(21)沙織の負傷

「ふざけんな! あんたも友之も殺してやる!!」

「ちょっと、何、うっ!」

 いきなり両手で首を絞めてきた寧子に沙織は動揺しつつ、身体を引いて首にかかった手を引き剥がしながら揉み合いに突入する。


「どいつもこいつも、殺してやるわっ!!」

「いい加減に! つぅっ!」

 一瞬油断した沙織が、そこで押されてバランスを崩した。その場所は受付カウンターの至近距離であり、その横には初代社長の胸像が胸の高さ程ある台座の上に設置されていたが、偶々彼女がその胸像に向かって倒れ込み、後頭部をその台座で強打した後は、背中を台座に滑らせるようにして斜めに床に倒れ込んで微動だにしなくなる。


「先輩!?」

 その一部始終を目の当たりにした佐々木は血相を変えて立ち上がり、沙織に駆け寄った。さすがにこの事態に、周囲の男達が一斉に動き出す。


「あんた、何するんだ!」

「相手は素手だ! 取り押さえるぞ!」

「はい! おとなしくしろ!」

「誰か! 救急車を呼んでください!」

「分かりました!」

「大変だ! 確か彼女、以前騒ぎになった営業二課の奴だよな!?」

「受付の内線で連絡するぞ!」

 意識を失ったままの沙織を仰向けにしようとした拍子に、後頭部から僅かに出血しているのを認めた佐々木は狼狽しながら彼女に呼びかけた。 


「先輩! 大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

「君! 止めろ、身体を揺するな!」

「頭を打ってるんだ! 出血もしているし、下手に触らずに寝かせて救急車を待て!」

「あ、はい!」

 反射的に沙織の身体を揺すっていた彼は、周囲から制止されて慌てて彼女の身体を床に横たえた。その横で寧子の喚き声が響く。


「ちょっと! 放しなさいよ! あの女、殺してやるっ!」

「五月蝿い! おい、絶対に放すなよ! すぐに警察が来るからな!」

「分かってます! 暴れるな!」

 事ここに至って、社内のあちこちに連絡がされたのか、野次馬が続々とエントランスホールに集まって来た。彼らは沙織や寧子たちを遠巻きに囲んで囁き合っていたが、その人垣をかき分けて友之と水原が現れる。


「佐々木!」

「刃物で襲われたと聞いたが、大丈夫か!?」

「課長! 水原さん! 俺は大丈夫ですが、先輩が!」

 佐々木が安堵のあまり涙ぐみながら二人に呼びかけると、その横に寝かせられている沙織を見て、揃って血相を変えた。


「関本! 大丈夫か!?」

「沙織! どうした!? 切られたのか!?」

 いきなり名前を呼び捨てにした友之に、佐々木は(え? 沙織って……)と違和感を覚えたものの、そんな事を追及する余裕は全く無かった為、寧子を指さしながら簡単に事情を説明した。


「いえ、その女と掴み合って揉み合った拍子に、そこの胸像の台座の角で後頭部を強打して倒れてしまって」

 それを聞いた途端、友之は警備員が二人がかりで後ろ手に拘束し、更に二人に押さえ付けらえている寧子に向き直り、紛う事無き殺気を向けた。


「貴様!! ふざけるな!!」

「課長!?」

 怒りが振り切れた状態の友之は、憤怒の形相で彼女の周りを囲んでいた警備員を問答無用で引き剥がし、後ろに手首を固定されて無抵抗状態の寧子の胸倉を掴み、その顔面に勢い良く拳を叩き込む。


「おっ、おいっ!?」

「うおっ!?」

「ちょっと待てっ!」

「きゃ、ひぃいぃぃっ!」

 しかし周囲の者が、顔面を直撃するかと思ったその拳は、彼女の鼻先2cmでピタリと制止し、広いエントランスホールに友之の罵声が響き渡る。


「今度また俺の周りに現れたら、多少は見られるその顔を跡形もなく潰してやる!! その鳥頭に叩き込んでおけ!!」

「ひっ……」

「かっ、課長?」

 その剣幕に寧子は完全に腰を抜かし、それと同時に友之が掴んでいた手を勢い良く放した事で、真っ青な顔で床にへたりこんだ。友之の気迫に、周囲の者達も顔色を無くす中、けたたましいサイレンの音に続いて正面玄関から複数の人間が雪崩れ込んで来る。


「警察です! 襲撃犯はその女ですか!?」

「凶器は! 他に危険物を隠し持っている可能性は?」

「すみません。凶器の包丁は、俺が向こうに蹴り飛ばしました」

「分かりました。おい、鑑識を呼べ! それから野次馬を排除!」

「容疑者確保。これから署に連行します!」

 駆け付けた警官が佐々木から事情を聞き始めると同時に現場の保全を始め、まるで親の仇を見る様な目で彼女を睨みつけていた友之は、寧子が連行されて行くのを見送ってから沙織の横で膝を付いた。

「沙織、大丈夫か?」

「課長、やはり意識はありませんね。あそこに頭をぶつけた拍子に、脳震盪を起こしただけなら良いのですが……。台座の角で裂傷ができたのか、出血していますし」

 一足先に沙織の様子を確認していた水原が、横にある胸像の台座の角を指さしながら説明すると、無意識にそこを見上げた友之は、僅かに血痕が付いているのを認めて無言で眉根を寄せた。そこで新たなサイレンと共に、正面玄関に救急車が到着する。


「通報を受けましたが、怪我人はどこですか?」

 ストレッチャーを引きながら声をかけてきた救急隊員に、水原が立ち上がりながら彼らを呼び寄せる。

「こちらです! 彼女をお願いします」

「了解しました。おい、急げ!」

 それから沙織の横までやって来た救急隊員は一度ストレッチャーの脚を畳み、高さを低くしてから沙織を慎重に移乗させた。そして元の高さに戻し、救急車に移動させる。


「搬送先は決まったな? よし、出るぞ!」 

 友之と水原も救急隊員と共に救急車まで同行し、ストレッチャーが乗せられ、隊員達が本部と連絡を取り合っているのを眺めていたが、隊員の一人が後部ドアを閉めようとしたところで、友之が声をかけた。


「すみません、俺も同行させてください」

 その声に彼が振り返り、友之に尋ねる。

「患者の同僚の方ですか?」

「いえ、夫です」

「分かりました。それでは奥様と一緒にどうぞ」

 隊員は当然の如く応じたが、それを耳にした水原の目が驚愕のあまり点になった。

 

「は?」

「水原、すまん! 皆に説明しておいてくれ!」

「あ、はい! 分かりました! ……じゃなくて、課長!? ちょっと待ってください!」

 救急車に乗り込みながらの切羽詰まった友之の叫びに、水原は反射的に了承したものの、慌てて詳細を問い質そうとした。しかしその前にドアが閉まり、サイレンを鳴らしながら救急車が走り始める。


「夫……、奥様? ええと……。一体、何がどうなっているんだ?」

 周囲の社員達の興味本位の視線を全身に浴びながら、全くわけが分からなかった水原は、呆然と救急車が走り去った後の幹線道路を眺めるのみだった。


「そういうわけで、課長は関本を搬送していく救急車に同乗して行ったので、状況報告に戻りました」

 沙織が搬送された後、いつまでも正面玄関で呆けている訳にはいかなかった水原は、取り敢えず営業二課に戻った。そして心配しながら待機していた係長の杉田に、自分が把握している範囲で経過を報告したが、その予想外すぎる内容に室内が静まり返る。そして彼が一通り語り終えた後、杉田が彼に確認を入れた。


「佐々木はどうしたんだ?」

「現場に残って、警察に状況説明をしています」

「それは構わないが、課長が関本の夫だと言うのは? 聞き間違いではないのか?」

 その場全員を代表して杉田が最大の疑問をぶつけたが、対する水原は困惑も露わに弁解した。


「俺だけだったらそうかもしれませんが、近くにいた他の社員も聞いていますから……。実は俺、関本の兄と大学在学中からの友人なので、ここに戻る前に詳細について尋ねようと電話してみたのですが全く繋がらない状態なもので、詳細は不明です」

「…………」

 再び室内が静まり返ったが、ここで課長席の内線が鳴り響き、一番近くにいた杉田が慌てて受話器を上げて応答した。


「はい、営業二課です。……社長!? どうかされましたか? …………あ、いえ、それは違います。搬送されたのはうちの関本で、課長が付き添って行かれました。その折に、課長が関本の夫だと名乗ったそうなのですが……」

 そのやり取りを耳にした室内全員の視線が杉田に集まり様子を窺っていたが、その会話はすぐに終わった。


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