好奇心のせいで猫がくたばった Ⅲ

 ゼリスリーザの愛しき故郷イヴォルカが、大河ヤールを北上してきた敬虔なる者たちの神を受容してからどれ程遅れたのかは定かではない。だが南方においては「蛮族」の名で知られていたというルオーゼ王国の民の祖も、数百年前にはついに古い神を捨て去り新たな唯一なる神に跪いた。

 そしてその際、捨て去られたのは古い神だけではない。慈悲と慈愛、そして貞潔を誉れとする神の教えに相反する風習――王侯などの一部の富裕な有力者に限るとはいえ、一人の男が幾人もの妻を持つことを良しとする倣い。これもまた、偽りの古き神に人身供犠を捧げるにも匹敵する、おぞましく野蛮な行いとして廃止されることとなったのである。

 しかし、慣習は廃れども、その名残はどこかに残る。その最たるものが、今しがたゼリスリーザが抜け出してきた場所であった。内宮は、かつては王の幾人もの妻妾が暮らす男子禁制の「後宮」であったのである。だからこそ王に赦された一部の者を除いては、みだりな立ち入りが禁じられているのだが、その侵入者が女であれば多少は大目に見られるらしい。

「……だから、衛兵に内宮付近で貴女の姿を見かけた、と報告を受けた時は、そこまでは心配していなかったのですが……」

 王の後宮に自由に立ち入る信頼と栄誉を与えられた青年は――国王の少年時代からの学友オーラントは、整えられた栗色の頭を抱えて呻く。

「まさか、さっそく、その、陛下と彼女が致している所を目撃されるなんて……」

 純真無垢な乙女である貴女にとっては色々と刺激が強すぎる光景だったでしょう、と嘆息した青年が言う通り。国王エルゼイアルとその愛妾の情交の仔細は、いまだゼリスリーザの脳裏に焼き付いていて、しばらくは離れそうになかった。

 乳飲み子でもあるまいに、豊かな褐色の乳房の頂に吸い付いた国王。朧な月光を浴びて眩いまでに輝く純金の後頭部は、やがてむっちりとした太腿の合間へと降りて――これ以上は思い出したら魂が汚れるから、止めておくべきだと分かっている。

「……全くだわ!」

 だがゼリスリーザは、快感のためにか愛妾が身じろぎし痙攣するたびにゆさと揺れていたふくらみへの怒りを吐き出さずにはいられなかった。堰切って溢れだした激情を止める術などありはしないのである。

「申し訳ございません……」

「――あんたなんかに謝られてもどうにもならないのよ!」

 塩をかけられた蛞蝓のごとく縮こまるオーラントを罵るのは、ただの八つ当たりでしかない。自らの行為の虚しさは自覚しているのに、憤りは酒杯から溢れる葡萄酒のごとく流れ出る。

「あんたの主が胸が大きい女が好きだってことは分かったわ。でも、女の魅力はそれだけじゃないでしょう!? 顔とか顔とか顔とか、他にも見るべきところはあるでしょう!?」

「……お、仰る通りですが、それでは性格が一切……」

「愛妾が逆立ちしても太刀打ちできないような、ものすっごい美人だったらまだしも納得出来たわ! でも、でも、あれじゃあ……」

「ゼ、ゼリスリーザさん?」

 迸る憤懣のままに、右手で狼狽える男の胸倉を掴み引き寄せる。

「離してほしかったら、あんたの主は女をどんな基準で選んでるのか、この私が納得できるように教えてみなさいよ……!」

 鏡で確認せずとも歪み引き攣れていると分かる面は、悪魔か鬼婆さながらに凄まじい形相をしているのだろう。

「ですがそれでは、貴女が余計に傷つくだけで……」

「――んなこたあどうでもいいから、さっさと吐けって言ってんのよ!」

 空いた左手を握り締め、ぼきぼきと骨を鳴らすと、逡巡していた青年はついに屈服した。

「まず、まずですね。陛下は初対面の女性は、胸からご覧になられるのですが……」

 丁度良い厚みの唇を噛みしめ、良心が痛むのだと言いたげに穏やかな顔を歪める青年は、深く深く息を吸う。

「その際にですね……“このぐらい”より胸が小さい方は、陛下の中ではどうやら“女”として数えられていないようなのです。それが例え、貴女のようにお美しい御方でも。ですから、」

 オーラントが手で作ったのは大振りの林檎ほどもあるふくらみだった。随分と大きな最小だった。

 呆れかえった娘は、ふと自身の胸部に胸を落とす。視界に入ったのは無論、小ぶりというかほとんど平面に近いが形良く柔らかな乳房ではなく、オーラントと対峙しながら着いている卓の木目に他ならなかった。つまりゼリスリーザは、そもそも国王に女として認識されていなかったのだ。

 今となっては容貌ばかりが麗しい性欲の塊など、こちらから願い下げだ。だが、それと女としての誇りを傷つけられたことは全く別の問題である。

「だから陛下は、取り敢えずは貴女を客人として偶して、ゆくゆくはご自分ではなく然るべき家臣と娶せようと考えられていたのでしょう。ですから、陛下は貴女を女性としてはともかく、人間としてはそれなりに尊重し、」

「――てはないわよ!? 私、ものすっごくコケにされてるんですけど!」

 ついに泉の澄んだ蒼が湛えられた瞳からは透明な滴が滲み、常ならば健康的な薔薇色をした頬を濡らした。 

「――どっからどう見てもあの女より私の方が美人なのに! なのにどうして、わざわざ他国に赴いてまで、こんなに悔しくて虚しくて腹立たしい想いしなきゃならないのよ!」

 迸る激情を叩きつけても、飴色に磨き抜かれた卓は揺れない。だが長年の家事で鍛え上げられているとはいえ柔らかな皮膚は擦れ、たちまち痛々しく腫れあがった。

「お気持ちは分かりますが、せっかくのお綺麗な手を、このように痛めつけずとも、」

「――綺麗、ですって!? あんたも腹の中では私のことを“陛下には劣る”って嗤ってたでしょうに、よくそんな心にもないこと言えるわね!」

「そ、そんなことは……。僕は、ゼリスリーザさんは大層お美しくまた可憐なお方だと、初めてお会いした時からずっと……」

 悪質な植物の汁にかぶれたかのごとき桃色に変じた手をそっと包み、これ以上の自傷を止めさせようとした掌は温かい。だが、それしきで信頼できるものか。

「この私がそんな分かり切った嘘に誤魔化されるとでも……?」

 涙で濡れくぐもった視界に映るのはやはり平静そのものの、恋慕を曝け出しているには赤らみや動揺や拒絶への怖れが不足した顔でしかなかった。生まれ持った美貌を通りすがりの男に称賛された経験は数知れずだが、告白や求婚などただの一度もされた経験のないゼリスリーザですら、オーラントが好意を紡いだのは自分への憐れみゆえであるのだと容易に看破できる。だいたい、少年時代からずっと国王エルゼイアルの美に接してきた彼が、今更ゼリスリーザに心を動かされるなどあり得るのだろうか。

「……て、みなさいよ」

 冷え、固まりかけてはいるが未だ熱く滾った溶岩さながらに粘ついた情念は、僅かながらの理性も焼き払った。

「え? 今、なんと……」

「――本当に私を美しいと思ってるなら、責任取って求婚ぐらいしなさいよ、と言ったのよ!」

 冷静になって鑑みずとも、崖っぷちに追い詰められた嫁き遅れの、やけっぱちな売り文句である。

 あれだけ盛大に贈られてしまったのだから、ゼリスリーザはどんな事情があっても故郷に帰れない。よしんば帰還したとしても、残りの人生は「王に選ばれなかった顔だけ女」として世間の嘲笑や侮蔑の的となって生きなければならない。

 厄介な荷物でも、家族や親類の者は温かく受け入れてくれるだろう。腹立たしい侮辱から守ってくれもするだろう。だが、何よりも誰よりも愛おしい彼らに迷惑をかけてまで生き恥を晒すなぞ。愛しい者たちの重荷となるよりかは、水難もしくはその他の事故により若くして命を落とした娘がなるという、水精の一員となった方が幾分かましである。とどのつまり、ゼリスリーザがこの先も幸福に生きるには、この国で適当な地位も財産もある男を捕まえて、妻の座に納まるしかないのだ。

「……分かりました」

 しかし、その終着点はこんなにも騒々しく、また雰囲気に欠けるものではなかったはずだった。求婚とはもっと甘く繊細で感傷的な――満開の花畑の中を一緒に散歩したり、その帰りにちょっとした装飾品を買ってもらったり、といった過程を経てからされるものであったはずなのだが。

「あなたがそれほどまでに仰るのなら、僕は陛下の側近として、また先生の弟子として責任を取りましょう」

「――は? ちょ、あんた、」

「僕と結婚してください、お美しいゼリスリーザさん」

 こんなにも恋の波乱と遠い、味気ない求婚などあっていいのだろうか。幼少期、うっとりと頬を紅潮させた母が語ってくれた両親の馴れ初めのように、胸を疼かせる憂いも味わわずに、差し出された手を取っていいのだろうか――

「……そう。だったら、よろしく頼むわ」

 などと躊躇ったのはほんの一瞬であった。オーラントは見目こそ平凡だが若く、王の憶えもめでたい領主なのだ。こんなに恵まれた条件・・はそうそう転がっているものではない。

 式を挙げ神に誓ってはいないが心情の上では夫となった青年の手をそっと握ると、苦笑が入り混じった安堵の息が漏れた。

「良かった。実は、これから先貴女をどのように扱えばいいか、結構悩んでいたんです」

 王の友人というのは、主に贈られた女の処理・・にも頭を悩ませなければならないらしい。

「随分と御立派な忠誠心をお持ちのようで、」

 小声で吐き捨てた揶揄は、幸いにしてオーラントの耳には入らなかった。

「では、これから数日後には陛下に許可を貰いに行きましょう。だから、その時は……いいえ、陛下に怪しまれないように、今からでも出来るだけ恋人らしく振る舞う必要がありますが……」

 伴侶となる約束を交わしたばかりの青年の、どこまでも落ち着き払った態度は憎らしく腹立たしいが、彼の提案自体は嫌ではなかった。

「だったらまずは、あんたのその私に対する堅苦しいにも程がある接し方を改めなさいよ」

「そうですね。では、恋人らしい、いかにも親しげな呼び方を……」

「私、故郷では親しい人には“ゾーリャ”って愛称で呼ばれてたわ。ルオーゼではそうじゃないみたいだけど、イヴォルカでは親しい人間同士だったら愛称で呼び合うのが普通なのよ」

 心臓が百回脈打つまで待っても、オーラントは「恋人らしい」異性との接し方一つ思いつかない。見かねて提言すれば、いかにも嬉しげな笑みが返されて。

「でも、それはちょっと言いづらいので……」

 ルオーゼ人の舌には難しい発音なので、と目を伏せた彼は、程なくして彼なりの解決策を導き出した。

「ゼリス」

「え?」

「ゼリスさんって呼んでいいですか?」 

 家族や親族、友人たちの「ゾーリャ」ではなく、目前の青年の妻になるために生み出された「ゼリス」。

「……別に、あんたの好きにすればいいんじゃない?」

「じゃあ決まりですね」

 その特別な響きを意識すると、薄い胸の奥が幽かにだが甘く疼いたように感じた。

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