(17)予想外の来訪者

 沙織としては、一応友之と付き合い出してからも公私混同するつもりは微塵もなく、職場ではそれまで通りの態度を貫いていた。当然友之も同様であったが、時折それを面白がっている風情を見せる事があった。


「課長、こちらが諏訪テクニカルとの契約書です。それから製品開発部に依頼していた、RP56のデータが出揃いました。再来月の精密機械技術会議に向けての資料は、それを踏まえた上で来週中には提出します」

「分かった。そのまま進めてくれ。それから、ちょっと待て」

「はい、何でしょうか?」

「これに付いてはどう思う?」

 データを引き渡して終わりかと思っていたら、何かのメモ用紙を差し出された為、沙織は何事かとそれに目を落とした。しかし目に入ってきた内容に、僅かに口元をひくつかせた。 


『土曜日が空いているなら、午後から行くから諸々を付き合え。ついでに泊めて貰えるか?』


「……宜しいのでは無いでしょうか?」

 辛うじていつもの表情を保ちながら応じると、友之は笑いを堪える表情でそれを引っ込めながら告げる。


「そうか。戻って良いぞ」

「失礼します」

(普通に電話とかメールとかでも良いのに、どうしてわざわざこんな事……。絶対に私の反応を、面白がってるよね!?)

 自分の席に戻ってすぐに中断していた仕事を再開しながらも、沙織は時々予測が付かない友之の行動に、困ったものだと小さく溜め息を吐いた。


 ※※※


「やあ、どうも」

「……いらっしゃいませ。何ですか、その荷物は?」

 予告の時間に自宅インターフォンの呼び出し音が鳴り、少ししてから再び鳴った呼び出し音に玄関のドアを開けると、そこに両手に荷物を提げた友之の姿を認めて、沙織は呆気に取られた表情になった。そんな彼女に友之が、まず平らな包みを差し出す。


「ここに来る前に、デパートの鮮魚売り場と日本酒の販売コーナーに寄って、頼んでおいた刺身の盛り合わせと酒を受け取って来た。夕飯は米を炊いて、味噌汁だけで良いぞ」

 そのビニール製の風呂敷の隙間から見える、切り身と海産物の盛り合わせに、沙織は半ば呆れながら正直な感想を述べた。


「これはまた随分と、気合いの入った盛り合わせで」

「ほら、酒と一緒に冷やしておけ」

「遠慮無く頂きます……」

 素直にその包みを受け取りながら、中へと促した沙織だったが、玄関に入りながらその表情を眺めた友之は、不思議そうに声をかけた。


「何だ? 何か言いたい事でも?」

「私への手土産を選ぶ時、全く悩んでいませんよね?」

「そんなに俺を悩ませたかったのか? 実はちょっと悩んだぞ?」

「本当ですか?」

「ああ」

 大真面目に頷いた友之は、自分が持っている酒を入れた紙袋の中からDVDのケースを三つ取り出し、沙織に見せた。


「デパートに行く前にレンタル店で、サスペンスアクション物か、感動恋愛巨編か、国民的長編アニメのどれにするかで三十分位悩んだ挙げ句、全部借りてきた。この中だとどれが良い?」

 真剣な表情でお伺いを立てられた沙織は、溜め息を吐いてから、そのうちの一つを選択した。


「……アニメで」

「よし。それなら早速これを見るか。珈琲か紅茶を淹れてくれるか?」

「ソファーに座って、待っていて下さい」

(あのタイトル……。以前全部会社で、話題に出した事があったかも。なんかムカつく……。色々見透かされているようで。というか無駄に良い記憶力、他の所で発揮して下さいよ!)

 上機嫌で頷いた友之から荷物を全て受け取り、リビングに追いやった沙織は、半ば八つ当たりしながら珈琲を淹れ始めた。

 二人分の珈琲と置いてあったお菓子を出し、ソファーに並んで座って映画を見始めた沙織だったが、暫く雑談した後に、友之が不審な行動をしているのに気が付いた。


「……ふぅん?」

「さっきから辺りを見回しながら、何をしてるんですか?」

「当初は家族で暮らしていただけあって、家具もそれなりに揃っているなと。このソファーも三人掛けで立派な物だし、寝るには十分だ」

「はぁ? ここで寝る? ここって、ソファーでって事ですか?」

 いきなり訳が分からない事を言われて、沙織は呆気に取られたが、友之は大真面目に言葉を継いだ。


「泊めてくれとは言ったが、沙織は誰かと一緒に寝るのは嫌だと言ってただろう? 俺は別に、いびきが酷くても気にしないが。それにこの際、一時間位ぶっ続けでキスしていれば、正しい鼻呼吸が身に付いて一気に改善するかも」

「グーで殴る! このほっこり感動的な場面を見ながら、何を馬鹿な事言ってるんですか!」

 右手で拳を握り、左手でテレビを指さしながら叱り付けた沙織に、友之は懲りずに言い続ける。


「今のはちょっとした冗談にしても、どれだけ寝相が悪いのか、一度体感してみたいと」

「とっとと出て行け」

「まあ、そう言わずに。是非、このソファーの寝心地も体感してみたいから」

 さすがにこれ以上は拙いかと、苦笑しながら謝って宥めてきた彼に、沙織は色々諦めたように溜め息を吐いてから、空き部屋について告げた。


「ソファーに寝なくても、以前豊が使っていた部屋は、そのまま家具が置いてありますから。すぐ使えるようになってます。泊まるつもりなら、そこを使って下さい」

「そうなのか?」

「ええ、3LDKですからね。もう一つの部屋は、弟の薫が上京した時に使ってます。そこを定期的に掃除するついでに、その部屋も手入れしてますから」

 そこで、彼女の口からは滅多に出ない家族の名前が不意に出てきた為、友之は興味津々で尋ねた。


「弟さんか。因みに、どれ位の頻度でここに来るんだ?」

「二、三ヶ月に一度位でしょうか? 普段向こうから連絡は寄越しませんが、さすがに泊まりに来る時は、前日までには一本電話かメールがありますけど。最近何を考えてるのか、益々分からなくなってきて……」

「そんなに面倒くさいのか? お前が言うなら相当だな」

「『お前が言うなら』って、どういう意味ですか!?」

 うんざり顔から一転、自分の台詞を聞くなり噛みついてきた沙織を再び宥めながら、友之は密かに考えを巡らせた。


(沙織の弟か……、どんな人間だろうな。父親のように、あからさまに敵対心を持たれないと良いが。だが実家がある名古屋在住だし、そうそう顔を合わせる機会も無いだろう)

 そんな事を考えていると、沙織が些か憮然とした顔つきで、リモコン片手に友之に声をかける。


「取り敢えず、ちょっと巻き戻しますよ? 世俗的にも程がある話を持ち出されて、せっかくの感動的な場面が台無しでしたから」

「ああ、悪かった。好きな所まで戻してくれ」

 それからは友之は余計な事は言わずに映画鑑賞に付き合い、持ち込んだ盛り合わせをつまみに酒を堪能してから、二人で沙織の部屋になっている主寝室に引き上げ、彼女の就寝時間になるまで十分に楽しんだのだった。

 その日の日付が変わる直前、沙織のマンションの玄関が大した音を立てずに開き、若い男が一人現れた。


「男物……」

 玄関に脱いである友之の靴を見て、彼は興味深げにそれを見下ろしてから、玄関の鍵を鞄にしまいつつ何事も無かったかのように上がり込む。


「一年以上期間が空いていたし、そろそろ新しい男ができてもおかしくは無い頃だとは思っていたが、案の定だったな」

 そして廊下の奥の方に目をやりながら、真っ直ぐにリビングへと向かう。

「さて、俺も見る物を見たら、さっさと寝るか」

 向かった先はリビングの片隅に置かれたパソコンであり、彼はその電源を入れると、迷わずパスワードを打ち込んだ。 


 翌朝の七時過ぎ。

 枕元に置いてあったスマホが着信を知らせてきた為、沙織は自分に絡みついている友之を引き剥がしながら訴えた。

「ちょっとストップ! 電話!」

 それを聞いた彼が、如何にも不満そうに言い返す。


「はぁ? 日曜の朝っぱらから、何の用だ。間違い電話じゃないのか? そんな無粋な電話は放っておけ」

「日曜日の朝っぱらからベッドに押しかけてくる、非常識な人間に何も言う資格は無いし、この着メロは家族からだから!」

「それじゃあ仕方ないな。せっかく爽やかに早起きしたから、昨夜の続きをするつもりだったのに、予想外の邪魔が入った」

 ブツブツと文句を口にしている友之を放置し、スマホを引き寄せた沙織は、ディスプレイに浮かび上がった名前で相手を確認し、ベッドに寝転がりながら応答した。


「全く……。もしもし? 薫、朝からどうしたの?」

 なんでこんな時に電話してくるかと、面白がってちょっかいを出してくる友之の手をつねりながら声をかけると、彼女にとって全く予想外の台詞が返ってくる。


「朝から男とよろしくやってる所に電話して悪いが、朝飯ができたから一緒に食わないか?」

「はい? 朝飯? 一緒にって……、あんた今、どこに居るの?」

「台所。直線距離にして、約十五メートルってとこか?」

「………………はぁあぁぁ!? 台所!? 薫! あんた本当に居るの!? 聞いて無いし、いつの間に来たのよ!」

 あまりにもサラッと言われた内容が頭の中に浸透するまで若干のタイムロスが生じ、その直後沙織は衝撃のあまり、裸のままベッドの上に起き上がった。それを見た友之が驚きで目を丸くする中、沙織の耳に容赦の無い声が伝わる。


「昨日の二十三時過ぎ? どうせ沙織は寝てるだろうし、男は風呂場に居たみたいだから、どっちにも挨拶はしないで、さっさと寝てさっき起きて、飯を作ってた」

「……っ! あのね、来るなら来ると、事前に一言」

「飯は男の分も作ってある。冷める前にさっさと来い」

「あ、ちょっと、薫!」

 一方的に通話を切られた沙織は、沈黙したスマホを見下ろしながら呻いた。


「信じられない……」

「沙織? 薫って、弟の名前だよな? まさか……、今現在、ここの台所に居るとか……」

 間近で今のやり取りを聞いていた友之が、彼女の背後から恐る恐る声をかけると、沙織がゆっくりと彼に向き直りながら、強張った顔で事実を端的に告げる。


「ええ、薫の現在位置はこのマンションの台所で、友之さんの分の朝ご飯も作ってくれているそうです。冷める前に食べに行きましょう。でないとここに乗り込んで来ます。賭けても良いです」

 いきなりそんな事を言われた友之は、さすがに狼狽した。


「……ちょっと待て。この状況で、俺にどんな顔をして弟の前に出ろと?」

「私だって、どんな顔をすれば良いか分かりませんよ! とにかくさっさと部屋に戻って、着替えてきて下さい!」

 もはや泣きが入りかけている沙織にそれ以上口答えする気は起きず、友之は慌てて使わせて貰った部屋へと戻り、彼女も激しく動揺しながら、何とか着替えを済ませた。

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