35話 体育祭(後半)


 いよいよ、最後の競技である障害物競走が始まろうとしていた。前の出番の3年生が演技を終えて、退場しようとしており、僕たちの緊張も最高潮を迎えようとしていた。


「みんな、聞いてくれ。山本さんが騎馬戦で怪我して、次の競技に出場できないらしい。だから、女子で、代わりにアンカーやってくれる人いない?」


 アンカーという最も重要で、プレッシャーのかかる役。この役を選ぶだけでも相当な時間がかかり、やっとのことで引き受けてくれた人が負傷して出れない。心の準備をする余裕もないだろうし、ましてや、引き受けてくれる人はいなかった。


 みんな他人任せで、目をキョロキョロさせて黙り込む。ただ時間だけが過ぎていく。3年生が退場し、残された時間は僅かとなる。


「平井さん、私がアンカーになります」


 この沈黙を破ったのは亜子であった。彼女は揺るがない瞳を平井に向けて放った言葉は、クラス全員の心を震わせる。特に、僕は衝撃を受けた。僕は彼女のクラスに対する気持ちがこれほどまでとは思っていなくて、僕自身、生半可な気持ちで体育祭に臨んでいたかもしれない。


 クラスは彼女の強い眼差しに背中を押され、入場した。


 会場の騒がしさを全身で感じて、緊張しているということを自覚する余裕すらも掻き消される。僕たちはこの行事を楽しむのだ。それを自分に改めて言い聞かせた。


 各クラス、初めの走者が位置につく。いつの間にか静まり返った会場が鼓動に包まれていた。そして、その会場を覆うように放送が鳴り響く。


「よーい、スタート!」


 その合図で走者は一斉に走り出し、第1の障害である背面輪っかくぐり。半径20センチ程度の輪っかを、背面跳びでくぐるというものだ。数ある障害のうち、比較的簡単なものである。


 全クラスつっかえることなく、輪っかを通り、マットに横たわる。2組の人が可憐な受け身をとって、起き上がる時間を短縮した。そのため、僅かではあるが、差が出てしまう。


 次の走者にバトンタッチ。


 次は3人で大玉を担ぎ、それをバスケットボールのようにリングへ投げ入れなければならない。3人の息が合わないと、無理難題であるこの大玉入れ。ここで出る3人は放課後、毎日のように練習していたのだから、大丈夫だろう。


 3組のグループがリングの前に到着する前に、2組が大玉を1発で入れることに成功した。それを目の当たりにした3組は胸の鼓動が激しく上下する。それは大玉を運ぶ3人も同じであった。


「おぉーっと! 2組の流れるような美しい動きに会場は大盛り上がりです! 続いて6組、1組と2組の後を追います!」


 3人とも緊張しているせいか、焦燥に駆られてしまったのか、全くタイミングが合わず、ボールを拾っては投げるの繰り返しをしている。


「落ち着いていつもの感覚を思い出せ!」


 すかさず、平井が叫ぶ。すると、3人は深呼吸して、冷静な状態でボールを宙に放った。そのボールは綺麗な楕円形を描きながらリングの中に収まった。


「いいぞー!」


 次の走者。


 次は僕と亜子を含む9人で三人四脚。横の人と足が繋がっているのはもちろんだが、前後も足が繋がれている。3×3の巨大なブロックが6つ、掛け声と共に運動場を響かせる。


 横とのタイミングと同時に前後の組とも合わせて足を出さなければならないため、慎重かつ、誰も転けないように、肩を組んだり掴んだりしていた。それでも、時々崩れそうになり、心底ヒヤヒヤしたが、なんとか運動場を半周し、次は陽路と大夢を含む三人四脚に回る。


「現在の順位は2組、1組、6組、3組、5組、4組の順番です!」


 やはり、3×3という大きなまとまりで動いている分、前のクラスを追い抜くことは難しく、このままの順位で第4の障害を迎えた。第4の障害は運動場からプールへ向かって走るものだが、道中には平均台、網、お玉と卓球ボールといったものが配置されている。


 まずは、平均台。普通の平均台とは違って直線ではなく、カクカクしたものだ。曲がる時はある程度の減速が必要だが、平井は曲がり角を無視し、ジャンプしてショートカットをする。平均台への着地は困難であるはずなのに、こうも簡単そうにやるというのは才能やセンスの問題なのだろう。


 次に網。これは単純に網をくぐるというものだが、体格の大きい人からすると難関の場所でもある。平井は直前で体育着を頭まで被り、網の下へ入り込み、体育着と網が滑るように進んでいく。そうして、引っかかることなく網から抜け出した。


 最後はお玉と卓球ボール。お玉に卓球ボールを乗せて走るものだが、バランスをとるのが難しいため、急ぐとボールをしょっちゅう落としてしまう。それだけでなく、今回は先生方の特大うちわの風がボールを襲う。落としてしまえば、拾うことすらできなくなる可能性もあるし、何よりこのレベルの風を使っての練習ができなかった。


 平井はその大きな体を壁にして、風からボールを守る。体を回転させ、全方向の風を受け流し、プールサイドで待つ次の走者へバトンタッチすることに成功した。


 第5の障害はプールの中で50メートル歩くというものだ。前もって水着に着替えていた走者は急いでプールに入り、ひたすら歩く。その歩いている途中で、プールの中に落ちているビー玉を拾わなければならない。走者はビー玉のある位置を知らないので、プールに入る前にしっかりと確認し、ルートを考えなければ余計に時間がかかってしまう。


 しかし、すぐに見つけられたらしく、迷うことなく水の中へ入り、50メートル歩いてその途中でビー玉を拾うことに成功した。


 次はプールから運動場へ戻る。さっきと同じルートを辿る。平井と同じような立ち回りで障害物を乗り越えていき、無事に運動場へ戻ってきた。


 次の走者。


 第6の障害はデカパンの股下に両足を通して2人入った状態で待機していた2人はでジャンプして運動場を進み、吊るされているパンを取り、食べる。パンは絶妙な高さに吊るされており、ジャンプしてじゃないと取ることはできない。


「あの3組のロングヘアの子、かわいいな......。しかもあの胸......。顔突っ込みたいんだけど」


「あー、わかるわ。全体的に細いからモデルみたい」


 不意に隣から変な会話が聞こえてきた。彼らは智子の話をしていて、デカパンに入って飛び跳ねる彼女を見てニヤニヤしていた。


 智子たちがパンの真下までくると息ぴったりのジャンプでパンを撃ち落とす。そのまま美味しそうに頬張り、喉を通るとアンカーへとバトンが渡される。


「さぁ、競技もいよいよ大詰め! 各クラスほとんど差のない試合展開が繰り広げられ、全クラスが最後の障害である借り物競争へと差し掛かりました! 1位と最下位の差ですらも1メートル未満という熾烈な戦いを制するのは一体、どこのクラスになるのでしょうか‼︎」


 最終局面に突入し、ハイテンションなアナウンスが縦横無尽に駆け回る。輝く汗が砂を染めるその瞬間まで見逃せない。そんな会場の集中した目線は亜子の手を震えさせた。


 亜子は箱に入った4つ折りの紙を引き抜き、それの中身を恐る恐る覗く。亜子の目にペンで書かれた文字が映った瞬間、彼女は文字の意味を理解できない様子で固まってしまった。何かを悩んでいるのだろうか、動揺しているようにも見える。そんなに酷い内容が書かれていたのだろうか。


「南原さんどうした!」


「私たちも探すの手伝うから書かれてるやつ教えてよ!」


 クラスメイトが亜子の魂を本体に戻そうするも、意味を成さない。


「亜子! 頑張れ!」


 僕もみんなにつられて叫んでみた。すると彼女は唾を飲み込み、紙切れを握り締め、歯をくいしばり、宝石のように光り輝くその瞳をこちらに向ける。そして、一直線に走り出した。その先に何があるかはわからないが、彼女は勇気を振り絞ったに違いない。


「頑張れぇ!」


 僕は彼女の応援をすることしかできないが、少しでも、支えになってくれているのならば嬉しい。


 決意を纏った瞳は目的地の目の前で止まった。そして、手を差し出す。


「一緒に来て欲しい。啓太」


 軽く息を切らした亜子は僕の方へ手を伸ばしている。僕は戸惑い、どういう反応をしたらいいのかわからず、黙り込んでしまった。


「啓太、呼んでるんだから、一緒に行ってあげなよ」


「あ、う、うん」


 後ろから大夢が背中を押して、僕を見送った。僕は亜子に手を引かれてゴールへと走り、これまでにないほどの歓声と拍手が会場を埋め尽くしているようにも思えた。


 汗はかいていないはずなのに、とてつもなく暑くて、胸が苦しい。これが恋の病か。そんなこと考えると、余計に彼女を意識してしまい、触れている指の感覚が研ぎ澄まされる。細く滑らかで、触り心地の良い指。


 これ以上はダメだと思いつつも、彼女の後ろ姿、匂い、さっき飲んだ水の味までもが正確かつ精密に脳裏に刻み込まれた。


 砂を踏みしめ、風を切り、飛び交う音を跳ね返す。僕と亜子は勢いよくラインを飛び越えた。


「今、ゴールテープを切ったのは......」


 会場に僅かながら静寂が訪れる。


「3組さんです‼︎」


 僕は状況が飲み込めず、呆然としていると、亜子が満面の笑みを僕に向け、ありがとうと言った。どういたしましてと返事する僕の顔は、自然と笑顔になっていた。


 クラスメイト全員が僕たちのところに集まってくる。煌めく太陽にも負けないくらい僕たちははしゃぎ、騒いで、喜び、手を取り合って笑った。


 あの清々しい空はまるで、僕たちの心を透写しているように見えるほど広大で、僕はあれに吸い込まれそうだ。いや、もうすでに吸い込まれ、抜け出せなくなっている。

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