少年と花
彼は記憶を持たない少年
全ての記憶を失い
なぜ、記憶が無いのかすら覚えてはいなかった
少年は"香"を求めた
自らを知るために、記憶を求めるために
ただ不安で、何か確実なモノが欲しかった
あまりに不確かな自らを確実なモノにしたかった
香は記憶を呼び覚ますモノ
少年は香を求めた
世界に満ち溢れた香は手がかり
香ばしく焼けたパン 暖かなスープ シチュー 果物 食べ物
町並み 人々 生き物 生活
はぜる暖炉の炎 太陽 光
涼やかな清流 海 水
木々 草 花 大地
風
夜
あらゆる香が鍵となる
少年に存在を与える
少年は香を求めた
しかし――
それは確かなるものではなかった
途切れ途切れの記憶の破片は少年を不安にさせた。
霧掛かったような曖昧な記憶の破片は
少年に確かな存在の証ではなくただ漠然とした懐かしさを与えた
懐かしく切ない思いは少年を寂しくさせた
雨が降る
細かく冷たい雨の香
水に濡れた甘く懐かしい金木犀
しっとりとつやめく香
切ない
寂しい
細かな雨
少年の頬を雫が伝う
涙
どうして? こんなにも切ないのに
あれは何?
あれは誰?
あれは何所?
逢いたい
還りたい
僕は誰?
僕は何?
どうして?……何もわからない
どうして? こんなにも懐かしいのに
どうして?
どうして?……
少年は嗚咽を漏らした
逢いたくて、還りたくて、知りたくてたまらない
懐かしくて、寂しくて、切なくて気が狂いそう
甘く優しい雨に濡れた金木犀の香が少年を虐めた
それでも少年は探し続けた
あるとき、小さな花を見つけた
木枯らしの吹き荒ぶ中に
ひっそりと咲く花を見つけた
誰の目にも止まることなく咲いた
それは香を持たない花だった
香を失った花だった
何も香らないこと
それが少年の心に安らぎを与えた
少年は懐かしさを感じないことが嬉しくなって
花を抱きしめた
優しく そっと
だが、花は泣いていた
少年の纏う香が、香を持たない花には切なくてたまらなかった
花は香が欲しかった
誰かに懐かしさを与える
誰かにとって思い出の破片である香が欲しかった
それを知った少年は
花を抱き上げた
傷付けないように 優しく
少年は自らを癒した花に泣いていて欲しくなかった
少年は香を求めた
小さな花に香を与える術を探した
香らない花は少年から切なさと懐かしさを消し去り、安らぎを与えた
自らの癒しである香らない花に香を与えるということはとても辛いことだった
だがそれよりも花が悲しんでいるのを見るのが辛かった
自らの安らぎを失ってもよいと思うほど
少年は花が好きだった
花は泣いていた
少年の纏う香が花の心を締め付けた
そして
自らのために傷付こうとしている少年の姿が切なくてたまらなかった
少年が自らの願いを叶えようとしてくれるのは嬉しかった
だが、それによって少年が傷付くのはとても辛かった
花は泣いていた
切なくて
辛くて
苦しくて
少年が愛おしくて
花は泣いた
いらないから
何も
だから傷付かないで……
花は枯れてしまった
たくさんたくさん涙を流して
少年の腕の中で
イノチを止めた
少年は泣いた
花を掻き抱いて
声を上げて
泣いた
花を失ったことに少年の心はひどく軋み
痛くて
切なくて
どうしようもないくらい寂しくて
声にならない声で
泣いた
その時
ふと
優しい香が少年を包んだ
頭の芯が痺れるような
甘く、爽やかな優しい、懐かしい香
それは枯れた花のものだった
枯れた花から香は生まれていた
花は死して香を得た
そしてその香は全てを呼び覚ました
失われていた少年の記憶を
少年は全てを思い出した
花は香を得、少年は記憶を取り戻した
求めていたものが手に入ったのに
少年は悲しかった
涙がこぼれて止まらなかった
花は枯れてしまった
それが何より悲しかった
少年は花を抱き
静かに目を閉じた
少年は眠った
花の香を感じながら
本当に欲しかったものは……
求めたものは……
小さな雫が落ちた
それは種だった
種は大地に染み込み
やがて芽を出した
花が咲いた
記憶の香を持った花
そこは懐かしい場所だった
花が、微笑みかけるから
少年も嬉しくなって微笑んだ
記憶の香を纏った風が花と少年を抱きしめた
懐かしく
切ない
だが
心地よい愛しさが辺りに満ちていた
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