々に比べれば、閑職であっても、今の方がいい。
ただ、煩わしさと引き換えに、禄も減った。そして、腹も減るようにもなった。何せ御橋番役への組替えは、禄を半分に削られるという制裁もあったのだ。
(こればっかりは、自分が悪いのだから仕方がない)
久し振りに、あの日の情景が目に浮かぶ。それは詳細に思い出せば出すほど動悸すら伴うものだったが、昔日の記憶は聞き覚えのある声に遮られた。
「
覚平に名を呼ばれて頷いた男は、さる
「いつもご苦労様です」
そう言って、竹皮の包みを覚平に差し出した。
「これは」
「石田屋で購った草餅でございます。他の皆様と是非」
石田屋は城下ではそこそこ名の知れた餅屋で、伊平の店からほど近い。安いが旨いと評判だった。
「かたじけない。皆も喜ぶ」
「まぁ、そんな固い挨拶はよろしいですよ」
覚平は頷き、伊平を見送った。
五年、ずっと座っていると、口下手な覚平にも顔馴染みが増えるものである。
伊平が去ると、笹に包まれた草餅に手を伸ばした。三つ。覚平は軽く溜息を漏らすと、番所に向かって一声挙げた。
のっそりと現れたのは、
「ほれ、石田屋の饅頭だ。三人で食べるといい」
と、覚平は笹の葉に包まれた草餅を、市太に手渡した。
「臼浦様、いいんですかい?」
「構わん。ちょうど三つだ、三人で食べてしまえよ」
暫くして、交代の足軽が現れた。気が付けば、陽が山の端に至ろうとしている。夜間は橋を閉鎖するのだが、緊急時の場合は通行を許すので、誰もいないというわけにはいかないのだ。
「では、儂はこれで」
覚平はそそくさと引き継ぎを済ませると、番所を後にした。
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