🌈2nd time 開花予報、のち
揺さぶる変化
今日も、終わった。あまりにも長い一日が、終わった。
「ただいまー……」
大和は力なく言って玄関で靴を脱ぎ、朝より十キロほど重く感じるスクールバッグを適当な場所に放り投げる。誰かがいたずらで巨大な石を詰め込んだのではと錯覚するほどだ。
疲れと解放のため息をつき、そのまま子供部屋へ直行した。階段をのぼることさえだるくて、ドアを開けるなり倒れ込むようにしてベッドに身を預ける。
うつ伏せの状態で枕を取り上げ、抱えると、そこに顔をうずめて、「つっかれたー!」と叫んだ。声に出したところで疲労感が吹き飛ぶわけでもないのだけれど、吐き出さずにはいられない。
大和をここまで疲れさせる要因は、授業そのものというより、部活だ。水泳部である彼は、六時限の授業を終えた後、一時間近く冷たいプールの中で泳ぎ続けなくてはならない。
「木曜か……」
枕を抱えたままぼんやりと呟いた。土日は基本的にオフなので、あと一日乗り越えれば自由な週末が待っている。
休みなどほとんどないサッカー部のキャプテンを務める慶太には、「同じ部活なのに不公平だ」なんて言われるけれど、そんなの大和の知ったことではない。
こんなふうに部活に追われる日々の締めとなる大会は、夏休みとともに着々と近づいていた。それは、高校受験という重々しい現実に足を踏み入れる合図でもある。
大和は何だか胸苦しい気持ちで枕を手放して、仰向けになった。同時に、頭上にあるもうひとつのベッドを再認識する。
「……もう、二段じゃなくていいんだよな」
栞奈がいなくなった後も、大和はひとりで「日替わり交代」を続けていた。片方だけ使わないのはもったいない気がしたし、彼女がいた頃の記憶を、ひとつでも多く、鮮明に覚えておきたかったから。
将来のことなんて、何も決まっていない。彼女が――誰よりも近くで
「ダメだ……」
ぼんやりと思いを巡らせているつもりでも、いつも知らず知らずのうちに彼女のことに行きついてしまう。
彼女と過ごした十五年足らずの日々は、そう簡単に色あせてはくれない。大和にとってそれは、「思い出」ではなく、「記憶」なのだ。つい数ヶ月前までこの目に映っていたはずの、記憶。
それらを思い起こすときに伴うものは悲しみや苦しさで、どうしたって痛い。ようやく固まり始めたはずの決意が
彼女を忘れることなんて、きっと死ぬまでできないだろう。もしかしたら、死んでも忘れられないかもしれない。
おっと、いけない。こんなことを考えていたら、また明太子模様が――
「大和ー!」
切なく揺らいでいた心は、一階から聞こえてきたかすかな母の声で、平常運転に戻る。
何だろうと体を起こし、
「呼んだー?」
階段のところまで行ってそう叫んでみるが、
「――」
この距離では、さすがに詳しい内容までは聞き取れない。
しかたなく一階におりてダイニングを覗き、
「なに?」
キッチンに立って夕飯の支度をしている母に、問う。
「雨降ってきたみたいだから、洗濯物取り込んできて」
からからと油が跳ねる音に紛れて告げられた予想外の頼み事に、大和は母の後ろ姿に向かって、あからさまに顔をしかめた。見ての通り揚げ物をしているから手が離せない、と言う。とっても面倒だが、大和だって生乾きの臭う衣類を身につけたくはない。
「……分かったよ」
渋々了解し、リビングの裏口から外に出た。そこに置かれた物干し竿を見ると、服やズボン、タオルなどが無防備に小雨にさらされている。
軽く舌打ちしてそれらを順にハンガーから取り外し、カーペットの上に積み上げている最中、ふと車のエンジン音がした。
顔を上げて見てみると、朝比奈家の前に白色の軽自動車が停まる。その後部座席から降りてきたのは――結乃だ。
彼女が助手席側に回ると窓が開き、そこから顔を出した人物と何やら楽しそうに話している。遠巻きからなのではっきりとは見えないが、短髪でメガネをかけた――男だ。
その事実を認識したとたん、腹立たしいような、がっかりしたような、妙な気分に包まれる。この感情の名前は、知っている。
――こんなの、もう認めるしかないじゃないか。
何とも言えない不快感を抱えたまま様子をうかがっていると、やがて結乃は微笑みながら男に小さく手を振り、おそらくその奥にいる運転手に頭を下げる。そして軽自動車は窓を閉めて走り去っていった。
傘も差さず雨に濡れる結乃の
すると、視線を感じたのか、彼女はきょとんとした様子でこちらを振り返り、
「あっ、大和くん!」
次の瞬間、花が開くようにぱっと明るい笑みをたたえる。悔しいと思う。この満面の笑みにはきっと、先ほどの男に向けた微笑みと同じくらいの意味しか込められていないのだ。
「どうしたの? ぼーっとして。洗濯物、濡れちゃってるよ?」
その言葉に、洗濯物を取り込んでいた手が、完全に止まっていることに気づく。というか、取り込んでいることすら忘れていた。片手に持った衣類は、雨水を吸い込んでびしょびしょに濡れている。
「あ、あぁ……」
曖昧なリアクションをしてから、あわてて手を動かし始めると、結乃はおかしそうに短く笑い、「手伝おっか?」と小走りで近寄ってきた。
「……じゃあ、そっちのタオル類、お願いしてもいい?」
言うと彼女は、タオルや靴下が干されている場所、大和の右隣に立つ。いくら一度洗ってあるとはいえ、さすがにシャツやパンツを触ってもらうわけにはいかない。
「午前中は天気よかったのに、急に崩れてきちゃったね」
彼女は手際よく洗濯物をハンガーから外しながら、
「うん」
まだ動揺が胸の奥で渦巻いていて、うなずくのがやっとだ。何気ない会話を交わしたのち、大和は知りたい欲求と不安を抑えられず、
「あの、さ」
思い切って口を開いた。
「さっきのって……誰?」
すると、結乃の表情に、一瞬疑問の色が浮かんだが、
「……あぁ、ナオくんのこと?」
すぐに返ってきた答えに、また心がうずく。普通にくん付けされるより、あだ名のほうが親しい気がするのはどうしてだろう。
そして、気づいた。
かゆい。腕がかゆい。かゆいかゆい、とてもかゆい!
「知らないっけ?
「同い年?」
尋ねると、結乃は残り少なくなったタオルに手を伸ばして、「そうだよ」と気にするふうもなく言った。
結乃たちの学年とは一応、小学校で三年間一緒だったはずなのだが、よく考えてみれば、そんなガリ勉系男子がいた気がしなくもない。
って、彼の詳細情報はどうでもいいのだ。訊きたいのは――
「同じところで習字習ってるから、親の都合がつかないときは、ナオくんちに送迎してもらってるの」
一番気がかりだったことは、彼女が自ら説明してくれた。
「そう……なんだ」
どこかで、ほっと胸を撫でおろしている自分がいる。ちょっと余裕が出てきたところで、ようやく腕を見やった。
「あー……」
落とした視線の先に待っていたのは、予想を裏切らない明太子模様。思わず声を上げると、結乃もぱっとこちらを振り返る。
「あっ、また栞奈ちゃんアレルギー? 後で薬塗らないとね」
異変に気づいてもなお、何でもないことのように言う彼女。
傍から聞けば無配慮なやつだと思われるかもしれないが、このあっさりした対応が、いつも大和の心を軽くしてくれた。
「そうだね」
苦笑交じりに答えながら、かゆみが全身に広がっていくのを感じる。これは、飲み薬でないとおさまらないかもしれない。
たしかに、さっき栞奈のことを想って揺さぶられはしたけれど、今回の原因はそれだけではないだろう。
もう、この胸に息づいた想いは、中途半端な言い訳ではごまかせないところまで大きくなってきているようだった。
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