この気持ちに名前を

 

「まずは熱測ってみて」


 二段ベッドの下段に腰をおろすなり、結乃にそう言われ、大和は枕もとに置かれた体温計を脇に挟む。


「腕以外にもかゆいところある?」

「脚とか背中とか、っていうか全身……?」


 こういった症状は、一度意識してしまうともう抜け出せない。炎症部分が広すぎるとうまく認識できず、関係のないところまでうずく気がしてしまうのだ。


「ちょっと失礼。……うーん、脚にも出てるけど、腕よりはマシだね」


 結乃が屈んでパジャマのズボンの裾をめくりながらそう言ったとき、脇の奥で電子音が鳴った。取り出して確認する。


「三十八度ちょうど」

「上がった?」

「ちょっと上がってるけど、さっき七度八分だったし、まぁ……」


 電子体温計なので、これくらいは誤差の範囲だろう。


「昨日まではなかったんだよね?」

「うん」


 答えると、今度は「背中も見せて」と言われ、そのまま後ろを向く。

 彼女の指が背筋を撫でる感覚に、心臓が妙な跳ね方をした。


「あー、背中が一番ひどいかも。何だろう、ストレスかなぁ。蕁麻疹とはちょっと違う気もするんだよねぇ」


 症状を確認し終えたらしい結乃は、手振りで横になるよう促し、従って寝転がると、布団をかけてくれた。


「お母さんは?」


 訊かれて、どことなくぼーっとした頭で、「たぶん買い物」と答える。


「今日はもう無理だろうけど、早めに病院行ったほうがいいと思う。熱もあるし」


 五時半過ぎを指す壁時計を見て気難しい顔をしているかと思えば、結乃は何かをひらめいたように、「あっ、それと」と声を上げた。


「お姉ちゃんに頼まれて予定持ってきたんだった。玄関のところに置いてあるけど……このぶんだと明日も休んだほうがよさそうだね」


 彼女はそう苦笑を残して立ち上がると、部屋の出入り口へ向かう。


「行か……ないで」


 気がついたら、遠ざかる背中に弱々しく投げかけていた。

 呼び止めなければ、もう二度と会えないような気がした。そんな何の根拠もない不安が、瞬間的に襲ってきたのだ。


 結乃は驚いたように足を止めたが、振り返った顔には、とてもやわらかな笑みが添えられていた。


「大丈夫。冷やすもの持ってくるだけだから。すぐ戻るよ」


 その言葉通り、彼女は数分で戻ってくると、一階から持ってきた保冷剤を、頭や背中の下に置いてくれた。


「これでちょっとは楽になるといいんだけど」

「ありがと」


 作業を終えて短い会話を交わした後も、結乃がその場を離れる様子はない。ただ静かに、ベッドの脇に腰かけている。

 たそがれに照らされた横顔は、そのとけるような黄金色こがねいろと同じくあたたかで、不思議な安心感を大和の心に灯した。人工的な冷たさが、熱とともにしつこいかゆみを心地よく奪っていく。それに比例して、まどろみがまぶたを重くし――



 目が覚めたとき、そばに結乃の姿はなかった。

 思ったより長い時間眠っていたようだ。すっかり日も落ちている。


「さすがにもう帰ったよな……」


 切なく、名残惜しい気持ちに包まれながら呟いて、もはや癖のように触れた頬は、濡れていなかった。


 *


 狭い部屋に、割れんばかりの爆音でJポップが響き渡った。

 単調なアラーム音では、どれだけ頑張ろうとも彼を目覚めさせることはできない。騒がしい演奏と歌声が一緒になって、初めて効果を発揮するのだ。

 大和は背伸びをして、貼り付いてしまったのかとおもうほど重いまぶたを無理やり持ち上げ、寝ぼけ眼をこすった。そして、ベッドから体を起こすと、ナマケモノのようにのろまな動きで、スマホからうるさく流れ続けている音楽を止める。


 栞奈がいなくなって、もう、二ヶ月が経とうとしていた。六月も下旬に差しかかり、初夏の清々しさは消えつつある。

 ここ最近やっと、どうにかひとりで起きられるようになった。

 朝ぐずぐずしていようと、叩き起こされることもないし、掛布団を奪われることもない。ずっと望んでいたことではあるけれど、そんなの、嬉しいはずがなくて。

 彼女を失った苦しみから逃れようともがいていたら、結果的に自立できた。


「喜んでいいのかな、これって」


 呟いてみるけれど、もちろん答えは返ってこない。もしも彼女がいたら、何と言ってくれただろうか。

 あの夜――彼女と過ごした最後の夜と同じように、普段よりも少し近くなった天井を見上げながら、考える。


「あーもう、やめやめ!」 


 声に出して振り払った。

 もう、感傷ばかりに浸るのはやめようと、決めたではないか。

 それに、彼女について思いを巡らすのは、体にもよくないのだから。



「おはよう……」


 栞奈。


 その名前を、どうしても呼べない。

 食卓に置かれた小さな木枠の中にいる彼女は、微笑みをたたえたまま表情を変えないけれど、


「ほらっ、早くして! 慶太くんたち待ってる!」


 なんて声が聞こえてきそうだ。

 彼女に見守られながら、朝食と歯磨きを済ませる。

 そこでふと思い出し、食卓に置かれた一錠の薬を服用した。

 リビングで身支度を整えると、もう一度ダイニングを覗いて、


「いってきます」


 と一言。


「いってらっしゃい」


 キッチンで洗い物をしている母が答えてくれる。

 言葉にできない心苦しさを覚えつつも、あたたかな背中に見送られ、大和は玄関で靴を履いてスクールバッグを提げた。

 出入り口のドアに手をかけ、朝のひんやりとした風が頬を撫でたとき、


「早くなったなぁ! お前」


 慶太の大声に飛び上がる。


「まっ、まあね」


 ドアを閉めながら、ちょっと自慢げに答えると、


「まだ待ち時間はあるけどね」


 志歩に痛いところをつかれた。


「わざわざ作ってあげてるんだよ」


 苦し紛れにそう言ったら、「「嘘つくのヘタすぎ」」と声をそろえられる。変なところで息の合うカップルだ。


 いつものように三人で他愛たわいもない会話をしている最中も、もうこの世にいない彼女の笑顔が脳裏にちらつく。ダメだ、ダメだと心中で繰り返し、必死に意識を他へと傾ける。

 突然の過呼吸と湿疹に苦しめられた翌日、まだ湿疹が引いていなかったこともあり、結乃にすすめられた通り病院に行ったのだが、「ストレスでしょう」の一言で終わった。医者にも詳しい原因は分からなかったらしい。


 過呼吸こそあの一回きりだったけれど、湿疹の症状は今でも頻繁に現れるので、常に薬が手放せない。

 塗り薬と飲み薬で対処を続ける日々の中で、ひとつの仮説が生まれつつあった。大和は湿疹が出るとき、必ずと言っていいほど栞奈のことを考えているのだ。


 彼女に対する後悔や記憶に想いをせれば馳せるほど、まるで拒否反応のように体中がうずく。

 授業中や、何かひとつのことに集中しているときの発症は少なく、それがさらなる裏付けになっている気がした。


 言い方が悪いかもしれないが、どうやら大和は、彼女の死を境に「栞奈アレルギー」になってしまったようだ。後日、結乃にそう名付けたと伝えたら、思いきり明るく笑い飛ばされて、少し気が楽になった。

 そうとはいっても、それは栞奈自身に対するものではなく、彼女がいない日々に対する拒絶なのだろうけれど。


 そんなことをあれこれ考えていたら、隣家から結乃が出てきた。彼女の姿を認めた瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなる。

 彼女に抱きしめられた、行かないでなんて甘えてしまったあの日から、どうもこんな調子だ。

 ふと視線を感じて横を見やると、慶太がいかにも物言いたげにニヤニヤしていた。


「何だよ」

「べっつに~?」


 聞かずとも、彼が考えていることは何となく分かる。そしてそれはおそらく、見当外れなものではない。


 ただ、同じあやまちを繰り返したくはないから。

 優しく胸をしめるこの気持ちに名前を付けるのは、もう少し後、きちんと確信が持ててからにしようと思っている。

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