2-4
オルシナ湖は、エントコ山より更に古い観光地である。
透き通った水に太陽光が反射してきらきらきらきら湖面が光り、遠浅の水底は魚が泳いでいるのが見受けられ、貝類も盛んに水を噴いている。周辺村の水源や旅人達の癒しの場だけでもなく、地元民が魚介類を獲って、文字通り恵みをいただく貴重な場所であった。
のだが。
水場と湖に棲む生物という資源の取り合いで周辺村がいがみ合った事で、湖の主オルッシー様こと『
「おかしくなっちまった『水蓮』を、元に戻す事はできねえのか?」
岸辺に立つライルは、当然と言えば当然の疑問を口にする。しかしリルはあきれ気味に肩をすくめた。
「それが出来れば苦労はせんわ。竜というのはの、貴様らが思っている以上にデリケートな生き物なのじゃ」
頭悪い事を言うな、と付け足して、竜の少女はとんとんと人差し指で己のこめかみを軽くつつく。
「こと負の感情に対しては過敏に反応する。長年降り積もった対岸同士のいがみ合いの恨みなんぞ、『水蓮』が狂うには充分すぎる原因だったろうて」
そういえば『
だが、だからと言って竜退治に手を抜く訳にはいかない。こちらも生き残る為に必死なのだ。仲良く共存の道が見出せない以上、
「……で」
ライルは胡乱げに、湖畔に泊まっている小舟を見やる。
「これで湖の真ん中まで行けってか?」
観光地最盛期だった頃、オルシナ湖には数十という小舟が悠々と行き交っていた。湖が『水蓮』の狂気を受けて近づけなくなってしまった事でそれらは打ち捨てられて岸辺に取り残されたままになってしまったのだが、まだ動く事には変わりが無い。
しかし。しかしだ。
その小舟は、アヒルを模した何とも珍妙ななりをしている、足こぎで動く代物であった。元は青かっただろう真ん丸の目は塗装が剥げかけ、揃って死んだ魚のようになっている。白い身体にも苔がびっしり張りついて不気味さのハーモニーを華麗に奏で、夜にこれらがズラッと並んでいるのをランプで照らし出したら軽いホラーだろう、という様だった。
だが、背に腹は代えられない。ライルは意を決すると、まだましに動きそうな一体のアヒルに乗り込んだ。隣の席にはリルが当然のごとくちょこんと座る。
足こぎ用のペダルがあるのはライルの方だけで、リルの足元にそれは無い。相変わらずちゃっかりしたものだと思いながらも、それを口にすれば、またどんなしっぺ返しがやって来るかわかったものではない。ライルは深々と溜息をついて、ぐっとペダルを踏み込む。がこん、と揺れをこちらに与えて、不気味なアヒル舟は、不気味に静まり返ったオルシナ湖へと漕ぎ出した。
手元にあるハンドルで方向を定めながら、足はペダルを踏み込む。足漕ぎで楽々進むと思っていたアヒルはどっこい、古びたせいか、そもそも水をかいてゆくのだから当然なのか、意外とペダルを漕ぐ力が必要で、必死に交互に足を踏み込まないと前へ進まない。
「ぐっ、ぐおおおお……!」
「ほれほれ、速度が上がっておらぬぞ。もっとしっかり漕がんかい」
必死の形相になるライルの隣で、リルは腕組みし背もたれに身体を預けて、悠然と言い放つ。そんなに言うならこの重労働を体験してみやがれ、と言いたいのをやはりぐっと呑み込んで、苛立ちを力に転化する。アヒル舟は徐々に速度を上げた。
誰もいない湖。そこをギコギコ音を立てながら進むアヒル。恋人達なら二人の愛を確かめたくて悪戯のひとつやふたつもして相手をからかってみるのだろうが、生憎、舟は雰囲気もへったくれも無い塗装はげかけのアヒルで、乗っているのはおっさん狩竜士と、見かけ幼女の尊大な竜である。更に今は竜退治の途上。雰囲気を盛り上げろと言う方が無茶であった。
無言の空気が漂う中、舟は湖の中心部へと近づいてゆく。岸から大分離れた所で、ライルは足漕ぎを止めて肩で息をする。これなら、いつも通り竜退治をしていた方が楽ではないかというくらいに足の筋肉を酷使した。リルの力を借りる反動が来るまでもなく、明日は筋肉痛だろう。
いや、明日ならまだましだ。最近は筋肉痛が遅れてやって来るようになった。歳のせいだとは思いたくないが。
一際深い溜息をついた時、リルがぴくりと片眉を跳ね上げて背もたれから身を起こし、「準備せえ」と小さく呟いた。
ざざざ……っと、何か大きいものが水をかき分ける音がする。それは迷い無くこちらへ向かって来ていた。ライルは背中の大剣をすらりと抜き放ち、いつでも襲撃に対応出来るように心の準備をする。
『溶炎』の時は規格外の大きさに驚いて、初手を見落としてしまったが、今度は何が来ても驚かないように、と深呼吸を繰り返す。そう、それこそ鬼が出るか蛇が出るかわからないのである。鬼が出るか蛇が出るか……。
「――鬼と蛇一緒ーーーーーっ!?」
ざっばあと水音を立てて現れた『水蓮』の姿を見て、ライルの叫びがオルシナ湖に轟く。隣でリルが両耳を手で塞いで、「うるさい」とさも迷惑そうに愚痴った。
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