第15話 地味子ちゃんにプロポーズした!

【9月1日(木)】10時、席に戻ってきた竹本室長が岸辺君と手招きしている。なんだろう。


「ちょっと話がある。会議室へ一緒に来てくれ」


フロアーの端にある小さな会議室に二人で入る。内密の話はここですることが多い。


「岸辺君、来月10月1日付で関西の茨木研究所へ行ってもらうことになった。本部長と先ほど決めてきた。人事にはこれから回す。これは1か月前の内々示だ」


「仕事は何ですか?」


「茨木研究所の研究企画室長ということで行ってもらう」


「承知しました」


「岸辺君の後任には笹島君が横浜研究所から来ることになった。プロジェクトの引継ぎを頼む。正式な内示は10日前だから口外しないように、いいね」


「分かりました」


急な異動の話だった。席に戻っても仕事が手につかない。地味子ちゃんが「どうかしましたか」と聞いてくる。


「いや、大したことはないけど、室長から難しい相談をされたのでね」と答える。


転勤は良しとして地味子ちゃんをどうしよう。それから午前中は仕事もせずに、ずっと考えた。午後、席に戻った地味子ちゃんの耳元に小声で話す。


「明日の晩、仕事が終わったら食事をしないか、大事な話がある」


「いいですが、プライベートな話ですか?」


「グレーゾーンだから」


「グレーゾーンですか? 分かりました」


「待ち合わせ場所と時間は携帯にメールを入れるから」


この時はこれからどうするかはもう決めていた。


今日の分の仕事を片付けておかないといけない。2時から会議を設定している。地味子ちゃんと会議室に向かう。仕事に集中! 


3時には会議を終えて、会議録のまとめをいつものように地味子ちゃんに頼む。地味子ちゃんはすぐに取りかかる。


4時には出来上がって、室長に報告して今日の仕事はお仕舞にした。5時になると、今日はちょっと用事があるのでと言って、すぐに退社した。


【9月2日(金)】昼過ぎに地味子ちゃんの携帯へメールを入れる。[ビルから少しのところにあるタクシー乗り場で5時15分に待ち合わせ]すぐに[了解]のメールが入る。


5時過ぎに地味子ちゃんが「お疲れさま、お先に」と言ってまず退社する。5分ほどしてから退社してタクシー乗り場へ向かう。地味子ちゃんがタクシー乗り場で待っていた。


すぐにタクシーが来た。僕が先に乗って地味子ちゃんが後から乗る。これは仕事でタクシーに乗る時のスタイル。この時間だから会社の人に見られても仕事で出かけたように見える。地味子ちゃんもそれが分かっている。


タクシーに乗るとホテル名を告げる。地味子ちゃんの膝の手をそっと握る。


「今日は業務じゃないんですか?」


「グレーゾーンということで」


握った手はそのまま、地味子ちゃんもそのままにしている。


ホテルに着くと、最上階のダイニングルームへ。入口で名前を言うとウエイターが案内してくれる。


丁度日没のころで、これから夜景がきれいになる。ウエイターが飲み物を聞く。地味子ちゃんはジンジャエール、僕はビールを注文。


料理は予約のとおりだと確認した。それと肉料理のときに赤ワインを頼んだ。地味子ちゃんは嬉しそうに外の景色を見ている。


「大事な話ってなんですか」


「まず、食事をしよう。お腹が空いた。それから話す」


食事は定番のフランス料理のフルコースを頼んでおいた。


「おいしいです。さすがに有名ホテルですね」


「おいしいね」


「ホテルで二人で食事するのは初めてですね」


「今日は僕が全額払うから」


「いいんですか」


「グレーゾーンだから」


「じゃあ遠慮なくご馳走になります」


割り勘にするから、今までホテルで高価な食事などしなかった。今日は特別の日。料理が終わって次はデザートになる。外は夜景がきれいだ。地味子ちゃんは夜景が気に入ったみたいでジッと外を見ている。


「大事な話だけど。昨日、室長から異動の内々示があった。10月1日付で場所は関西の茨木研究所だ。研究企画室長ということで、もちろん受けた」


「そうだったんですか、ご栄転ですね、おめでとうございます」


「それで、美沙ちゃんに一緒に来てもらいたいんだ」


「私も転勤するんですか?」


「いや、僕と結婚して付いてきて来てほしいんだ。どうかな、お願いします」


「ええ…それって、プロポーズですか?」


「それ以外に何がある」


「あまりにも突然の話で驚きました」


「驚くことはないでしょ、ずっと付き合っていたのだから」


「私は岸辺さんと結婚できるとは思っていません。つり合いがとれませんから」


「でも付き合ってくれたじゃないか」


「付き合いたかったからです」


「それならいいじゃないか」


「はい。嬉しいんですが、まだなぜか実感がないんです」


「いいんだね」


「はい」


「ありがとう。よかった。じゃあ、これを是非受け取ってほしい。婚約指輪と結婚指輪は二人で買いに行こう。これは昨日買ってきたものだ。開けてみて」


美沙ちゃんは包みを解いておそるおそるケースの蓋をあける。そこには3重チェインのシルバーのブレスレットが入っている。


「それをその太いベルトの腕時計の代わりにしてほしいんだ」


それを見て美沙ちゃんが突然大声で泣き始めた。周りのテーブルから視線が集まる。困った。この状況は、別れ話を切り出された地味な女の子が泣いているにしか見えない。


慌てた僕は隣のテーブルの女性に向かって「すみません、プロポーズしたら泣いてしまって」と小声でだけど周りに聞こえるように言った。すぐに視線はざわめきに変わった。


そこへウエイターがデザートに、蝋燭を1本灯したケーキを持ってきた。美沙ちゃんが泣きやんだ。ケーキにはハートのマークの中にありがとうの文字。


「ご婚約記念のケーキです。ごゆっくりどうぞ」


「美沙ちゃん、蝋燭を吹き消して! 二人で食べようよ」


美沙ちゃんは長い間、蝋燭を見つめていた。そして「記念に写真を取っておきます」と言ってスマホで写真をとった。それから、そっと吹き消して「ありがとうございます。とっても嬉しいです」と言った。


それから、美沙ちゃんの腕時計を外して、ブレスレットを着けてあげた。


「これから、毎日いつも着けていても良いですか? 会社でも」


「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから。その傷を癒してあげると言う僕の誓いの印と思ってくれればいい。なくしたらまた新しいのを買ってあげる」


「絶対に無くしません。大切にします」


美沙ちゃんは何度何度も腕をかざしてブレスレットを見ていた。気に入ってくれてよかった。


「明日は土曜日だけど、11時ごろに僕の家へ来ないか。これからのことを相談したいから」


「じゃあ、お弁当を作って11時にお邪魔します」


それから、ホテルを出て、手をつないで駅までゆっくり歩いた。何も話さなかったけど、心は通い合っていた。いつものように、電車を乗り継いで、電車で分かれた。


今日はグレーゾーンだから。二人とも家に帰って一人になってこの余韻に浸りたいと思っている。

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