6

 その憤慨した怒鳴り声が愛しくて、銀白色の癒し手は吼えた。だんだんと崖の下から吹き上げてくる風の、逆流する滝のような流れが迫ってくる。ドラゴン使いもそれに気付いて、そして彼は自分のパートナーが何をしようとしているかを悟った。これはきっと、崖の上で何回もされたことがあるあれだ――来る。


 ぎゅっと手綱を握り締めて足に力を入れた時に、ドラゴンが羽ばたくのをやめた。


 ふっと体が浮いた。浮いたと思えた次の瞬間、とてつもない速さで体が下へと落ちていく。空と雲がかすんで見えて、トレアンは歓声と悲鳴を同時に声に出し、叫んだ。


「上がれオーガスタ、上がれ、上がれーっ!」


 ものすごい勢いで崖の下の森が迫ってくる。なのに、彼女は羽ばたかないのだ!


 このまま地面にぶつかるという恐怖で、彼は目を固くつぶり手綱を強く引いた。途端に再び体がふわっと浮く心地がして恐る恐る目を開けてみれば、いつの間にかオーガスタは先程の崖よりも遥かに高い所を旋回しているのだ。


「どうだった、トレアン? ちょっとはすっきりしたでしょう、頭が」


「……だから、子供扱いはやめてくれ」


 彼は冷や汗をかきながら苦笑したが、何回も同じ手に引っかかってきた自分がだんだんと馬鹿らしく可笑しく思えてきて、いつの間にか大声で笑っていた。誰も、おそらくこの笑い声を聞いていない。何しろ、そこは他の何処でもない空の中だった。


「そうよ、そうよ。もっと笑いなさいトレアン、愛しい人」


 それから彼らは何回も、崖の上から下へ落ちるのを楽しんだ。ある時はドラゴンが完全に下を向いた状態で突っ込み、またある時はくるくると回転しながら落ちていったりもした。一回やるとやめられない楽しさと興奮を、それは孕んでいた。落ちる前の一瞬浮くあの感覚の奇妙さが独特の楽しさだった。


 トレアンが叫びすぎて息切れしてくると、彼らは崖の下に良い場所を見つけ、そこに下りてみた。


「あら、丁度いいわね、広さも見た目も」


 崖の上からは、日の光を受けてきらきらと輝く水が、体の内部にまで響いてくるような音を立てて目の前の滝壺の中に落ちる。空よりも深い青の中に森の木々の緑が映し出されていて、水面には雲と魚が泳いでいるのが見えた。


「面白いぞオーガスタ、空の中を魚が泳いでいるようだ」


「あら、水の中を雲が泳いでいるみたい、とも言えるわよ」


 視線が合うと、ドラゴン使いは笑って、ドラゴンはくすくす笑うように喉の奥から唸り声を出した。


「テレノスは見つけたと思うか?」


 彼は岸の際に生えている花にそっと手で触れながら言う。その紅色はカレンの唇の色に何処となく似ていると思えた。


「さあ、どうかしら。でも、ヴァリアントなら案外知っているかもしれないわ。さしずめ、今のあなたはカレンのことを考えているでしょうけど」


 心の中を見事に読まれていたことに驚いて、トレアンは思わずオーガスタを振り返った。彼女はふんふんと鼻を鳴らしながら、その大きな顎をドラゴン使いの胸にこすりつけて押し倒す。


「やっぱり。自分のパートナーのことは放ったらかしにする癖に、罪な男ね」


「放ったらかしにした覚えは――ああっ、くすぐったいな――それに、ラインラントの家のシラクサのことも、西の町のこともあったから――やめろ、オーガスタ、うあっ」


「ふふん、色っぽいわね、トレアン。こんな姿、誰にも見せられないわね」


 朱の差した顔に複雑な表情を浮かべ、彼はその銀色の鱗を撫でた。心臓に響くような落ちてくる水の音は絶えることを知らず、波紋を描く水の上に頭を垂れる幾つもの花が弱い風にそよいでいて、そこは生きている静けさを保っていた。


「……そなたが人の姿だったら、また色々違っていただろうな」


 ドラゴン使いはそう言って笑う。オーガスタはその頬を舐めてやった。


「あら、それはなかなか魅力的ね、トレアン=レフィエール。でも、どんな姿でもあなたを愛していることに変わりはないわ、安心して」


 金色の瞳は、優しさの光に満ちて揺れていた。トレアンはゆっくりと起き上がり、その太い首に腕を回してぎゅっと抱きしめるように力を入れる。抱えきれないパートナーの温もりは、彼に言わせた。


「……そなただけは、あまり変わらずにいてくれるだろうと信じている」


「あら、そんなこと言ったらカレンが可哀そう」


 ドラゴン使いは優しくその首を叩きながら抗議した。


「そういう意味ではない、年と外見の問題だ」


 それから、彼は視線を滝へと向ける。水の持つ冷気が肌に心地よい。


「……カレンにも見せてやりたい」


 ドラゴンはそう呟いた彼の横顔をじっと見つめ、それから自分も目の前に広がる光景を改めて眺めた。草むらの中の沢山の花の色が何ともいえないような生への衝動をかき立て、そこからふと顔を上げると滝の水の落ちる音が心を安らかに鎮めてくれるのだ。


「……今夜、続けて飛べるか?」


 と、トレアンがそう言ったので彼女は再びその顔を覗き込む。鳶色の瞳が、何かを所望する子供のような表情を抱いていた。


「大丈夫だけど、どうして?」


「一年前のように、また星空の中を行きたい」


 一年前というと、カレンと彼が仲直りをしたあの日か、とオーガスタは思い出した。夜遅くなってしまった自分のパートナーを迎えに行けば、この人は彼女と一緒に丘の上に立っていたっけ。それから転移の術を使わずに満天の星空の中を帰ってきたのだが、それが忘れられなかったのだろうか。


「いいわよ、トレアン。そういう風にもっと甘えることね、他の人にも」


「私はそなたに甘えているつもりなど――」


「あるわよ。言いたいこと言ってばっかりじゃない、あなた」


 ドラゴン使いはきまり悪そうに顔を赤くしてまたあさっての方を向いてしまった。


 彼らはそれから再び崖の上へと行ってそこに下りて、休息がてら景色を眺めていた。少し昼寝をして、動物を狩って食べた。ドラゴンは、パートナーが動物の肉を焼いて食べるのをいつも不思議そうな目で見るのだ。彼女は、生の方が美味しいと言う。


「そなたらドラゴンと違って、人型種は他の生き物が持つ病には弱いから、これが安全な方法だ。仕方ない」


 彼が生の肉に当たったことがあるのをドラゴンは知っていて、あえて言うのだけれど。過去の小さな失敗をほじくり返されていじける、そんなところが、彼女は好きだ。


 崖の上に腰を落ち着けて、トレアンとオーガスタは西に沈んでいく夕日を何もせずに眺めていた。緑の森が受け止める紅色の光は瞳に優しく、人の手で作り出すことの出来ない色が空を彩っている。


「そなたの色は、あそこにはないな」


 彼が言うと、ドラゴンはこう答える。


「あら、それだけこの色は特別なのよ」


「そうか……そうだろうな、特別な私の癒し手だものな、そなたは」


 それだけなのに、とても幸せな一時だった。やがてヴァリアントの鱗より鮮やかで濃厚な色の東の空に星が一つ二つと瞬き始め、それはすぐに降ってきそうなほど多くの光となった。空の色は間もなく森の色を飲み込み、鮮やかな色が見えない世界が訪れた。


 ドラゴン使いは、パートナーの背に触れた。


「……行けるか?」


「勿論、大丈夫よトレアン」


 再び風に乗った。


 色のない世界がふわりと暗闇に浮き上がり、昼間より涼しい風がひゅう、と吹きつける。トレアンはマントをさらに体に巻きつけ、手綱を強く握った。空を見上げると雲のないそこには無数の光がちりばめられていて、それはそれぞれ異なった光を抱いている。


 光り輝くそれは、何処かひたむきに生きる人々を連想させた。星のように小さくても一生懸命生きる人々は美しく、また儚い。そして、自分もそのうちの一人なのかもしれないとドラゴン使いには思えた。


 今彼らは星の中を泳ぎ、呼吸をして互いの確かな存在を感じ取っている。


「……私は、本当に空を行っているのか?」


「何を言い出すの、トレアン」


 ひときわ明るく白く輝く星を掴むように彼は片手を伸ばす。今にも手が届きそうなそれは、きっと永遠に手に入れることの出来ないものだった。それはすなわち、他人の心と体のようで。


「……わからないのなら少しでも考えればよいのか」


「不思議なことを言うのね、誰かからの受け売りかしら?」


 レフィエールのドラゴン使いは、オーガスタの歌うような吼え声に向かって優しくよく聞こえるように返事をする。星に届かなかったその手を、あっさりと下ろして。


「ある人なら、星空の中を泳いでいるようだと表現するかもしれない。今の私達のことを……そう言いたくなる気持ちが、わかるような気がしたんだ」


「飛んでもいるし、泳いでもいるわね。でも、どっちも気持ちいいことに変わりはないでしょう、トレアン=レフィエール?」


 トレアンはああ、と言って笑い声を上げた。


「オーガスタ見てみろ、あんなに下の方に雲のようなものが空の中にあるぞ」


「あら本当ね」


 それは北の空に小さく存在していた。そして、空を行く彼らにはそれが雲でないこともわかっていた。そして、術やそういった力を全く超えているものであるということも。あの中に、沢山の光り輝くものがぎゅっと詰め込まれている。何だか、そんな気がしてならなかった。もう少し行けばこの手に届くものとなるかもしれない、その雲のようなものは可能性を秘めた何かの希望のようだった。


「あそこから何かが出てくるのかもしれないわね」


 ドラゴン使いは、それに沈黙を返した。代わりに、星を掴み取る筈の手を伸ばして彼はパートナーの銀色の背中を撫でる。それは不思議に温かくて、胸の奥深くに炎がぽうっと灯るような何かを感じた。


 闇のような緑が、下を滑るように過ぎてゆく。ざわめきが聞こえたと思えば、それはあっという間に背後の空に吸い込まれて消えてしまうのだ。幾つも連なる山々がまるで屋根のように見え、この世界がまるで家そのものであるかのような気がした。


 北の空に小さく見えていたぼんやりとした雲の下に、やがて鋭く赤い光がちらつきだした。奇妙なそれは南のレファントでは見たことがなく、太陽よりも小さく不気味でもある。オーガスタがこんなことを言った。


「あの雲は星を出しているのかもしれないわね」


 トレアンはうすぼんやりとしたそれを、そしてその下の赤く目立つ星を真っ直ぐ見た。あの雲があのような赤い星を生み出したのだろうか?


「星の雲、というわけか。炎を生み出しているようだな」


「でも、白いのもあるわよ。黄色く見える星も、ある」


「そこまでわかるのか?」


 ドラゴン使いは、ドラゴンの目の良さに改めて驚いた。星は、決して近い存在ではない。届かないとわかっているものの何かを知ることが出来る彼らは、いつか星へ手を伸ばせるのならという夢を叶えてくれるかもしれなかった。


「見えるだけよ。余計にむなしいから……」


 幻想でしかないわ、と彼女は言った。


 広い湖を一つ越えた。高く不安定な場所から見た湖面にはそれこそ無数の星がそのまま落ちていて、あの上から光をすくい上げることが出来たら面白いだろうと思わせた。しかし、それもまた本物ではないだろう。波とともに揺れるそれらを過ぎて、彼らは尚も北へ北へと進んでいった。


 それは何処までも続く永遠のようだった。しかし、いつか終わり、自分達は北の果てに到着する。テレノスが、弟が辿り着いたように。


 兄は、すう、と尾を引いて何処かへ落ちていく星を見つめた。それは脱落する何かではなくて、ただ美しくて純粋で自然な動きでしかなかった。


「幻想、か……」


 トレアンは呟いた。ただ、今ここで何かを感じ考えている自分は決して在らざるものなどではない。オーガスタの温もりがドラゴン使いにそれを教えてくれていた。







「――そこで、私は彼女に申してみたのです。共に平穏を築こうと」


「へえ、それでアミリアとセナイは一緒に暮らし始めたのか」


 蒸し暑い時期も終わりに近付いてきていた。外は暗く、話し声を掻き消すようにざあざあと激しい雨が降っている。それは朝テレノスが目覚めた時からずっと続いており、エルフが訪ねてきた時はまるで空が西の町の水路にでもなっているかのようだった。季節の最後のあがきなのだろうか。


 レフィエールの弟は、突然訪問してきたセナイ=フィルネアと何をする訳でもなく喋っていた。一番気になっていたのはやはり祖先のことだったのだろう、ドラゴン使いはアミリアのことや、敵対関係にあった当時の王、ジアロディス=クロウのことをあれこれと訊いてきたので、エルフはそれに色々と答えていた。


「しかし、今でも残る不安が一つだけあるのです」


 と、杖を手でもてあそびながら彼が窓の外を見て、そんなことを言った。


「……何かあったのかい?」


 緑色の瞳がこちらをじっと見つめてくる。それが憂いを帯びているので、弟は首を傾げてその先を促した。ためらうように動いた口元が、やがて信じられない言葉を紡ぎ出す。


「……アミリアは私に最後の別れを告げる時、ごめんなさいと言いました。妻は、ジアロディス=クロウと関係を持ったと、全てが終わり、私が彼女と共に暮らし始める、それはその直前のことだったと……クロウの最後の兄弟の両方に力が宿ったのは奇妙でした」


「でも、セナイは間違いなく俺達の親なんだ」

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