7.

6月4日 午後0時12分



 先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように喫茶店『ブックエンド』の店内にはジャズが流れ、そのリズムに合わせて踊っているみたいにガラス製のティーカップから紅茶の香気を含んだ湯気が静かに立ち昇っていた。

 縁に沿って金細工でバラの蔓をあしらったティーカップの中身は透明の液体で、白湯にしか見えない。しかしアリアが深く息を吸い込むと、朝露に濡れたマスカットのような爽やかな香りが鼻をくすぐる。


「――ぁっくしゅん!」

〈っントに空気読めないな……!〉

 

 アリアがジト目で睨むと、テーブルの向かい側で創介が鼻をかんでいた。


「いよいよ自分も花粉症デビューかな? さっきもここへ来る途中、急にクシャミが五回も連続で出たんだよ」

「あーそれ、花粉症じゃないです……たぶん……」


 しきりに鼻をムズムズさせている創介を尻目にアリアは透明な紅茶を口に含んだ。

 味はやや薄いがそれでもミルクティーの優しくまろやかな風味が不思議と感じられる。


「あ、美味しい……」


 声帯をほとんど震わせず、ため息だけでアリアは感想を述べた。

 その様子を微笑ましく見つめながら、創介は一呼吸置いてから話を切り出した。


「遅れてゴメンね……地下鉄でちょっとした事故があって」

「……事故? それはまた穏やかじゃない話ですね」


 この背が高いクセに腰の低い大学生どんな言い訳をするのだろうと、いやらしく待ち構えていたのだが、創介の遅刻の理由はアリアが全く予想していないものだった。


「なんか外国人の観光客が車内で倒れたらしくて、救急車やら鉄道警察やらが来てけっこうな騒ぎになってるみたいだよ」


「ふーん、そうですか……」


 アリアにも見えるようにSNSのログを表示している創介の肩越しに、カウンター席の方にチラリと視線を向ける。

 しかし初老の男性客はいつの間にか店をあとにしていた。

 カウンターの客だけじゃない、例のカップルも女性店員も創介と入れ替わりに警察に自首しに行ってしまったので、今、この喫茶店の客は創介とアリアの二人っきりだ。

 そのことを意識してしまったせいか、心なしかアリアの鼓動が速くなった。


「それで? 私は何を証言すればいいんですか?」

 会話の主導権を握るべくアリアの方から本題に入る。


「え? 何の話?」

 しかし創介はいつも以上にすっとぼけた表情でアリアの顔を見つめていた。


「だからこの前の……ら、『ラテアート殺人事件』ですよ! 今日はそのことで呼んだんですよね?」

〈まったく、なんで私がこんなこっ恥ずかしい名前を言わなきゃいけないんだよー!?〉


 もはや喧嘩腰に近い勢いで、アリアは一気に創介に詰め寄るアリア。


「ああ、それならとっくに解決したよ。ニュース見てないの? 犯人は探偵さんの推理通り被害者の友人だったんだよ」


 何を今さらとばかりに肩をすくめる大学生に、アリアはアツアツの紅茶をぶっかけてやりたい衝動にかられた。


「どうやらあの二人、見た目ほど仲が良くなかったみたいだね……被害者がSNSの裏アカを使って犯人の女性を誹謗中傷するような書き込みをしていたらしいよ。それが会社の人間や恋人の目にも触れるようになって……」


 創介は自分と彩夢がいかにして箕輪警部を説得し、真犯人の逮捕に至ったかを懇切丁寧に説明していたが、ほとんどアリアの耳には入ってこない。

 そんなことよりもアリアが気になっているのは、『じゃあいったい全体何故、自分はこの大学生と透明なお茶なんぞをしばいているのか?』ということだけだった。


〈まさか……本当にこれは、で、ででで、デートなの!?〉


 改めて創介の服装を見ると、清潔感のある白シャツに杢グレーのベスト、同系色の七分丈のチェックパンツを合わせ、頭にはキャメルの中折帽と、スカしたファッションをしている。


〈って、もしかして九野さんもチェック柄好きなの?〉

 色こそ紺色だがアリアのワンピースもチェック柄で、お揃いに見えなくもない。

 アリアは再び体温が上昇していくのを感じた。


「ところで探偵さん?」

「は、はいっ……!」


 創介の呼びかけで我に返ったアリアは無意識に姿勢を正した。


「今日は探偵さんに折り入って頼みがあるんだ」

「た、頼みゅっ……!?」


 口がカラカラに乾き、舌が上顎に張り付いてうまく喋れない。


〈やはり、お付き合いなのか? 殺人事件から恋が始まっちゃうというのか――!?〉


 おもわず前のめりになったアリアに向かって創介は一枚の紙をテーブルの上に滑らせた。


「は……? 『夫が妻を惨殺後に自殺。閑静な別荘地を震撼させた無理心中!?』 ……ナニコレ?」


 それは古い新聞の切り抜きだった。


 貸し別荘に訪れていた家族の間で起こった不幸な事件――。

 ある嵐の晩、夫が妻を殺し、そのまま自らの命も絶ったという。

 全ては鍵のかかった寝室で起こり、また向かいの別荘の管理を任されている家政婦がたまたま夫が妻をナイフで刺す瞬間を目撃していたという。


「実は探偵さんにこの事件の謎を解いて欲しいんだ」

 創介は真剣な表情で頭を下げた。


「――帰ります。じゃ、ゴチソサマでした」


 アリアはにべもなく立ち上がった。

 冗談じゃない。こちとら、街を出歩くたびに解きたくもない事件に巻き込まれ、会いたくもない殺人犯と慣れない会話をしなくちゃいけないのだ。その上、安楽椅子探偵の真似事なんてまっぴらごめんだった。

 しかし創介も珍しく引き下がろうとしない。


「この通り……! この事件で亡くなったのは自分の両親なんだ」

「――え?」


 出口に向かって歩きだそうとしたアリアの足が止まる。


「両親の事件の後、身寄りのない自分を辰彦さん――彩夢ちゃんのお父さんに引き取ってくれたんだ」

〈なーる……だからあんまし似てないのか、この兄妹……〉


 創介の告白によって今まで欠けていたパズルのピースがいくつかハマった気がした。


〈てか、九野さんの事、前々から幸薄そうだとは思ってたけど……なんだ、とっくに不幸じゃないか〉


 呆れつつもアリアは奇妙なシンパシーを感じていた。

 アリアの両親もけして仲睦まじいとは言えず、シス女の寮に入るまでは年の離れた姉がアリアの親代わりだった。幼い頃、いつも姉が枕元で推理小説を読み聞かせてくれていたことを思い出し、不意に懐かしさを覚える。

 そのせいか、創介の話を聞くだけ聞いてやってもいいかと思い直し、アリアは再びソファに身を預けた。


「ありがとう探偵さん」


 理知的ではあるが、どこか少年の幼さを残した笑顔を向けられ、アリアは一瞬ドキッとする。


「コホン……! それで? これのどこが謎だと言うんです? 現場には鍵がかかっていて、目撃証言もあるんですよね?」


 誤魔化すような咳払いをしながらアリアが続きを促すと、創介は何とも奇妙な表情を浮かべた。


「その目撃証言なんだけど……実はジブンもあの夜、両親が殺されるのを見ているんだ」


 まるでその光景が今でも瞼の裏に焼き付いているかのように、創介は目を閉じた。


「ただし、自分が見たのはだった……」

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