第9話 橋を架けよう大作戦
第9話 Ⅰ
……シュネルドルファーら一行がアフリス村に帰還して三日目、イングヴァルの森の一件が落着して四日目の朝のこと。オイゲンはもはやこの村での日課となっている寝起きの洗顔のために庭の水樽へと向かった。
なにも以前のようなハプニングを期待してのことではなく、食べ物を扱う台所で顔を洗うのが嫌なだけだと、自分に言い聞かせている。
そもそもユウハはまだ意識が戻らないのだ。
ギンは村に戻った日の晩に目覚めたが、あの一件で最も重要な役割を果たしたユウハは、いまだ昏睡状態にある。
シュネルドルファー、オイゲン、オロフで薬を調合したり使える限りの命術を試したりしてみたが、効果はなかった。
レッコウはいった。
「おそらくは、神を深く降ろしすぎたのであろう」
何日も昏睡するほどの状態は初めて見るが、この現象自体はそう珍しくはないという。
「ちゃんと目を覚ますんですかっ?」
「……わからぬ。たいていの場合は未熟な者が神に呑み込まれるために起こるが、熟練の者が神に呼びかけることで一日ほどで回復しておった」
「そんな、ここには他に霊術が使える人なんて……」
「見守るほかあるまいよ。あれほどの怨念を救ったのだ、
そう、あの森に巣食っていた怨霊は救われた。ユウハがイスルヒメの召喚に成功したお陰で五〇〇年越しの浄霊が成ったのだ。これはアンクレイス史上随一と謳われたファーンクヴィストにすらできなかったことであり、この一件はこの国が潰えるまでその歴史に長く刻み込まれるべき偉業となったのだ。
むろん、それを確かめるべく詳しい調査は必要であり、現在はその先遣隊としてオロフが隊を率いて再び森に向かっている。
ただ、オロフも浄霊が成ったことは確信している。イスルヒメの化身である黄金の龍が天に昇る様子は国内のいたるところで目撃されていたことが確認されており、それは不思議と見る者に、救いの現象であることを納得させていたのだ。
そしてなにより、シュネルドルファーが昏倒寸前に陥るほどの不快な魔力の歪みが、消えていたのだから。
だからあとは、ユウハが目覚めるのみ。
ユウハが目覚めさえすれば、すべては大団円で終えることができるのだ。
一日も早く回復することを祈りながら、オイゲンは寝ぼけまなこをこすってゆっくり水樽のある物置小屋のほうへと足を進める。
すると、いつぞや以来の威勢のいい水音が……
反射的に、オイゲンは眠気を置き去りにして走り出した。
ギンは朝に水浴びをしない。
シュネルドルファーは顔を洗うなら横着なことに台所で済ましてしまう。
レッコウはそもそも必要ないし、今はトゥーラの餌やりに行っている。
「ユウハさん!?」
期待で胸を膨らませていたオイゲンは、確かに見た。
「はい?」
期待以上の光景を。
「っ!?」
そこにいたのは間違いなくユウハ。待ちに待ったユウハの姿があった。
ただし、全裸であった。
胸の中で膨らみ過ぎていた少年の期待は、想定外という強烈な後押しによって呆気なく破裂するのだった。
「すびっ、すみませんっ! あわわ……!」
「こちらこそすみません、とんだお目汚しを……」
「汚くなんかありません、すごく綺麗ですッ! ってなにをいってるんだぼくはああっ……!」
「うふふ、ありがとうございます」
「ごゆっくりいいいぃ~~!」
「あ、もう終わりましたので……」
もちろん、オイゲンには聞こえていなかった。
二人が落ち着いて対面を果たしたのはほんの数分後、玄関前である。
「お待たせしました」
「いえ、すみません、急かしたみたいで……病み上がりなのに……」
「そのことなのですが、私はどれくらい眠っていたのでしょうか?」
「今日で四日目です」
「まあ、そんなに……どうりで……」
「どうかしたんですか?」
「ああ、いえ……」
ユウハはほんの少し頬を赤らめて俯いた。
「実は最初に目が覚めたのは夜中のことだったのですが、あまりにもお腹が空いていたのでつい、つまみ食いのようなことをしてしまって……」
そんなことで恥ずかしがることなどないとオイゲンは断言してやりたかったが、恥じらうユウハがあまりに乙女じみていてときめかされてしまい、すっかり声を忘れてしまうのだった。
その代わり、別のところから元気な声がかかった。
「おお、ユウハ! 目覚めたか!」
餌やりから戻ったレッコウである。
「このたびは未熟さゆえにご迷惑をおかけしてしまったようで……」
深々と頭を下げるユウハをレッコウは制した。
「なにを謝ることがあるか、そなたは救われるべき者たちを救い、これまで何人にもできなんだことを成したのだ。それゆえに少々の休養が必要となっただけのこと、頭を下げるな、胸を張るがよい」
こういう物言いはさすがに王者だな、とオイゲンは素直に感心するのだが、
「はい」
と、ユウハから幸せそうな笑みを引き出したことには、男としての格の違いを見せつけられたようで少々面白くない、と思うのもまた正直なところであった。
「それにしても驚いたぞ、まさか伊守流姫命そのものを呼び出すとは」
「そうなのですか?」
「フム、やはり覚えておらぬか」
「はい……舞の途中から記憶が曖昧で……」
「ギンさんもそんなことをいってました。まるで誰かに自分を乗っ取られたような感じだったとか……」
「ええ……神の気配を感じることはできたのですが、このままでは力が足りないと思い、私自身を神楽にするつもりでいたら、いつの間にか……」
「なんと! 憑代となるだけでなく自らを場としたと申すか!」
「はい。今思えばかなり思い上がった考えですね」
ハの字に下がった眉とその反対に目尻の上がったユウハらしい特徴的な表情で苦笑いする。
「もはや奥義の域であるな。吾輩にはよくわからぬが、あのような険しい場所でよくぞ……」
「あるいは、ああいう場所だったからこそなのかもしれません。そうでなければあれほどの覚悟はできなかったでしょうから」
「覚悟、であるか……」
なにやら思うところありげに腕を組んだレッコウに、二人は疑問の視線を向けた。
「吾輩もこれまで幾度か真に死を覚悟して臨んだ戦いがあったが、そのときは決まって感覚や記憶が曖昧であった。しかし確実に命を削っているという実感があってな……」
「それはレッコウさんが気術の使い手だからじゃないですか? 先生がいってました、気術にはそういう危険な領域が存在するって」
「ウム、そのとおりであろう。しかしふと思ったのだ。気術が命を代償に限界を超えるというのであれば、霊術や魔術はどうなのであろうとな」
その疑問に対する明確な答えを、この場の誰も持ち合わせてはいなかった。霊術でその域に達したユウハは特に命の危険を感じたわけではないながらもレッコウと同じく感覚も記憶も曖昧であり、オイゲンはまだ魔術の限界に挑めるほどの実力を有していないのだから。
「気術は生命力を源とするゆえ致し方ないが、吾輩が思うに、霊術と魔術は気術ほど危うい術ではないのではないか。あるいは限界を超えれば超えるほど高みに近づけるのやも……」
そこまでいいかけたとき、玄関のドアが開いて無防備だったオイゲンの背を叩いた。
「あら、ごめんよ」
ギンとシュネルドルファーが揃ってのお出ましであった。
「珍しく早いではないか、イザークよ」
「ユウハがいないとギンが騒ぐのでな。やはり目覚めていたか」
「はい、お陰さまで」
「ああ、よかったよぉ、あの怨霊たちと一緒にユウハの魂まで連れてかれちまったんじゃないかって心配してたんだよ」
「ご心配おかけしました」
ギンはユウハが生きていることを確かめるようにぴったりと抱きつき、頬ずりしながら優しく髪を撫でる。この微笑ましい光景にオイゲンとレッコウは表情を綻ばせながらうんうんと頷くのだが……
「もう少し眠ってくれていてもよかったんだがな」
シュネルドルファーだけは相も変わらず天邪鬼であった。
「もう、先生!」
「なんてこというんだい!」
「そう膨れるな、なかなか興味深い現象だったのだ」
「なにか面白いものが見えましたか?」
当のユウハは気分を害するどころか春の日差しのように暖かな微笑みを向けるから、オイゲンもギンもなにもいえなくなってしまう。
「生命反応は正常だったし、眠っていながらも日に日におまえの霊力が増していたのでな、目覚めるまでにどれほど高まるか見たかったのだ。もっとも、起きたら起きたで訊きたいことが山ほどあるから一向に構わんがな」
「もうっ、冷たい男だね!」
「まあまあ、こうして無事目覚めたのだからよいではないか。それより村の者たちにも知らせてやらねば」
「そうですね、みんな心配してましたし、ユウハさんとギンさんは立派な英雄ですから!」
「そんな、私など……」
「いやいや、ユウハよ。おぬしはまことに英雄として迎えられておるぞ。よって今日の作業は中止し、宴とする!」
レッコウは勝手にそう決めたが、本当に決めたのは彼ではなく、彼がいったように村人たちであった。
アンクレイスの新しい歴史が始まって以来、国民の誰もが知る怨念の樹海を浄化し、国のために非業の死を遂げた英霊を救済したのだから、彼らからすれば唯一の取るべき行動なのである。
よってこの日は晩くまで、祝いの火と祝いの歌が絶えることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます