44話 乙女心
開けっ放しの防音室のドアの影から、こっそりと娘の様子を見守っていた母、小夜子さん。コンクールを目前に、ほとんどレッスンに身が入っていないことを、誰よりも危惧していたのは彼女でした。
たかが国内のコンクールと言ってしまえばそれまでですが、ここで一位を取れないようでは、国際舞台など到底通用するはずもなく、将来プロを目指す子供たちにとって『登竜門』と言われるほど大切なステップなのです。
夏休み前頃から、表現力が格段に上達してきてはいるものの、テクニックは日々鍛錬が必要。鍵盤を触っているだけなら、練習などしない方がマシだとさえ思えるほど、心ここにあらずといった娘に対する苛立ちは、マックスに達していました。
それでも、コンクールに出場するのは小夜子さんではなく、朋華ちゃん自身である以上、ここで衝突して、さらにモチベーションを下げることだけは避けなければならず。
いっそ、代わりに自分が出場出来たら、どんなに楽なことか。
これまで積み上げて来た苦労を、いったい何だと思っているのかという怒りと、こんな思いをするくらいなら、最初からピアノなどやらせなければ良かったという後悔にも似た感情に心を乱されます。
必死で自分を押さえながら様子を伺っていると、虚ろな目をしてピアノを弾きながら、一人ぶつぶつと『傷害事件』やら『殺してしまう』やら『楽になりたい』などと呟きだした娘。
さすがに、これは尋常ではないと判断し、
「朋華! ちょっと休憩しなさい!」
「え…? ママ、どうかし…?」
「いいから、いらっしゃい。あなた、根を詰め過ぎで疲れてるのよ。少し気分転換をしたほうが良いわ」
そう言って、強制的にピアノを終了させ、レッスン室から朋華ちゃんを引きずり出すと、小夜子さんはどこかへ電話を掛け始めました。
母親に言われるまま、リビングで祖母と一緒におやつを食べていた朋華ちゃん。
小夜子さんはどこかへ出かけて行き、解放感に浸っていたのも束の間、20分もすると駐車場に車が戻って来た音が聞こえました。
「ただいま~。さ、遠慮しないで、入ってちょうだい」
「はい」「お邪魔します」
「朋華~、お友達よ」
「えっ!? どうして…」
そう言って、母親に連れられ入って来た木の実ちゃんと私に、訳が分からず目を丸くしました。
普段の小夜子さんなら、友達を自宅に呼ぶなど絶対に考えられないことでしたが、先ほど、突然電話を貰った私たちに、涙声で『どうか娘を助けて欲しい』と懇願してきたのです。
わざわざ自宅まで車で迎えに来るほど、朋華ちゃんの様子が鬼気迫って見えたのでしょう。私たちにお茶とお菓子を出してくれた祖母にも、席を外すように促すと、
「みんなでお喋りでもして、気分転換するといいわ」
「ちょっとママ、これ、どういうこと?」
「お友達はいいわよ。じゃ、ママはいなくなりますから、木の実ちゃん、こうめちゃん、後は宜しくね」
そう言うと、小さく私たちに向かって手を合わせて見せ、そのまま祖母も一緒に車に乗り込むと、再びどこかへ出かけて行ったのです。
「朋華のおっ母さんが、私たちを家に呼ぶなんて、初めてだよね?」
「いったい、どうしたの? 何かあった?」
「さあ?? 課題曲を弾いてただけなのに、いきなり休憩しろとか、疲れてるのよ、とか言い出して」
親の心、子知らずとは、こういうことなのかも知れません。
ただ、ストーカー並みの過干渉である小夜子さんが、そこまでしてまで私たちに娘を託すほど、小夜子さん自身、精神的に参っているのだろうことは、何となく伝わりました。
「それにしても冬翔くん、どうしたものかしらね~?」
「やることが、どんどんエスカレートしてきてるよね」
「それ! 私もそう思ってたのよ!」
「防御し過ぎたことで、却ってそれが反動になった感はあるよね」
「けど、そもそもこうめに嫌がらせすること自体が、おかしいんだからさ」
「これ以上、酷くなるようなら、もう私たちだけでは手に負えないから、夏輝くんや聖くんにも相談したほうが良くない?」
「それは…」
「難しいよね…」「そうだよね…」
今のところ、冬翔くんも木の実ちゃんたちに話したことは気付いておらず、夏輝くんや聖くんも、分かっていないはずですが、朋華ちゃんの言う通り、これ以上こうしたことが続けば、いずれ彼らにバレるのも時間の問題でしょう。
問題は、どういう形で彼らの耳に入るかということ。
何の前情報もないまま聖くんが知れば、熱血漢の彼のこと、冬翔くんを責め立てるに違いなく、彼の返答次第では、そのまま絶交になる可能性大で、同じことは夏輝くんにも言えます。
でも、肝心なのはその先。誰も傷つくことなく、ソフトランディングさせる方法を、必死で考えてはいたものの。
「やっぱり、先に少しずつでも話しておいた方がいいよね?」
「あいつら単純なとこあるから、話し方が難しいよね」
「体育会系っていうか、すべてが0か100かみたいな?」
「おじいちゃんや、国枝のおじ様見てて、分かるわ」
やはりどうやったところで、誰も無傷でいられるはずもなく、アイディアの代わりに出るのは溜息ばかり。
黙ってお菓子を口に運びながら、ふと、木の実ちゃんが尋ねました。
「それより、コンクールのほうはどう?」
「何かね~、冬翔くんのことがあって、気持ちが集中出来ないっていうか~」
「集中出来ないのは、それだけじゃないんでしょ?」
「え? どういう意味?」
「朋華が一番気になってんのは、聖でしょーに」
「はっ!? えっ、なっ何を、い、い、い、意味わかんないこと…!!」
見る見るうちに顔が真っ赤になり、次の言葉が見つからず、動揺を隠せない朋華ちゃん。
「ホント、あんたほど分かりやすい子、いないわ」
「いや、あの…!」
「分かってたよ。ずっと前から」
「急に人気者になっちゃったから、朋ちゃん、気が気じゃなかったでしょ?」
私たちの言葉に、これ以上隠し通せないと覚悟を決めたのか、カップの紅茶を飲み干すと、こっくり頷きました。
「今は、ピアノに専念しなきゃって分かってるのに、色んな事を考えちゃって…」
「そっか」
「けど、彼女でもないのに、私が聖くんや周りの女の子たちに、あれこれ言える立場でもないし、むしろ、聖くんはこの状況を喜んでるかも知れないし」
「じゃ、告ったら?」
「えっ!? 無理無理無理!! そんなの、死んでも無理だから!」
「なら、やめとく?」
「いや、それは…!」
「どっちだよ?」
朋華ちゃんの様子から、どれほど聖くんを好きなのかが伝わって来ます。
少し考えた後、小さく深呼吸して出した答えは、
「私、告白する!」
「えっ!?」「マジで!?」
「やっぱり、無理かな~~???」
強気の決意に出たかと思えば、急に弱気になったりと、揺れる乙女心は複雑です。
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