(11)ささやかな終活
週末を実家に戻って過ごした沙織は、特に精神的疲労感が抜けきらないまま、月曜の朝出勤した。
「おはようございます」
「おう関本、おはよう」
(変な事になっちゃったけど、取り敢えず課長と付き合う事は課内には内緒だし、由良にも当面黙っている事にしよう)
別に悪い事はしていない筈なのに、何となく内心びくびくしながら、しかし一見普通に出社した沙織だったが、机に落ち着くとすぐに背後から声をかけられた。
「やあ、おはよう、関本」
「……おはようございます」
(無駄に爽やかなオーラを纏って出勤して来たわね。人の気も知らないで)
背後を通り抜けながら、いつも通りさり気なく挨拶してきた友之を、彼女は軽く見上げながら、幾分恨みがましい視線を送る。それをしっかり感じ取ったらしい友之は、苦笑しながら自分の席へと歩いて行った。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、佐々木君」
次に彼女に声をかけて来たのは隣の席の佐々木だったが、彼は挨拶もそこそこに予想外の事を言い出した。
「早速ですが先輩、合コンしませんか?」
「……はい? 何で?」
「だって先輩は、今現在お付き合いしている人は居ませんよね?」
「まあ、それは……、居ないわね。一応」
課長席まで聞こえていないでしょうねと心配しつつ、冷や汗を流しながら沙織が応じると、佐々木が真顔で主張し始めた。
「先輩は一見隙が無さそうに見えて変な所で抜けているのが、この前、ストーカー野郎が現れた事で明らかになりましたから」
「佐々木君、あのね」
「ですからやはり、先輩にはしっかりした相手を紹介して、その人に面倒を見て貰わないといけないと思ったんです」
「どうしてそこで、合コンで新しい男を見繕う話になるの……」
(昨日の今日で、しかも課長の前でこんな話……。佐々木君、間が悪過ぎるから)
何となく周囲の視線を集めてしまっている気配に、沙織は頭を抱えたくなったが、佐々木は思いつめた表情で話を続けた。
「姉が結婚詐欺の被害にあって、『もう結婚なんかしない。独りで雄々しく生きていくから、何かあった時の為に終活する』と言い出しまして。だからせめて先輩には、もっと人生に前向きでいて欲しいんです」
「終活って……」
「お前の姉さんなら、まだ若いだろう?」
「それに独身なのに」
途端に周囲から困惑の声が上がったが、ここで沙織は声のした方に向き直り、不思議そうに反論した。
「別に若いうちから終活をしても、構わないんじゃないですか? 寧ろ独身だからこそ、何かあった時にできるだけ周りに迷惑をかけないように、備えておく必要があると思いますし。私も終活位してますよ?」
「はぁ?」
「何言ってんだ?」
怪訝な視線が沙織に集まる中、彼女は机の引き出しから一冊の薄い手帳を取り出し、佐々木に向き直って真顔で説明し始めた。
「因みにこれが、職場版の終活ノート。もし万が一、私がぽっくり逝った場合、これに沿って宜しくね? 多分佐々木君が頼まれる事が多いと思うし、職場で倒れた時の緊急時連絡先とか、私物で処分して欲しい物と実家に送って欲しい物を、この中にリストアップしてあるから」
「うわぁぁぁ――っ!! ねぇちゃあぁぁ――ん! しぬなぁぁ――っ!」
「へ? ちょ、ちょっと、佐々木君!?」
「おい、佐々木!?」
「落ち着け! 何やってるんだ!」
「お前本当に、最近情緒不安定だよな!?」
説明の途中でいきなり佐々木が泣き叫び、椅子に座ったまま抱き付いてきた為、沙織は面食らった。周りが呆れて立ち上がり二人を引き剥がそうとする中、いつの間にか歩み寄っていた友之が、拳で十分手加減しながら佐々木の頭を叩く。
「佐々木、朝っぱらから錯乱するな」
「いてっ!!」
「ちょっと顔を洗って来い。男にハンカチを渡すのは初めてだが、好きに使え」
「……すみません。行って来ます」
呆れ顔で差し出された白いハンカチを素直に受け取った佐々木は、項垂れて部屋を出て行った。沙織が溜め息を吐きながらそれを見送っていると、頭上から呟き声が降ってくる。
「終活ノート……」
「何か?」
思わず見上げると、自分の手元を眺めている友之の視線とぶつかり、沙織は不思議そうに尋ねたが、彼は僅かに口元を歪めてコメントした。
「……いや。準備の良い事だと思ってな」
その後は余計な事は言わずにそのまま席に戻った為、沙織も特に気にすることなく、その日の業務に取り掛かった。
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