3.
5月30日 午後3時32分
アリアが自分の席でのんびり梁の数を数えながらコーヒーを待っていると、由佳とかいうOLの方が先にトイレから戻ってきた。角を曲がりアリアの席の横を通り過ぎた瞬間、香水のキツい匂いが鼻を刺し、アリアはおもわず顔をしかめる。
「ちょっと由佳遅ーい。どうせまた化粧直してたでしょー? 私もトイレ行きたかったんだからね?」
「ゴメン、ゴメーン……って、わっ! スゴっ! 真美の仔犬のラテアートもめちゃくちゃ良く出来てんじゃん!」
二人のテーブルに既に創介の姿は無く、戻ってきた由佳と入れ替わりに今度は真美の方がトイレに向かうため通路を歩いて行く。
アリアがなんとなく目で追っていると、今度こそエプロン姿の創介がやってくるのが見えた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとたまごサンドで御座います」
「ほぅ……」
アリアはもう二度と腹の虫がぐずらないように身構えていたが、それでもおもわず溜め息が出てしまった。
表面をカリッときつね色に焼き上げながらも、内側はもっちりと柔らかそうな食パン――。袋状に切り込みを入れられた中にはたっぷりの卵ペーストが詰め込まれていた。ゆで卵をからしマヨネーズとチーズで和えた白と黄色のコントラストが実に美しい。ペーストの真ん中には半熟卵も一緒にサンドされており、黄金色に輝く黄身が今にもとろけ出しそうだ。
コーヒーの方も創介が淹れ直したのか、先程の物に比べて数段香りが立っている。
生のカカオのような香りと共に程よく湯気が立ち昇るカップにフレッシュミルクを注ぐと、対流によってコーヒーが踊っているように見えた。
「ごゆっくりどうぞ」
うやうやしく一礼するウェイターに頷き返すと、アリアは取っ手までしっかり温められたカップを両手で包み込むように持って口元に寄せた。無意識のうちに目をつぶり、しばし燻るコーヒーの香りにだけ意識を没入させる。ちょうど店内にかかっていたBGMも終わったのか、耳に届くのはかすかな話し声と豆を挽く小気味良いミルの音、そして破砕音と女の悲鳴だけ――。
〈――悲鳴だと!?〉
カップに口を付ける寸前でアリアはおもわず目を開けた。
先程までテラス席に座っていたカップルがいつの間にか店内に居て、女の方は伝票ごと口元に手を当て、呆然と立ち尽くしている。
一方、店の反対側では創介が慌てて厨房の奥に入っていくのが見えた。
何事かとアリアが腰を浮かしかけた瞬間――。
「由佳ーっ!!」
トイレから出てきた真美が慌てた様子で目の前を通り過ぎていった。
一口も飲む事ができなかったコーヒーに後ろ髪を引かれながらもその後を追う。まるで警鐘を鳴らすように心臓が脈打ち、自然と早足になっていた。だが頭はスーッと冷たく冷静になっていくのを感じる。
虫の知らせとでも言おうか、過去の経験から何が起きたのかだいたい想像がつく。
案の定、彼女達のテーブルの周りには店内の人間が集まっていて、その中心には先程まで騒がしく写真を撮ってい逢原由佳の変わり果てた姿があった。
テーブルに突っ伏したままだらりと力なく垂れ下がった右腕、その真下には砕け散ったカップが散乱しており、床に広がった水たまりの上で崩れかけた白熊が浮かんでいた。
左手はテーブルと体の間に挟まるように胸を押さえている。コーヒーで水浸しになったテーブルの上には皿やコップ、食べかけのパンが散乱し、彼女がもがき苦しんだ跡を壮絶に物語っていた。
「由佳っ、どうしたの?! ねぇ、由佳ってばーっ!」
変わり果てた友人に真美が覆いすがり、力無く体をゆするが反応は無い。
既に事切れてしまったのか、苦悶に歪んだ顔は血走ったまま眼球が半分以上せり出し、歯が割れんばかりに食いしばった歯茎からは鮮血が滴り落ちている。
「どいて!」
その時、厨房から戻ってきた創介が2人の間に間に割り込み、由佳の体をソファに横たえた。その手にはランチボックスほどの赤いケースが握られている。
〈あれはAEDか……!〉
創介はとっさにそれを店の奥から取ってきたのだった。
「こっちのパッドを上着の裾から入れて、左胸の下に直接貼って」
創介は慣れた手つきでケースを開け、二枚組の電極パッドの包を破いて片方を真美に渡す。しかし彼女は友人の身に突然降り掛かった事態をまだ飲み込めていないのか、足を震わせながらその場に立ち尽くしていた。
〈まどろっこしいな、もう……!〉
アリアは代わりに創介の手から電極パッドをかっさらうと、彼がブラウスの襟元から入れたパッドと心臓を挟む形になるように由佳の体に貼り付けた。
「離れて!」
創介の鋭い声に皆が身構える中、ビクンと一度だけ由佳の体が強張り、すぐにまた糸が切れた操り人形のように力無くソファに横たわった。
「ダメだ……」
誰かが呻くように呟いた。
「由佳っ! ねぇ、嘘でしょ!? 由佳ーーっ!」
腰からその場に泣き崩れる真美。
その間も創介は懸命に心臓マッサージを試みていたが、徐々にその動きも弱々しくなり最後は肩を落としたまま荒い呼吸を繰り返すだけになっていた。噴き出した汗で前髪が顔に張り付き、表情は読めない。
創介の呼吸以外、誰も何も言わず沈黙だけが支配する店内にどこからかサイレンの音が聞こえてくる。
おそらく鳩村マスターか創介があらかじめ119番に通報していたのだろう。だがもはや必要無い。
目の前に横たわっているの死体――しかもこれは明らかに殺人だ。
この場に必要なのは、救急隊ではなく警察とそして“名探偵”だった。
アリアは言葉を失っている容疑者達の顔を見回した後、もう一度だけ自分のテーブルを見る。
「はぁ、またか……」
すっかり冷めてしまった手付かずのコーヒーをぼんやりと眺めながらアリアは深い溜め息をついたのだった。
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