(5)とんでもない誤解

 誕生日の翌朝。沙織は自分の机の横を通り抜けようとした友之に、何気無く声をかけた。

「おはようございます、課長」

「……おはよう」

(あれ? 何だか課長、元気がないと言うか、体調か機嫌が悪い?)

 足を止めて見下ろしてきた彼を見上げながら、沙織はちょっとした異常に気が付いた。しかし確信できないでいるうちに、友之がさり気なく尋ねてくる。


「そういえば関本。昨日は女友達と、飲みにでも言ってたのか?」

「……え? どうしてですか?」

「昨日は用事があると言っていただろう?」

 予想外の事を聞かれた上、考え込んでいたせいもあって反応が遅れた彼女は、惰性的に頷いた。


「ああ、そうでしたね……。はい、盛り上がりましたよ?」

「そうか……。それなら良い」

「はぁ……」

 続けて何か聞かれるかと思った彼女は、あっさり引き下がって自分の席に向かった友之に首を傾げ、友之は友之で内包していた怒りを密かに増幅させた。


(今の質問って、何だったのかしら? だけど本当に昨日は、和洋さんがご機嫌でウザかったわね)

(やっぱりあの男との事は、口には出せない関係と言う事か……。本来なら部下のプライベートな事に、一々口を挟む権利も義理も無いんだが……)

 二人はそんな内心など面には出さず、その日一日、黙々と仕事をこなした。


「疲れた……。何だか今日は、課長が一日中ピリピリしていた気がするけど……、何だったのかしら?」

 帰宅して食事も済ませ、そんな事を呟きながら沙織が珈琲を飲んでいると、電話がかかってきた。

「あれ? 課長から?」

 スマホを取り上げて発信者名を確認した彼女は、何か至急の用件があったかと首を傾げながら応答する。


「はい、関本です。課長、どうかしましたか?」

「今、自宅か?」

「はい、夕飯を食べ終わったところですが」

「急に悪いが、今からそこに行っても良いか? 渡したい物と話がある」

 いつになくかなり一方的な物言いに、沙織は戸惑いながら問い返した。


「ええと……、それは構いませんが、明日では拙い話でしょうか?」

「……拙くは無いが色々ムカつくので、できれば今日のうちに済ませたい」

「分かりました。ところで課長は、今どちらに? まだ社内ですか?」

「いや、そこの下だ」

「はい?」

「もっと正確に言えば、お前のマンションのエントランスだ」

 淡々とそんな事を告げられた沙織は、驚いてスマホを取り落としかけながら叫んだ。


「はあぁ!? え? 本当にもう下に来てるんですか!?」

「ああ。本当に急で悪いが」

「今開けますが、一応受付のインターフォンを鳴らして下さい」

「分かった」

「ちょっと待って。下って本当に」

 一度通話を終わらせて、沙織が慌てて壁に向かって駆けよると、エントランスからの呼び出し音と共に、操作パネルのモニターが友之の姿を映し出した為、慌ててドアロックを解除した。


「本当だ…………。どうぞ、入って下さい!」

「ああ」

 そして今度は、動揺しながらも玄関に向かう。

「びっくりした。それもだけど、一体何事よ?」

 ぶつぶつと独り言を呟きながら玄関で待ち構えた沙織は、玄関のチャイムが鳴るとほぼ同時にドアを開けた。


「やあ、こんばんは」

「取り敢えず上がって下さい。今、お茶を淹れますので」

「いや、茶は要らないから。急に押しかけてすまない」

「はぁ……」

(何だろう? どう見ても仕事帰りの格好だし……。そんなに至急で対応しなくちゃいけない、ヘマとかしたかしら?)

 友之の様子を横目で窺いつつ、段々不安になってきた沙織だったが、何とか平静を装ってリビングに誘導した。そしてソファーに向かい合って座ると、友之は持って来た鞄の中から、綺麗に包装された箱を取り出す。


「それじゃあ、さくさく話を進めるぞ。一応、話の内容はプライベートで、まずはこれだ。受け取ってくれ」

「あの……、課長? これは一体……」

「開けてみれば分かる」

「はぁ……、それでは失礼します」

 反射的に受け取ったものの、戸惑った沙織は、真顔で友之に促されて慎重に包装を解いてみた。


(本当に、何だろう? でも話がプライベートに関してなら、仕事でヘマしたわけじゃないから良いんだけど……)

 しかしその中から出て来た箱に印刷された写真と文言を見た途端、彼女は歓喜の叫びを上げた。


「これ!? difficultシリーズ最新作! うわぁ、フォルムを見ただけでそそられる!! 絶対に攻略してやるからね!! それに一見して」

「気に入ったか?」

「はい! それはもう! …………って、あの……、お騒がせしてすみません」

「いや……、気に入って貰えて、何よりだ」

 思わず我を忘れて嬉々として頷いた沙織だったが、対する友之が無表情のままなのに気が付いて、神妙に頭を下げた。


(何か課長のテンションが低い……、と言うか、何か不穏な気配がするんだけど……)

 しかしその理由に、全く心当たりが無かった沙織は、取り敢えず手の中の物について尋ねてみた。


「あの……、ところでこれは、なんでしょうか?」

「誕生日プレゼントだ。母さんが、お前に渡せと言って聞かなくてな」

「あの……、どうして真由美さんが、私に誕生日プレゼントをくれるんでしょうか?」

「昨日、誕生日だったよな?」

「はい、そうですが……。松原さん、微妙に答えになっていませんよ?」

 名目は分かったが、真由美から誕生日プレゼントを貰う意味が分からなかった為、沙織は本気で首を傾げた。すると友之が、微妙に話題を変えてくる。


「昨日の誕生日。食事に行っただろう? 女友達じゃなくて男と」

「え? あ、いえ、男って」

「どうして女友達とだなんて、嘘をついた?」

 徐々に鋭くなってくる視線に、微妙に居心地悪さを感じながら、沙織は弁解がましく言葉を返した。


「いえ、別に嘘をついたつもりは……、色々説明するのが面倒だったので、松原さんから『女友達と』云々言われたので、その時に素直に頷いてしまっただけで」

 それを聞いた友之は、乾いた笑いを漏らした。


「そうか……、そうだろうな。色々説明するのは、面倒だったろうな……」

「はい? 松原さん? 何をブツブツ言ってるんですか?」

「真面目なお前に限ってと思ってはいたが、やはり倫理観は斜め上だったと言う事か」

「あの……」

「以前話を聞いて、お前に真っ当な結婚願望が無い上に、ベタベタした付き合いを面倒くさいと感じているのは知っている……」

 友之の様子が普段と違う事に気付いたものの、その理由が全く分からなかった沙織は困惑して口を閉ざした。するとここで、それまで比較的落ち着いた口調で話していた彼が、いきなり激昂する。


「だがな! 幾ら後腐れが無いからと言って、既婚者との不倫は止めろ! どう考えても、傷つくのはお前の方だぞ!」

「……………………はい?」

 真剣極まりない表情で訴えかけられた沙織だったが、完全に予想外の事を言われて思考が停止した。しかし友之がそのままたたみかける。


「大体、このマンション。どう見ても単身者向けじゃ無いだろう! 若い女に気前の良いところを見せていい気になってる還暦近い年寄りに、手のひらで良いように転がされてどうする! 恥ずかしいとは思わないのか!?」

 ここで漸く相手が何故かとんでもない誤解をしている事に気がついた沙織は、まだ完全に回りきっていない頭で弁解しようとした。


「いえ、ですから転がされたりとかは。それに和洋さんからは、管理を兼ねてここに住んでくれって頼まれて」

「お前は頼まれたら、のこのこ入るのか!? 危機管理と貞操観念がなって無いぞ!! それにやっぱりこのマンションは、昨日の男の物だったんだな!? この前お前を送って来た時、エレベーターホールですれ違った直後に姿が見えなくなったから、合鍵を使ってここに入ったんだろうし!」

益々口調をヒートアップさせてくる友之の台詞を聞いて、沙織が驚いたように目を見張る。


「あの時、見てたんですか?」

「ああ、見てたんだよ! それで昨日も、着飾ってたお前と笑み崩れてたあのじじいを目撃する羽目になってな!」

「松原さん。和洋さんは、まだじじいって言う程の年じゃありませんが」

 何気なく沙織が口を挟むと、それが更に友之の怒りの炎に油を注いだ。


「本当にお前の守備範囲とストライクゾーンは分からんな! じゃあ言い直してやるが、あんなエロオヤジのどこが良いんだ!?」

 その問いかけに、沙織が思わず遠い目をしながら呟く。


「どこがって……、あんまり良い所ありませんけど」

「そうか、分かった。単に惰性で付き合ってるだけか」

「いえ、ですから惰性で付き合っているもなにも、そもそもの大前提が間違っているんですが!」

 呆けている場合じゃないと、慌てて言い返そうとした沙織だったが、その間に友之は素早く立ち上がり、二人の間にあった低いテーブルを回り込んで、彼女の前に立った。更に上半身をかがめて両手で彼女の両肩を掴んだ友之は、怖いくらい真剣な表情で彼女を見下ろしながら、低い声で呼びかけた。

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