(23)騒動の余波

 意識を取り戻した時、沙織は咄嗟に現状を把握できず、戸惑った声を上げた。

「はぁ?」

 何時間も喋っていなかったせいで掠れてはいたが、その声は至近距離にいた女性の耳に届くには十分だった。


「ああ、関本さん、気が付かれましたね。痛みや吐き気、その他に具合が悪い所はありませんか?」

 寝かせられていたベッドの枕元に据え付けられていた機器の数値をチェックしていたらしい看護師が、振り返りながら見下ろしてくると同時に、沙織は自分の状況とそれに至った経過を瞬時に思い出した。


「いえ、ぶつけた箇所が多少傷む気がする他は、特に支障はありません」

「それでは各種検査では異常ありませんでしたから、先生の診察後にこのHCU(高度治療室)から一般病室に移動する事になります。このまま少し待っていてください」

「はい」

 壁際のボタンを押しつつどこかに連絡をし始めた看護師から、センサーや管が付けられた手や腕を軽く持ち上げて眺めた沙織は、思わず溜め息を吐いた。


(失敗した。多分、あの女と揉み合った拍子に、後ろに倒れ込んだのよね。何か硬い物に頭をぶつけた気がするけど、受付の近くにそんな高さの物があったかしら?)

 そこで考え込んだ沙織は、いつも目に飛び込んでいた受付カウンターの横にひっそりと設置されていた物を思い出した。


(そう言えばあそこには、お義母さんの曾祖父に当たる、松原工業初代社長の胸像があったわね。お義母さんが『沙織さんに怪我をさせるなんてとんでもないわ! そっちがよけてくれれば良いのに!』とか無茶な事を言いながら激怒しそう)

 そんな想像をした沙織は声を潜めて小さく笑ったが、その拍子に僅かに身体を捻った事で後頭部を変に圧迫したのか、怪我をした場所に軽い痛みを覚えた。


「……痛」

「大丈夫ですか?」

 沙織の呟きに、連絡を終えて測定機器のチェックをしていたらしい看護師が、確認を入れてくる。それに沙織も真顔で答えた。


「大した事はありません。動いた拍子に、傷口がどうにかしたのかも」

「処置時の麻酔の効果も切れている時間帯ですし、もし痛みが強くなるようなら遠慮なく仰ってください」

「はい。今のところは大丈夫みたいです」

「お待たせしました。関本さん。それでは一通り、体調を確認してから、経過を報告します」

「お願いします」 

 そこで白衣姿の初老の医師が現れて簡単に沙織の診察をし、説明を済ませて再び忙しげに立ち去って行った。


「それではベッドのまま、一般病室に移動しますね。あとご家族が下の外来待合室でお待ちなので、誰かを呼びに行かせます」

 前後を看護師が挟んで寝ているベッドがゆっくりと移動し始めてから、説明された内容に引っ掛かりを覚えた沙織が、ちょっとした疑問を口にした。


「あの……、このフロアに患者の休憩室や、家族が待機する待合室とかは無いんですか?」

「それはありますが……。実はそこでお父様が、旦那様とお兄様相手に少々騒がれまして。申し訳ありませんが他の方のご迷惑になりますので、他のフロアでお待ちいただく事になりました」

「お騒がせして、本当に申し訳ありません」

 看護師から苦笑混じりの説明をされた沙織は、どれだけ病棟で騒いだのかと心底うんざりした。


(和洋さん……、少しは場所を弁えてよ。それに友之さんと豊も来ているなんて、大事になっちゃったわね)

 精神的な疲労感を覚えながら沙織はおとなしく運ばれていき、ナースステーション近くの個室に入ってから看護師達が機材をセットしていった。それが終わるのと入れ違いに、三人の男が声を荒げながら一塊になって入室してくる。


「沙織ちゃん! 本当に大丈夫かい!? やっぱり松原工業なんてさっさと辞めて、ついでにこの甲斐性なし野郎とも別れてうちに来なさい!」

「親父! 友之さんの前で、失礼な事をほざくな! それにくれぐれも騒ぎ立てるなと看護師さんに叱られたのを、もう忘れたのか!?」

「豊さん、俺は気にしていませんから」

「五月蝿い、お前こそ黙れ! 大体沙織に切りかかった女は、こいつのストーカーだと言うじゃないか! 半分はこいつのせいだろうが!」

「申し訳ありません」

「友之さんに非はないだろう! 親父、いい加減にしろ!」

「お静かに!! ここは病室ですよ!?

「…………」

 その場に居合わせた貫禄のある看護師に、険しい表情で一喝された三人は黙り込み、沙織は溜め息を吐いてから和洋と豊に向かって懇願した。


「駆け付けてくれてありがたいけど、取り敢えず友之さんだけ残って、二人は帰って貰える? 退院したらお詫び方々、そっちに顔を出すから」

「そんな! 沙織ちゃん!」

 沙織の申し出に和洋は悲愴な顔付きで抵抗しようとしたが、豊はあっさり納得した上で看護師に確認を入れる。


「分かった。お前の無事な様子を見て安心したし、時間が勿体ないからさっさと帰って調べ始める。ところで……、すぐ退院できますよね?」

「はい。検査で異常は見られませんでしたが頭部の外傷ですので、念の為に明日一日は経過観察をしつつ、再度簡単な診察と検査をします。それで問題が無ければ、明後日退院予定です」

「ありがとうございます。それじゃあ沙織、俺は親父を連れて帰る。俺から一応お袋と薫に知らせるつもりだが、構わないな?」

 実家に秘密にしておける筈もなく、沙織は豊の申し出に素直に頷いた。


「うん、ごめん。ありがとう」

「いいから。安静にしてろよ? それでは友之さん、お先に失礼します。ほら、親父。行くぞ」

「沙織! また明日来るからね!」

「ご心配おかけして、申し訳ありません。ご足労いただき、ありがとうございました」

 涙目になっている父親を半ば引きずるようにして豊は引き上げ、そんな二人に対して友之は深々と頭を下げた。


「それではこちらは完全看護ですので、面会時間終了前にはお引き取りください」

「分かりました」

 看護師達も友之に声をかけてから退室すると、彼は備え付けてあった椅子を持ち上げてベッド脇に置き、それにゆっくりと腰を下ろした。


「友之さん、顔色が悪いけど大丈夫?」

「そっちも、あまり良く無いとは思うがな。まあ、でも……、倒れていた時よりは、幾分良く見えるか……。本当にあの時は、生きた心地がしなかったぞ」

 いかにも憔悴しきった顔で、左手を慎重に両手で握り込まれながら友之に告げられた沙織は、素直に反省した。


「随分心配かけちゃったみたいね。これから倒れる時は、背後に気を付けるわ」

「そういう問題じゃない!! そもそも刃物を持っている人間なんかに、自分から近付いてどうする!!」

「……ごもっともです」

 本気で怒られた沙織は全く反論できず、面目なさげに視線を逸らしたが、反射的に怒鳴ってしまった友之はそれを見て瞬時に冷静さを取り戻し、真顔で頭を下げながら謝罪してきた。


「すまん。元はと言えば俺のせいだ。この前あの女に絡まれたばかりなのに、もう少し注意しておくべきだった」

「まさか会社に包丁持参で乗り込んで来るとは、誰も思わないわよ。友之さんのせいじゃないから」

 沙織はそう言って宥めたが、友之は硬い表情のまま続けた。


「だが、沙織は俺とあの女との事を知っていたから、わざわざ自分から近付いて行ったんだろう? そうでなければ、まず冷静に通報してから避難する筈だ」

「それは……、通常の行動パターンであれば、確かにそうかもしれないわね。事が大きくなる前に、追い払いたい気持ちがあったのは確かよ」

「多少痛い目を見ればおとなしくなるかと思ったが、俺の考えがまだまだ甘かったらしい。……今度こそ、息の根を止めてやる」

「ちょっと、友之さん!?」

「誤解するな。文字通りの意味ではなくて、社会的な制裁と言う意味だ」

 友之の表情からは決意が漲っていたが、対する沙織は微妙な顔になりながら言葉を継いだ。


「それに関してだけど……、友之さんが手を出す隙も余裕も無いかも……」

「どういう意味だ?」

「豊が帰りがけに言っていたでしょう? 『薫に知らせる』と『さっさと帰って調べ始める』って」

「確かに、そんな事を言っていたと思うが。それがどうした?」

 そこら辺は完全に聞き流していた友之が要領を得ない顔付きで尋ね返すと、沙織は溜め息を吐いてから説明を続けた。


「小さい頃親戚筋から、薫は四六時中私にベッタリで暑苦しい所が、父親似と言われていたの。豊は逆で、普段素っ気ない位冷静だけど、私に何かあった時のキレ具合が母親似だと言われていたわ」

「そうなのか? そうすると……」

「あの女の事を公式非公式に徹底的に調べ上げて、社会的に抹殺するつもり満々ね」

「豊さんは豊さんで、好きなようにすれば良い。俺は俺でやらせて貰うだけだ」

 素っ気なく断言した友之だったが、沙織は益々困り顔になって指摘した。


「私達が付き合い出した頃に薫が友之さんの事を調べて、あの女に接触していた事を知っているし、今回それが必然的に豊の耳に入る筈よ。下手したら過去の事や裏工作の事まで探り当てかねないし、そうなったら友之さんも纏めて制裁対象になりうる状況なんだけど、そこの所は分かっている?」

「…………」

 そんな危険性を指摘した沙織に心配そうに見上げられた友之は、自分の顔が盛大に引き攣った事を自覚した。しかし何とか平静を装いながら言葉を返す。


「諸々の事は自業自得だし、下手な弁解はしないつもりだ。叱責も制裁も甘んじて受けるが、沙織と別れるつもりは無いし、あの女への制裁は俺なりに下す」

「止めるつもりは無いけど、喧嘩だけはしないでよ?」

「それは約束する。それから……、沙織に謝らなければいけない事も思い出した」

「何の事?」

「沙織が搬送される時、周りに社員が大勢いる中で夫だと言って救急車に同乗させて貰った。佐々木と水原も聞いていたし社内で騒ぎになって、父さんが課内に説明に出向いたと、待合室で待機している間に連絡してきたんだ」

 如何にも申し訳なさそうに告げてきた友之を見て、まるで大型犬が面目無さそうに項垂れている絵面を連想してしまった沙織は、笑い出したいのを堪えながら言葉を返した。


「それは仕方がないと思うし、元々公表するつもりだったんだから、ちょっと前倒しになっただけじゃない。大丈夫よ。多少気まずい思いをするかもしれないけど、これからも仕事でしっかり実績を出すから。そっちも制裁云々にばかりかまけていないで、しっかりやる事はやってね?」

 瞬時に腹を括った沙織が苦笑しながら口にした台詞に、友之の表情が自然に緩む。


「そうだな。仕事には穴を空けないように、肝に命じておく。そろそろ面会時間が終了するから帰るが、くれぐれも今日と明日は安静にしていろよ?」

「病院で暴れる趣味は無いから」

 そこで時刻を確認した友之は、名残惜しそうに掴んでいた沙織の手を放し、まだ幾分心配そうに振り返りながら病室を出て職場へと向かった。

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