8
「ああ、そろそろ着いてもいい頃なのだが」
彼は空の中の寒さにがたがた震えながらオーガスタの質問に答えた。
幾つかの山と谷を、あれから越えてきた。人間を見かけることは全くなく、いるのは狼や鹿、狐の仲間で背に翼を持つイーグロクという滅多に見ることの出来なかった獣、そして共にここまで飛んできた渡り鳥ぐらいだった。向こうもドラゴンを見たことがなく慣れていないからなのか、開けた場所で休憩を取っている時に近付いてきたりもした。まあ、狼は遠巻きにこちらを眺めているばかりだったけれど。同じ肉食だということが理解出来たのだろうか?
「あなた、寒いのでしょう」
ドラゴンはパートナーに向かって言う。彼女は、彼が体をマントでぐるぐる巻きにしているのを知っていた。
「……耐えられないことはない、大丈夫だ」
「強がっていると痛い目を見るわよ」
返事が返って来ないのは、おそらく少し機嫌を損ねたからだろう。そんなことでは面白くも何ともないので、色々からかってやろうと思って銀白色の癒し手はこんなことをドラゴン使いに向かって言う。
「向こうに戻ったら、そろそろあなたはカレンとちゃんと話をするべきよ」
「……何でまた今にそういうことを言う」
「いつまでもずるずる引きずられると見ているこっちがもどかしいのよ」
そなたは関係ないだろう、という声と共にぴしっと手綱がうろこに当てられるので、オーガスタはまるで大笑いするかのように数回吼え、次いで突然羽ばたくのをやめて騎乗者を慌てさせた。
「そなたは私を一体どうしたいんだ、オーガスタ!」
「あら、今のは単なる仕返しよ、愛しい人!」
ドラゴンは怒鳴る彼に言い返し、再び羽ばたきながら前を向いた。
と、今までとは何か違う風がさあっと前から吹いてきたような気がしたので、彼らは顔を上げる。森がただ続いている向こうにある気配はだんだん大きくなってきており、それは一度も覚えのないものだった。トレアンは目を凝らし、空の向こうと森の先を同時に見る。
「下に降りるわよ、トレアン」
その時ドラゴンが言ったので、彼は我に返って咄嗟に答えた。
「何故だ? このまま行けばいいではないか――」
「いいえ、降りた方がいいわ」
拒否する暇も与えずにオーガスタは高度を下げ始め、ドラゴン使いが手綱を引っ張った時には、彼女は既に丁度良い広さの空地を見つけていた。まるで落ちるかのように荒々しく大きな音を立てて着地したドラゴンの上で彼はよろめき、手綱をしっかりと握ったままその背中から落ちて宙吊りになる。
「私を殺したいのか、阿呆!」
足をばたばたさせてその巨体を蹴りながらドラゴン使いは喚いた。首を伸ばしてそのマントの首元を咥えた彼女はすぐに彼を地面に下ろし、巨大な頭をパートナーの体にこすりつける。温かい人の腕がすぐに、戸惑っているように自分の銀白色の鱗を撫でてきた。
「もう、十分飛んだわ。この先は崖だから、行けない」
降りる所がないのよ、とドラゴンは言った。
「ということは――」
「ええ、見てらっしゃいな、愛しい人」
トレアンは自分のパートナーの金色の瞳を真っ直ぐ見つめながら耳に入ってくる音を必死で理解しようとしていた。自分達の町の近くの湖のそれとは全く違う、もっと激しい波の音がする。その方向を振り返ってみると、黄金色の木の葉の木々の間からきらりと何かが光ったのが見えて、誘われるように一歩足を踏み出した。
木立の中を行けば、それは向こうで徐々に輝きを増し、まるで陽の光を宝珠に変えているかのようだと思えた。はやる心を抑えられず、足のもつれがもどかしくて、彼は焦って木の根につまずいて地面に体を打ちつけ、悪態をついた。目に映ったのは草の生えた地面で、少しだけかさかさしている。
そのまま、ドラゴン使いは顔を上げた。
彼はその光景に息を呑んだ。蒼をたたえた水がそこには広がっていて、それは空に似ているようで、全く違っていた。もっとずっとそれは深く、何百何千の宝珠のように太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「……海」
カレンの瞳がそれと重なった。もう一度海、と呟いて立ち上がり、よろめきがひどいので崖の際まで這って行ってその下を覗き込む。岩に当たって何度も何度も砕ける波は儚く消えていく泡を次々と残し、新しい波で消していった。その揺れに引き込まれて落ちてしまうような気がして、もう一度顔を上げて空とそれとの間を探す。
紛れもない、それは北の海だった。
何処までもずっと水ばっかりが見えるんだ。ギルバート=ミストラルのその言葉を思い出した。俺のパートナーよりも鮮やかな青が、果てしなく向こうで空の青と混じってる。弟であるテレノスの言葉も思い出した。
そして今、自分が海を見ていた。
そして今、彼は北の地にいた。
それでも辛いなら、北へ。
イダス=レフィエール、父のその言葉が今一度はっきりと頭の中に、それだけでなく体の中に響き渡った。
不意に涙が溢れてきて、頬を温かく濡らす。トレアンは立つことが出来なかった。膝ががくがく震え、吐く息が嗚咽となって洩れて何も考えられなくなる。ただ幼い頃に見た父の笑顔が、母の美しい表情が、弟の温もりや今まで出会ったカレンやタチアナ、セス、西の町の人々が、その存在が彼の傍にあった。実体ではなくても、それは自分が感じ取ってきた大切なものだった。ドラゴン達が絶えず自分に話しかけてきているような気もしていた。彼は呻く。
「ああ……」
君は一人ではない。それは紛れもなく痛みだった。あの夢の中の言葉が自身のこの体をつらぬき、悲しみと喜びを同時にもたらす。
ストラヴァスティンは自分の中にいた。彼は、愛していた。愛していたから、そこで大声を上げて泣いた。タチアナとイスティルに再び会ったあの時よりも、想いはさらに強く純粋で泉のように溢れ、留まることを知らなかった。
その力には勝てなかった。ドラゴン使いはいつまでも泣き続けた。
それは少年のようでも老人のようでも、青年のようでもあった。
彼女はそれに気付いていた。
あの時、自分はただ無言の空間に安らぎを感じて静かに目を閉じていただけだった。しかしその感触は今でも唇に残っていて解放してはくれない。
何故? 何が私のせいだったの?
あれから幾度となくカレンは自身に問うた。今までそれには全く気付かなかった。隠すのが下手なトレアンの陰に隠れて、テレノスは見事に沈黙を保っていたようだった。想いもよらなかった弟のそれは重く、衝撃的で耐えがたいほどに彼女を混乱させる。次にどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
だが、避け続けてさらにもやもやとした思いを引きずるのも嫌だった。それに、混乱してはいたが自分は兄を放っておけなかった。皆から愛されても何処か孤独に見えるドラゴン使いの中の唯一の術士は、いつも影と共にそこにいた。彼は何かを赦されずに育ってきた人であった。
ちゃんと会って、話そう。彼女は、一人の人として弟を好いていた。だからこそしっかりと自分の気持ちを伝えなければいけない。町の中に立っている魔石で固定された光る空間を越えて、森の中の静かな町へと一歩踏み出した。彼は家だろうか?
と、石を積んで囲まれた光る空間のすぐ傍で、見たこともない少女が歌を歌っているのに気付いた。段に腰かけ、まるで誰かを待っているように向こうの空を真っ黒な瞳で見つめている。ドラゴン使いではないと思えた。肩にかかる髪は黒でも、その子の瞳の色は空を舞う鳶のような色ではなかった。歌の意味も、わからなかった。
違う、この子は人間ではない。そう思った時、視線がふと合った。
「――あっ」
少女が声を上げて、次の瞬間には明るい表情を見せながらこちらに近寄ってきて目の前に立った。カレンは戸惑って目をしばたかせる。
「お久し振り、カレンさん」
「――えっ?」
火術士は耳を疑った。自分は会ったことのないこの少女に、顔を覚えられている。彼女は黒髪の“人間”を見たことがなかったし、黒い瞳のドラゴン使いも見たことがなかった。獣の耳も尻尾もないので、コボルティアーナでもない。
だとしたら、この少女は一体何なのだろうか?
「あれ、わたしのことわからない? 前に会った筈だけど」
「会った? 私と、あなたが?」
「あるよ。その時、わたしはトレアンの肩の上にいたし、違う姿だったけど」
違う姿、トレアンの肩の上。真っ黒な髪と瞳が、あの後自分の腕の中でこちらを見上げていたものに重なって、彼女はあっと声を上げた。
「――まさか、シラクサ?」
少女がいたずらっぽい笑顔を見せ、そうだよ、と肯定した。
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