2.
5月31日 午後5時2分
アリアが台所に戻ると、馥郁としたコーヒーの香りが出迎えた。
「おかえり」
すっかり準備を整えた創介の前にはエスプレッソを半分ほど注いだマグカップとミルクピッチャー、そして細長い透明な筒状の道具が置かれていた。牛乳はあらかじめ電子レンジで温めたのか、表面に薄っすらと膜が張り始めている。
「店じゃなくてわざわざウチに連れてきたのは、これを見せたかったからっていうのもあるんだ」
プラスチック製の筒には手押し式のポンプが付いていて、まるで携帯式の空気入れのようなフォルムをしている。
「最近だと電動式のやつも売ってるみたいだけど……まぁ、とりあえず見てて」
そう言って創介はミルクピッチャーから牛乳を三分の一ほど筒の中に注ぎ、フタをしてポンプを動かし始めた。
大きく、素早く一定のリズムでポンプを押しては引くを繰り返す。シャカシャカと、小気味良い音と共に牛乳が泡立ち、みるみるうちに体積を増していく。
一分ほどそうしていただろうか、台所に響く音がオクターブ低くなる頃には透明な筒の内部は白い牛乳の層とシャボン玉のように膨らんだ泡の二層に分かれていた。
「ミルクの温度と泡立てる時の力加減で二つの泡を作るのがポイント。まずは柔らかくきめ細かい泡と牛乳を注いでカプチーノを作る」
説明しながら創介はフタを半分ほどずらし、エスプレッソの入ったマグカップにゆっくりと注いだ。良質なクレマが浮かんだダークブラウンの水面に純白の色彩が混じり合い、鮮やかなマーブル模様を描いていく。
「カプチーノができたら、その上に割れにくくて硬めの泡で土台を作ればほぼ完成。あとはスプーンで大胆に形を整えていくんだ」
クリーミーなカプチーノができたところで残りの泡をティースプーンで盛り付け、〝立体ラテアート〟の土台を作っていく。その出来栄えは店でみたものと寸分違わない。
「真犯人もきっとこういうミルクフォーマーを隠し持ってたんじゃないかな? ほら、ウチの店って席と席の仕切りが高いから、頭を低くしていたら周りからは見えないし、被害者が席を外した隙にカップに細工をしてもバレないと思うんだ」
創介が自分なりの推理を披露している間も、アリアの視線は目の前のカップに釘付けだった。綿毛のように白くキメ細かい泡の中から長い耳が生え、小高い鼻が盛り上がり、まん丸い顔ができあがる。最後に創介は爪楊枝の先をクレマに浸すと、手術用後の縫合でもするかのような繊細な手付きで、目と口を描き入れた。
「これは……確かに、飲むのがもったいないくらいの完成度ですね」
魔法の如く目の前に現れた白ウサギにおもわず目を奪われる。まるで冬毛をまとっているかのように白く弾力のある泡で覆われたウサギがカップの中からアリアの顔を窺っていた。前足をカップの縁にちょこんと乗せ、今にも中から飛び跳ねてきそうだ。
これを作ったのが間の抜けた顔の医大生でなければ、素直に「カワイイ」と叫んでしまっていたことだろう。おもわず写真に収めたくなる芸術作品から目をそらしつつ、アリアはどこか得意気な大学生をジト目で見上げた。
「まぁ、推理の方はお粗末としか言いようがないデスけど」
「え? ダメ……?」
自分の推理にかなり自信があったのか、創介は珍しくショックを受けたような顔をした。
「確かにこの道具があれば一度泡の部分を壊して、毒入りカプセルを入れた後、また〝立体ラテアート〟で蓋をすることはできると思います」
「だろ? 最近はラテアート専用の機種もあるみたいだから、よっぽど不器用な人じゃない限り、そっくりなモノは作れそうな気がするんだけど……」
実際、創介がここまで要した時間は5分弱だ。あらかじめ牛乳を泡立てておけば実際の作業はもっと短くて済むかもしれない。
しかし、その推理には大きな見落としがあった。
「そんな道具が持ち物や店の中にあったら、その時点でバレるに決まってます」
事件の関係者はアリアや創介も含めて全員、事情聴取と一緒に所持品検査を受けている。
警察が到着する前に真犯人が店内に隠した可能性はあるが、いくらなんでもそれを見逃すほど間抜けじゃないと信じたい。
「でも、あの時、何人かはトイレに行ったろ? 細かく分解して流したとかは考えられない?」
そう語る創介には先程までの自信はあまり感じられず、どこかすがるような目をしている。
とぼけたように見えても、やはり警察から殺人犯として疑われている現状は精神的に堪えるのだろう。まるで置き去りにされた捨て犬のようだなと思いながら、アリアは軽く肩をすくめた。
「トイレやディスポーザーは物が消える魔法のアイテムじゃありませんよ。ドラマと違って、実際に流せるものは限られます……たとえ運良く中のパイプを通ったとしても外の排水槽には必ず残る仕組みになっています」
アリアはこの不毛な推理を終わらせるため、更に追い打ちをかける。
「そもそも忘れたんですか? 容疑者のほとんどは職場や学校を抜け出して来ていたため、大した荷物は持ってません」
「……いや、そもそも全員の持ち物なんて覚えてないんだけど?」
今日何度目か分からない驚きの表情を浮かべる創介に、アリアはおもわずぐるりと目を回した。
警察の所持品検査はプライバシーに配慮していたとはとうてい言えず、むしろ覚えていない方がどうかしている。
アリアは創介に協力を求めたことを早計だったかもしれないと思い始めていた。
「私達とオーナーの鳩村氏を除くと、まず常連の鈴木安孝。彼が持っていたのは黒い革の手提げかばんで、中身は通帳と印鑑、折りたたみ式携帯電話、それと領収書の用紙が入っていました」
財布は持っておらず、上着のポケットをジャラジャラとさせていたのを覚えている。ポケットの中にはお札も入っており、クリップで止められたお札の数におもわず目を丸くした。
〈あれだけあれば、ガチャが何回まわせるか……〉
他に気になった物といえば煙草とライターと一緒に持っていたステンレス製の携帯灰皿だ。
あの中に毒入りカプセルを入れておけば安全に持ち運ぶことは可能だろう。
「次にテラス席にカップルで座っていた小川誠司ですが、彼が持っていたのは安っぽい半透明のファイルフォルダーで、中身はバラバラのルーズリーフやプリント類、三色ボールペン、あとはスマホに財布と……毒物や凶器を隠せそうなものはおろか、まともに勉強する道具すら持ち合わせてませんでしたね」
本当に大学生なのか疑ったくらいだ。
同席していた楠双葉も似たようなもので、バッグこそシックな色合いのビジネスブランドだったが中身は貴重品やスケジュール帳などが入っていた。気になったのは、スマホの他に大きめのタブレットも所持していたことだが……。
〈厚さ的に毒入りカプセルは隠せなさそうだけど、なんか引っかかるんだよね……〉
小さなあごを指で触れながら考え込むアリアの表情を勘違いしたのか、創介は苦笑する。
「大学生みんながサークル活動に明け暮れているわけじゃないと思う……たぶん」
アリアはかすかにため息をつくと再度、頭の中の映像を呼び出した。
「何かを隠せる可能性があるとしたら、錦戸透でしょうね。ノートパソコンが入っていたOAバッグの中には他にもタブレットやらデジカメやら、電子機器が沢山入っていましたから」
それらの仕事道具の中に毒入りカプセルを紛れ込ませるのは決して難しくない。
「最後に被害者の友人・米田真美はほとんど手ぶらですね。財布とスマホの他には空のマグボトルを持っていたくらいです」
これは創介も覚えていたのか、軽く頷いた。
「ああ、ウチの店にくる女性客にはわりと多いね。テイクアウトのカップの替わりにマイボトルを持参すると二十円引きのサービスをしてるんだ」
〈ナルホド……〉
しかし携帯灰皿同様、魔法瓶もまた毒入りカプセルを持ち運ぶのには好都合だ。とはいえ、ミルクフォーマーやあらかじめ作っておいた〝立体ラテアート〟を保存しておく容器としては不適当だ。
アリアは牛乳と一緒にスーパーで買ってきた薬のカプセルを〝泡ウサギ〟の上に置いた。
創介の言う「硬めの泡」は見た目よりも丈夫にできているようで、カプセルが半分ほど沈んだ所で弾力のある泡がまとわり付いて、それ以上沈んでいかない。しかし軽く指で押し込んでやると泡は簡単に陥没し、小指の先がクリーム色のカプチーノに触れた。
「――熱っ!」
アリアが慌てて指を引き抜くとまるでボーリング検査をしたかのような縦穴が泡の層を貫き、そこから湯気を立ち昇らせていた。
しかし創介はそれには構わずアリアの細い手首を掴む。
「ちょ、ちょ、ちょっ! いきなり何を――っ!?」
痛くはないものの、有無を言わせぬ力強さでシンクの所まで引っ張られると、指先に流水が当たった。
「大丈夫? ヒリヒリしない?」
蛇口を全開にしながら指先を覗き込む創介の横顔が近く、アリアは黙って頷くことしかできない。ヒリヒリと焼け付く指先の感覚と一緒に冷たい流水が頭の中も全部洗い流してしまったみたいだ。
「これくらい、別になんてこと……」
俯き気味に指先を見つめたままぽつりと呟く。
真っ白になった思考の中で感じるのは、手首を掴む力強い手の感触と甘いコーヒーの香りに混じる汗の匂い……。
「探偵のキミが俺の素人推理を鼻で笑ったように、医者を志す者にそのセリフは言っても無駄だね」
冗談めかしてはいるがその口調にはアリアをたしなめるような響きがあった。
流石の皮肉屋もそれに返す言葉が見つからず、黙って従うしかない。
急に静かになった台所に蛇口から水が流れ落ちる音だけが響く。
豊浦川を流れる雪解け水は夏でも冷たい。アリアはその冷水が指先だけでなく顔の熱も冷ましてくれることを祈った。
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