酸いも甘いも噛み分けて
篠原 皐月
第1章 ちょっとした変化
(1)沙織の憂鬱
いつも通り最寄り駅の改札を通り、人波に流されながら地上に出た沙織は、ビルの隙間から射してきた朝日を受けて反射的に目を細める。日差しで改めて日付が変わったのを認識させられた沙織は、気分が更に下降するのを止められなかった。
(結局……、ジョニーは昨日も来てくれなかった……。今日来てくれなかったら、連続十三日か……。私、本当に飽きられて、捨てられちゃったのかな……)
そんなことを悶々と考え込み始めた沙織だったが、ふと我に返って自分自身に言い聞かせる。
「だめだめ! 朝から辛気臭いことなんか考えちゃ駄目よ! こんな所が鬱陶しいと思われて、来てくれなくなったかもしれないのに! 気合い入れて行くわよ!」
突然立ち止まって叫んだと思ったら、空いている右手で勢い良く自分の頬を叩いた沙織に、周囲を歩いていた者達は一斉に驚愕や薄気味悪そうな視線を送った。しかしその中で彼女を良く見知っていた一人の男性が、溜め息と共に背後から近付いて声をかけた。
「関本、声も音もかなり響いていたぞ。朝から威勢が良いが、人前では止めておけ」
「あ、課長。おはようございます」
聞き慣れたその声に、沙織は振り向いた。すると予想に違わず、自分とさほど年が違わないながら既に課長職に就いている、松原友之がいた。直属の上司でもある彼は彼女の顔をしげしげと眺めてから、うっすらと赤くなっている頬について尋ねる。
「その頬、痛くないのか?」
「ちょっと痛いですね。手も少し、痺れています」
「全く……。それを冷静に分析できるなら、少しは加減しろ」
「今後気をつけます」
大真面目に答えた部下に、友之は再度溜め息を吐いた。そこで彼の姿にざっと目を走らせた沙織が、鋭く問いを発する。
「ところで課長、今日の出で立ちについて、お伺いしたいのですが」
「エルメネジルド・ゼニアで統一してきた」
「さすが課長。高級ブランドを見事に着こなしていらっしゃいます。そこら辺の一般サラリーマンが着たら、免許取り立てでF1サーキットに出るようなものですね」
打てば響くような褒め言葉に、思わず友之が苦笑した。
「褒めても何も出ないぞ?」
「いえいえ、課長に関する情報収集は、社内で私の心の安寧をもたらす手段の一つなので。ついでにもう一つお伺いしますが、現在進行形でお付き合いしている方は、今でも風間電装のOLさんでしょうか?」
「彼女とは先週別れた」
「それはまたタイムリーな質問を……。誠に申し訳ありません」
心から謝罪した沙織だったが、友之の関心は他にあった。
「それを聞かれるのは、一向に構わないんだが……。関本は相変わらず例の彼女達に、俺の情報を横流ししているのか?」
「はい。暫くは社内のあちこちから『松原課長、ファイト!』という熱い激励の眼差しを受けると思いますので、それを感じたらそちらの方に、ちょっとアンニュイに微笑んであげてください。そうしていただければ、社内での私の立ち位置は安泰ですので。業務の合間で構いませんので、宜しくお願いします」
悪びれずに言い切って、沙織は微笑んだ。それを聞いた友之は、色々諦めた表情で軽く首を振る。
「部下の社内での保身のために自らのプライベートを切り売りしてやるなんて、俺はなんて見上げた上司なんだ」
「はい、正に理想の上司です。どこまでも課長に付いていきます」
「今のはちょっと、嫌みが入っていたんだが……。まあ、良いか。それならお前には、馬車馬並みに働いて貰うぞ?」
「お任せください」
「それじゃあ先に行く」
「はい、それではまた後で」
沙織に断りを入れて友之は足早に歩き出し、前方を歩いていた誰かに声をかけて、何事も無かったように職場へ向かって行った。その後を追いながら、沙織は改めて自分に気合を入れる。
「課長は相変わらず、颯爽としているわね。ジョニーが家に来てくれないだけで、腑抜けになっている場合じゃないわよ、沙織」
そうして再び歩き始めた沙織だったが、再度背後から声をかけられた。
「おはよう、沙織!」
「あ、おはよう由良。さっき課長の最新情報、仕入れたばかりよ」
別部署勤務だが同期入社以来の友人である新川由良に、並んで歩きながら沙織が告げると、彼女は嬉しそうに声を弾ませる。
「本当! 今日は朝から幸先良いわぁ! で? 今日はどんなセレクトで?」
「エルメネジルド・ゼニアで統一。シックな色合いながらも、織り模様が光を浴びることで微妙な濃淡を浮かび上がらせる逸品。是非、間近で鑑賞するのをお勧めする」
「分かった! 廊下で偶然遭遇を狙う!」
「それから、三ヶ月前に把握していた彼女とは、先週別れたそうよ」
淡々と沙織が告げると、由良は一転して沈痛の表情になった。
「そうか……。あれだけ隙がなさそうだと、付き合う方も色々大変そうだよね……。やっぱり暫くは少し離れた所から、温かく見守ることにするわ」
「課長は別に、不必要に纏わりついて邪魔にならなければ、近くに寄っても構わないと思うけど?」
「だけどやっぱり表には見せなくても、別れて密かに傷ついているかもしれないじゃない? 《松原課長を密かに愛でる会》会員としては、無神経な振る舞いはできないわよ」
「全然秘密じゃないし、相変わらずブレないよね……」
真剣に語る友人を見て思わず遠い目をしてしまった沙織だったが、ここで由良が顔つきを険しくして彼女に迫った。
「その代わり、課長の最新情報をきっちり流してよ? なんか派手に盛り上がって憂さ晴らししたいって時には、一致団結して私達が企画するから! 社内外の変な合コンとかに松原課長を取られたら、許さないんだからね!?」
「分かった、由良。落ち着いて。しっかり目を配っておくから」
「約束よ? それじゃあね!」
由良は明るく手を振ってから、職場に向かって駆け出して行った。そんな彼女を見送った沙織は、一人苦笑する。
「ふぅ……。一人で勝手に落ち込んで、ドツボに嵌まってる暇もないわね。それに今日は例の製品の契約日だし、色々と気忙しいわ」
そんないつも通りと思った朝のひと時だったが、沙織の予想に反してその日、彼女はとんでもない失態を犯すこととなった。
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