8話 遺伝疾患 ~フォン・ヴィレブランド病~

 リビングの中央に置かれた古いグランドピアノに、最初に興味を示したのは朋華ちゃんでした。おもむろに歩み寄り、そっと鍵盤にタッチすると、柔らかな音色を立てるピアノ。



「これ、ベーゼンドルファーね。家族の誰か、ピアノを弾くの?」


「今は、誰も。そのピアノは、母さんの物なんだ」


「この人が、夏輝くんたちのママ?」


「すごい綺麗な人だね」


「ありがと」



 黄色い花とともに、ピアノの上に置かれた写真立てには、カメラ目線で微笑む、まだ二十代の美しい女性。ふたりの息子たちによく似ていましたが、特に夏輝くんは、まるで生き写しのようにそっくりです。


 もう一枚は、華やかなドレスを身に纏い、スポットライトを浴びながらフルートを演奏する姿が収められていました。



「フルートをされていたの?」


「うん。結婚する前は鹿毛山かげやま亜妃あきっていう、プロのフルート奏者だったんだって」


「鹿毛山… 亜紀さん…」



 同じくプロのピアニストを母に持つ朋華ちゃんには、その名前に聞き覚えがありました。


 あまり昔のことは話さない母、小夜子さんでしたが、かつてウィーンにピアノ留学をしていた時期、同じくフルートで留学していた友人がいたこと、当時まだ十代だった彼女たちが、遠く日本を離れた異国の地で、悩みや将来の夢を熱く語り合った日々を聞いたことがありました。


 帰国後、ふたりはそれぞれプロの道に進んだのですが、音楽を志す同志であり、ライバルであり、親友だったという彼女こそが、夏輝くん冬翔くん兄弟の亡くなった母親、北御門亜紀さんこと(旧姓)鹿毛山亜紀さんだったのです。



「うちのママとお友達だったなんて、全然知らなかったわ」


「不思議な巡り合わせもあるもんだね」


「でさ、みんなに言っておかないといけないことがあるんだ」


「何?」「言って?」


「母さんの死因になった病気のことなんだ」



 亜妃さんが亡くなったのは、出産時の大量出血によるものでしたが、その原因を調べた結果、彼女は『フォン・ヴィレブランド病』だったことが分かったのです。


 この病気は遺伝性の出血性疾患のひとつで、血が止まりにくいという点で『血友病』と似ていますが、ほとんどが男性に発症する血友病とは違い、男女関係なく同じ割合で発症します。


 症状としては、鼻血などの粘膜出血、皮下出血、月経過多などが多く見られ、軽症の場合、大きな怪我をしたり、抜歯や手術での出血の多さがきっかけで判明するケースも少なくありません。


 特に女性の場合、安全に妊娠・出産をするためには、専門医と連携する必要があるのですが、自身がそうとは知らず、通常の分娩で双子を出産した亜妃さん。出産直後に大量の出血を起こしてしまい、そのまま帰らぬ人となったのです。



「ちょっと待って! さっき、遺伝する病気だって言わなかった…?」


「そう。残念ながら、夏輝は母さんの病気を受け継いでるんだ」


「嘘…」「そんな…」


「冬翔くんは?」


「僕には遺伝していなかったらしい」



 母親の病気が判明したことで、念のため、子供たちの検査をしたところ、夏輝くんもこの病気に罹患していることが分かりました。


 親の片方が患者の場合、子供に遺伝する確率は50%。双子とはいっても、ふたりは二卵性のため、幸いにも冬翔くんには遺伝していなかったのです。


 そういえば子供の頃、私や冬翔くんが怪我をしても『唾でも付けておきなさい』程度の薄い反応でしたが、これが夏輝くんだと、大騒ぎで病院へ駆け込むということが幾度かありました。


 当時は、扱いの差にちょっと納得行かない部分はあったものの、大人たちから、再三に渡り『夏輝くんには怪我をさせてはいけない』と言われていたため、子供心にも気を付けていたのですが、そういう事情があったことは今初めて知った次第です。



「まあ、僕の場合軽症なほうだから、日常生活でなるべく怪我をしないように気を付ける程度で、そんなに神経質にならなくても平気なんだよね」


「もし血が出たら?」


「量にもよるけど、掛かり付けのお医者さんに急行すればいいし、要は、出血したときにどう対処すればいいのかを、自分や周囲が分かってることが大切なんだよ」


「ママは、重症だったの?」


「いや。軽症だったから、気が付かなったんだと思うよ」


「そっか。知ってたら、助かってたかも知れないのにね」


「間違いなく、助かってただろうね。っていうか、もし分かってたら、最初から子供なんて産まなかったかも知れないしさ」



 この年齢になれば、大人の事情により、必ずしもすべての妊娠が祝福されるわけではないことや、母体への危険があったり、胎児に問題があると分かった時点で、産まない選択をするケースがあることは、当然知っていました。


 もし亜妃さんが自身の病気を知っていて、その選択をしていたら、彼女は今もプロの舞台でフルートを奏でていたでしょうし、目の前のふたりはこの世に存在していないことになります。


 出産するにしても、適切な医療を受けてさえいれば、母子ともに命の危険に晒されることなく、普通に暮らしていた可能性だってあったかも知れません。


 ですが、誰にも過去を変えることは出来ず、自分たちの誕生と引き換えに、母親が命を失うという、あまりにセンセーショナルな運命を背負うふたりに、一つ言葉を間違えれば、酷く傷つけてしまいそうで、それ以上何も言えなくなりました。





 …が、間髪入れずにその空気を打ち破ったのは、聖くんでした。



「あ~あ! いっそうちのオカンが死んでくれれば良かったのにな~!」



 この空気の中ではあり得ない彼の暴言に、ギョットして固まる女子三人をよそに、当の夏輝くんと冬翔くんまでが、笑いながら同調しだしたのです。


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