【距離:0】二人で一つの心の王国を築き上げるレベル

106.地獄のモーニング

 強い光が閉じた瞼を貫き、目玉に突き刺さるような刺激に、あたしは寝返りを打った。


 昨日、カーテン閉めなかったっけ? てか何時だ?


 いつも枕元に置いているマッチョ時計に手を伸ばしたら、妙に生温かくて固いものに触れ、あたしは飛び起きた。


 すると、局部から突っ切る激痛!


 声も出せずに身を丸めて堪え、辺りを見渡してから――ここが自分のマンションではなく、インチキホテルだということを思い出した。



 そして時計に伸ばした手が触れているのは、ブランケットに埋もれた――――裸のアインス。



 奴の存在に気付いたのを幕開けに、昨晩の破廉恥極まりない行為が倍速で脳内上映された。


 もうやめて、あたしの頭!

 朝からいきなりライフゼロにする気!?

 自己回想だけで、恥ずか死しちゃうよ!!



 しかし夢じゃない証に、手のひらからはしっかりとした体温と固い肉体の感触が伝わる。


 あたしは恐る恐る眼鏡をかけ、静かに寝息を立てるアインスに近付いてみた。


 天使のようにあどけない寝顔。だけど本性は鬼畜も鬼畜、超鬼畜ってことを、昨晩は身を持って教え込まれたわけで。



 あたしは笑いたいような泣きたいような、微妙な表情でその寝顔を見つめた。




 朝食は、広いダイニングでバイキング。


 あたしはまだ残る異物感と鈍痛に耐えながら、家族の皆が集まるテーブルに向かった。


「おはよう!」


 もちろん、クライゼ家の家訓に従い、挨拶だけはしっかりしておく。皆からもビシッと元気の良い挨拶が返される。今日は母さんもいるから、手を抜けないのだ。


「珍しいね、エイル姉が寝過ごすなん……」


 椅子に座ろうとすると、バッチリメイクで武装されたミクルの笑顔が、一瞬にして色を失った。



「何?」


「エイル姉……それ、どうしたの?」



 ミクルは引きつりながら、震える指先をあたしの胸元に向けた。



 タンクトップから露出したそこには、鬱血の跡が無数に散らばっている。



 うん……あたしもシャワーした時に、不思議に思ったんだよね。


 いつからだろ?


 夜はほぼ裸でいたけど、自分の体なんか見ないし気にしてなかったし、それどころじゃなかったし……アインスも何も言わなかったしな。



「わかんないんだよ。全身こんななっててさ。マットレスに虫でもいたのかも。ここ、オンボロだもんな。皆は平気だった?」



 ん?


 母さんもノエル姉も、ヨッシーまでもが凍り付いてるけど……どうした、どうした、どうした?


「皆、何でそんな怖い顔してんの? え、もしかしてコレ、何かやばい病気、なの? 伝染るとか治らないとか……最悪、死ぬとか!?」


 あたしは焦り狂いながら、皆に問い質した。そのくらい、自分を見る家族達の視線が異様だったのだ。


 もしもおかしな病気だったら、と恐ろしい想像が胸を埋める――より先に、ミクルがケラケラ笑いながら、あたしの肩を叩いた。



「なわけねーっての! 虫だよ、虫! 見るからにダニっぽいじゃん、ね!?」



 ミクルの声に、皆は解凍されたようにぎこちなく笑って頷いた。


 何だよ、驚かせやがって。ドッキリかますつもりだったってか? クソ迷惑な。


 まあ何にせよ、変な病気ではないらしいから良しとしよう。後でフロント行って、薬もらってこよう、そうしよう。


 安心したら、お腹が締め付けられるように減ってきた。まずは飯じゃ!


 あたしがバイキング料理を取りに立ち上がると、母さんも一緒についてきた。



「ね、エイル。あんたさ、昨日アインスと……」



 母さんが、言いよどむ。けれどその端的な言葉だけで、あたしは理解した。


 アインスが謝りに来たのは、母さんのおかげだったのだ、と。あたし達を、仲直りさせるために。


 だからあたしは母さんに、笑ってみせた。


「うん、もう大丈夫。ちゃんと仲直りしたよ! 本当にありがと。いろいろ心配かけて、ごめんね」


 昨日言いたくても言えなかった、お礼と謝罪を述べ、しかしあたしはすぐにバイキング料理に目を向けた。こんないい匂いに包まれて、食いしん坊万歳のあたしが耐えられようか。いや、耐えられまい。


「え、ああ……そう。そうだよね。エイルだもんね」


「まあね。心の広いあたしだから、許してやれたようなもんだよ」


 あたしは母さんに答えながら、海藻ときのこのサラダと卵焼きを山盛りに取った。


「あ、うん……まあ、仲直りできたみたいで安心したわ。で、アインスは?」


「知らない。起こそうとしたら噛み付いてきたから、張り倒しといた。あんなバカに、餌なんかやらなくていいよ」


 あたしは母さんに答えながら、さらに温野菜とパスタ全種を山盛りに取った。



「…………何もかも元通り、ってこと、か。そっか。うん、わかった」



 母さんは大きなため息をつき、果汁ジュースだけを持って席に戻って行った。


 でも本当はドリンクを取りに来たんじゃなくて、真の目的はあたしとこっそり二人きりで話すことだったんだろう。


 皆に心配かけないよう気を遣うところが、すごく母さんらしいと思った。


 あたしは更にクリームスープと焼魚とパンとコーヒーをトレイに乗せて、テーブルに戻った。



 席に戻れば、いつもの賑やかなクライゼ家の空気。

 言葉遣いは多少荒いけれど、明るく楽しい会話。


 この場所でこの雰囲気を味わうのは、五年ぶりだ。それが何だか嬉しくて、あたしにしては珍しく、食事よりお喋りを優先して家族との時間を堪能した。



 すると不意に――――サシャが、華やいだ声を上げた。




「…………王子様!」




 マジか! と嬉々として振り返って見れば、超ガッカリ。


 そんな素敵な方はいらっしゃらなかった。


 代わりに、あたし達を探して絶賛うろうろ中のバカモンキーはいるけど……しかし、サシャの視線はそちらに向いている。



「え……もしかして、王子ってあれ? あれがどうして王子になんの?」


 あたしが尋ねると、ノエル姉は苦笑いしながら答えた。


「サシャの絵本に出てくるんだよ。お姫様を救う、エルフの王子様ってのが。似てはないけどさ」


 なるほどな。

 あたしもカブトムシに憧れてゴキ飼おうとして、母さんにしばかれた覚えあるけど、あれと同じか。


 制服のシャツとトラウザーズのみを身に着けたバカ猿は、満面の笑顔で手を振りながらこちらに向かってきた。


 サシャには本物の王子様に見えているようで、キラッキラの眼差しで懸命に手を振り返している。


 サシャさ〜ん、よく見て〜。

 あれ、カブトムシじゃなくてゴキブリですよ〜。

 早く目を覚まして〜。現実を見て〜。



「おはよ! 眠気覚ましに大浴場行って、遅くなっちゃったよ。でも、気持ち良かったぁ!」



 そのままゆったり沈んでいたら良かったのにね。沈んで浮かび上がってこなければ良かったのにね。起こしてあげようとした優しい人の腕をガブリとする凶暴猿なんか、とっとと駆除されればいいのにね。


 その凶暴猿は、長年の定位置であるあたしの隣に座ろうとして――――椅子を引いた状態で固まった。


「何だよ?」


 不躾な視線に、あたしも睨み返す。


 すると、アインスは猿みたいに大笑いしだした。笑って笑って、止まらない。



 こいつ、気でも違ったか? 殴って正気に返らせてやるべきかな?



 ……と判断して立ち上がりかけたあたしに、奴は戦慄の言葉を浴びせかけた。




「ひっでえな、皮膚病みたいになってんじゃん! 俺、こんなに付けたんだ、キスマーク」




 頭が真っ白になった。




 え? 何、キスマークって?


 キスするとマークつくの?

 キスして、マークするの?


 でも付けたっつったよな?

 そのキスマークとやらを、あたしに付けたってことだよな!?




 ちょっと待て…………てことは、まさか、この虫刺されみたいな跡は全部!!




「これじゃ、やりまくったみたいだよなあ。一回しかしてないのに……まあでも、初めてだったもんな!」


 全身が硬直して、指一本動かせなくなった。

 しかし、氷像と化したあたしの隣で、バカは続ける。


「すげえ痛がってたけど、大丈夫! 少しずつ慣らしてこ? すぐ痛くなくなるし、その先には天国が待ってるから! あ、そうだ、チェックアウトまで時間あるよな? じゃ、飯食ったら、おさらいしよ!」



 ガタン、と椅子が倒れる音がした。



 関節が錆びたように動きがままならない首を、ゆっくり向けると――――母さんとノエル姉の二人が、立ち上がっていた。



 何故か輝くばかりの笑みを浮かべて。



 アインスの元に駆け寄った二人は、手を取り合って飛び跳ね合い、ついにはハイタッチまで始めた。




「やったな、アインス! ついに積年の夢、叶えたか!」


「ノエルのおかげっすよ! 今まで本当にありがとな!」


「おいおい! あたしはどうしたよ、アインス!」


「もっちろん、一番世話になったモルガナには誰より感謝してるよ! 二人共、大好きだ!」


「エイルの次に、だろ!? どうよ、今の気持ちは!? うまいことやったのか、ええ!?」


「も、マジで最高! 言うことなし文句なし、この上なし! 素直にアハンウフンしてくれて、最強に可愛かったよ!!」


「なるほど……頭が鈍い分、そっちいっちゃってたんだな! とにかく良かった! これであたしも一安心だよ!!」




 三人が盛り上がりに盛り上がる中、テーブルは対照的に静かだった。


 ダイニングのフロアも然り。


 三人だけがまるで別世界にいるかのように、アハハオホホのキャッキャウフフと笑い続けていた――。

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