はじめの一歩

「おはよう! アヤネちゃん」

「おはようございます、ハルカ、さん」


 登校二日目の朝、アヤネが自分の席に腰を下ろしたところで、ハルカが早速挨拶にやってきた。そのふんわりとした印象の声は、聞いているほうも和んでしまうようなもので、昨夜とんでもない命のやり取りがあったことを微塵も感じさせない。

 ――カナの施した術式が正常に効果を発揮していて、ハルカの記憶が修正されているのだろう。


「ハルカさん、ってなんだかぎこちないよー」

「そ、そうですか……? す、すみません」

 ハルカが穏やかに笑むが、アヤネはハルカにどう接していいか距離感がつかめずに、曖昧な対応をしてしまう。自分は覚えているのに、相手にはその記憶がないというのは、なんだかとても違和感がある。相手に対して嘘をついているような、居心地の悪さだ。

 もしかしたら、カナは日ごろ友人たちにこんな感情を持っていたのかもしれないと思うと、カナの孤立した心が少しだけ理解できたようにも思える。


「っていうかさ、同い年だし敬語じゃなくていいだろ」

 そう言ってやってきたのがリサだった。リサも相変わらず、昨夜のことなど記憶にないらしく、あっけらかんとした顔で「おっす」とラフな挨拶をした。


「す、すみません。なんだか……口癖みたいになっていて……」

 アヤネの、人から一歩引いた位置でいようとする処世術が現れる言葉遣いは、すこしばかり堅苦しく、相手との間に壁を感じてしまいかねないものだった。

 それに、転校してきたばかりというのもあるし、記憶の相違点もアヤネが砕けた対応をできない要因とも言えた。


 そんなアヤネは隣の席に顔を向け、暫し考え込んでしまう。

 もしかしたら、昨夜の出来事はやはり夢だったのかもしれない。カナも昨夜のことを覚えていないのなら、自分の見た幻の可能性だってある……。

 むしろそうなら、いいかもしれない。そんな風にアヤネは考えてしまった。


「カナは、やっぱり遅刻かー」

 リサがアヤネの視線の先を拾って呆れたような声を出す。

「せっかく部員がそろったんだから、本格的に動くために朝から話をしておきたかったんだけどな~」

 リサは「あーあ」と言いながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。やはり部員が揃って本格的に部として動き出せることが嬉しいのだろう。


「部員はそろったけど、あとは顧問の先生を見付けないと……」

 ハルカが大きな胸の下で腕を組み、うーんと唸る。

 どうやら、アヤネが部員として参加することまではしっかりと記憶に刻まれているようで、アヤネは軽音という未知のジャンルにこれから足を踏み入れなくちゃならない事も考える必要があった。


「顧問かー……。やっぱコニちゃんに頼むしかないかなー」

「こにちゃん?」

「小西先生だよ。うちらの担任の。あだ名、コニちゃん」

 ああ、なるほど、とアヤネは納得した。あの先生なら、優しそうだし頼みこめば引き受けてくれそうだが――。軽音部の先生ともなれば音楽の先生にお願いしたほうがいいのではとも思った。知る限り、小西先生は国語科の教師であり、音楽科ではない。

 そこで、アヤネは前日から気にしていた、自分の軽音における状況をきちんと伝えなくてはと思った。

 小西先生もだが、それ以前に自分は音楽など、まったく分からないのだ。楽譜を見ても音階が分かるだけで、それを見て演奏ができるかと言えば答えはNOである。


「あ、あの……私……本当に音楽というか……楽器の事は分からなくて……」

「そう!! そうだよ!!」


 アヤネがおずおずとリサに伝えると、リサはそれにバックリ食いついて瞳を輝かせてきた。何やら考えがあったのはリサも同様らしい。


「アヤネさ、今日の放課後空いてる?」

「えっ、また昨日みたいに演奏ですか?」

「いやいや、違う違う。カラオケに行こうよ」

「あー! いいねえ、カラオケ~♪」


 リサの提案に、ハルカも嬉しそうに乗っかって来た。ニコニコと笑顔を作るその表情は、同じ女性として見ても、魅力的な笑顔だなとアヤネは思った。


「カラオケ、ですか? 大丈夫ですけど……」

「よし決まり。カナも連れていくぞ!」

「でも、どうして急にカラオケに?」

「アタシら、バンドやるのはいいんだけど……みんな歌がダメでさ」

 たはは、と笑顔を見せたリサに、ハルカが続く。


「リサちゃんは音痴だし、カナちゃんは歌うのだけは絶対イヤって言うしー」

「しれっと音痴とか直球に言うなよ……まぁそうなんだけどー」

 リサが気恥ずかしそうに視線を泳がせた。

 意外なことだと思った。リサは音楽が好きだと言っていたから歌も歌えるのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、どうやら違うらしい。


「だから今、アタシらが欲しているのはボーカルなんだよ」

「え、じゃあまさかカラオケに行くのは……」

「そう、アヤネ。お前のボーカルとしての実力を計らせてもらう!!」

 ババーン! と効果音でも付きそうなポージングを極めて、リサがアヤネにカラオケの趣旨を告げたが、アヤネはそれを聞いて硬くなってしまったのである。

 人前で歌うのはあまり性に合わない……。カラオケくらいは、付き合いとしていくし、場の空気を乱さないくらいには歌うけど、ボーカルとしての能力査定のためにカラオケに連れていかれるとなると、それはもう自分の歌唱力では歌いきれる自信がない。


「は、ハルカさんは歌どうなんですかっ? わ、私じゃなくても……」

「えっとねー、私も歌はそこそこできると思うけど、楽器弾きながら歌うのが、できないんだー」

 たしかハルカは現在バンドのベースを担当しているはずだ。昨日見せてくれた演奏時も、そつなく弾いていたように見えたが、演奏しながら歌うのがハルカには難しいようだった。


「ベースって結構重たくて。あと、弾いてるとき、まだ弦を見てないとちゃんとできないの。でね、楽器って肩から下げて演奏するとき、すごく弦が見づらいの」

 ハルカが「こまったよー」という表情で、ベースを演奏するようなジェスチャーをしながら言ったのだが、その様子を見ていたアヤネとリサは内心思った。


(胸が大きいから……見えないんだろうか)

 そして二人は、自身の胸に視線を落として、身軽な身体を見比べてがくんと肩を落とすのであった。


「だから、アヤネにはボーカルとしてバンドに参加してもらうべく、カラオケで色々リクエストさせてもらうからよろしくね」

「ええっ……、わ、私……自信ないです……」

 アヤネが慌てて自分には荷が勝ちすぎると告げようしたが――。


「あんたなら、できるよ」

 挟み込まれるようにカナが言った。

 いつの間にか教室にやってきていたカナが、隣の席に向かいながらこちらの話を聞いていたらしい。


「カナちゃん、遅刻しなかったんだね」

「まぁね」

 そう言って、アヤネの隣に腰を下ろすと、やっぱりどこか眠そうな顔して頬杖をつく。

 アヤネはカナの言葉に、ドキドキしていた。


 ――あんたならできる――。

 その言葉はあの時にも聞いた言葉だった。


 アヤネは、確認するような目線を、気だるげな隣に向ける。


「……昨日も言ったでしょ」

「っ!」


 ――やはり。

 昨日のあの出来事は夢や幻ではなかったのだ。

 なんでもないように装っているカナではあったが、その言葉の意味は、アヤネにだけ伝わる『記憶のある言葉』であった。


「私に……できるでしょうか……」

 アヤネは呟くように零した。それは誰かに訊ねるようなものではなく、自分自身への問いかけだった。

 昨夜感じた『自分らしさ』という熱。

 あれは今は、内側には感じられない。

 でも、確かにそこにあるのだという『記憶』が残っているのだ。外の景色を見つめたくて、カーテンを開くように、アヤネは己の心に問いかける。


(分からない――。やれるかどうかなんて、分からない)


 あれだけ熱く、美しい剣を形作った自らが、今は曖昧模糊になっていた。

 だから、どうなるかは分からない。失敗するかもしれない。できないかもしれないと思う。


(でも……始めなくちゃ、できるかできないかも、『分からない』……)


 絶対に無理。そう言って辞めてしまう事で、本当はできたものが沢山あった。あるはずなのだ。

 アヤネは顔を上げる。


 正面にはハルカがニコニコと包み込むような笑顔でいてくれる。

 その隣にはカナが力強く瞳を煌めかせていた。

 そして、奇妙な隣の席の少女は、やはり、眠たげにしていた。


 ――が、アヤネは気が付いていた。その眠たげな様子をしている彼女の頬がほんのり赤く染まっていることを。

 柄にもなく、人を褒めるような、激励するような言葉を繰り出した事を照れているのだ。


「やります。私、ボーカルしてみます」

 熱はある。確かにある体温ではないチカラ。誰もが持つ、尊さが人を動かすエネルギーになるのだ。それは、自分だけではなく、他人をも動かすほどのエネルギーがあるものなのだ。

 動き始めた四人は、今は小さなぬくもりではあったが、確かに一歩を踏み出していくのを実感していた。


 五月の末、ちょっぴり奇妙な出来事と出逢いながら、最高の仲間に巡り合えた少女は、成長していく。

 みな、誰もが持つ『自分らしさ』を武器にして――。

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