千の文字を越えて
暁烏雫月
人身事故の背景
日の出からさほど経過していない時分のこと。朝陽の差し込む駅のホームにて、浅野は不審者になっていた。黒スーツにネクタイという正装がやけに目立つ。
通勤ラッシュ前の駅のホームには人がまばらだ。だがあと数分もすれば通勤通学のためにホームは人で溢れかえる。その前までにやらなければならないことがあった。
汚れた駅のホームに這いつくばって何かを必死に探す。吐き捨てられたガムが体についても、人に手を踏まれても、浅野は何かを探すことをやめない。その様は遠くから見れば実に奇妙で。
「キャー!」
何かを探す事に夢中になっていた浅野は気付かなかった。自分が頭を突っ込んでいるその場所がどこかに。
「どうされました?」
「ち、痴漢です! スカートの下に、だだ、男性が――」
探し物に熱中するあまり、浅野は周りへの注意を怠ってしまった。なんとその結果、浅野は電車を待つために並んでいた一人の夫人のスカートに頭を突っ込んでいた。夫人が騒いでもすぐには気づかない。それほどまでに大切なものを探していたから。
騒ぎを聞きつけた駅員がホームに這いつくばったままの浅野を無理やり起こす。駅員に起こされてようやく、浅野は自分を取り巻く状況に気付いた。痴漢の騒ぎに、すでに浅野の周りには野次馬が集まり始めている。
「ちょっと事務所まで来ていただけますか?」
駅員の呼びかけに、浅野は言葉を返せない。だがそれは自分の行為を反省したからではない。探し物を、野次馬の足元に見つけてしまったからだ。
それは野次馬によって踏まれ、蹴られ、飛ばされ。遂に線路に向かって落ちていく。朝陽に照らされ、銀色のそれがキラリと輝いた。
「俺の指輪が――」
浅野の探し物は結婚指輪だった。駅のベンチで身なりを整えた時に落としてからずっと探していたそれは、線路へと姿を消していく。気がつけば浅野は駅員の手を振りほどき、指輪を求めて線路へと飛び降りた。その時だった。
「イヤー!」
「うわっ!」
嫌な音がした。指輪のために線路に突進した浅野は、自分に向かってくる電車の姿に気付かなかったのだ。浅野の体が電車にはねられ、野次馬の集まるホームに落下する。
「ただいま、人身事故により運転を見合わせております。別の路線にて振替輸送を行っておりますのでそちらをご利用ください。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
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