第5話 至高少女 《魔猿》

 赤銅色しゃくどういろの巨体が赤い大地にうごめいている。一心不乱にむさぼっているのは、闘争の果てに打ち倒した黒い魔狼の臓物である。


 悪くはない。


 半分ばかりを食したところで、彼は血にまみれた口元を軽く拭った。狼の身肉はつまらない味だったが、新鮮な臓腑はらわたはそれなりに美味と思えた。


『そろそろコイツをいただくとするか』

 螺旋状にねじれた舌でベロリと舌なめずりをすると、彼は狼の心臓に目をやった。鼻先をかすめる濃厚な血の匂いに、自然と口元が緩んでしまう。


 肉よりも内臓を愛する彼は、その中でも特に心臓を好んだ。血を凝縮したようなその味が、狩った獲物の生命を感じさせるのだ。

 それなりの年月を生きたであろう魔狼は、思いのほか強く、しぶとかった。ならばその心臓も相応の味をしているはず。彼は下顎したあごから垂れるよだれをすすり、血の滴る心臓ゴチソウへと手を伸ばした。

 

『では、イタダキマス……』

 黒き王より伝えられたという食前の祈り「イタダキマス」、彼は神聖にして邪悪なる言葉を囁き、心臓をねじれた手で掴んだ。ぬるりとした感触といまだ残る温もりに、思わずのどがゴクリと鳴った。湧き上がる食欲に「もう我慢ならぬ」と口を開け、一気にかぶりつこうとした――その時である。

 

 少し離れた後方から何者かの声が聞こえてきた。


「ルド! モンキー発見! 大物! 大物!」


 彼は激怒した。


 食事とは、命を喰らい、力を取り込むための儀式である。そしてそれは、おごそかな雰囲気のなか、粛々と行われなければならない。儀式を邪魔する不届き者は、死刑確定、即執行、問答無用でサツガイである。


 よし、殺そ。


「食事中に騒ぐ奴は死刑」という「自分法典」第三条に基づき、彼は殺意を全開にして後ろを振り返った。


『まさか、あれは……』

 視界に捉えた「罪人」の姿に驚愕の声が漏れる。


 いわく、「生かしてこれを喰らう、マジ美味おいしからずや」


美食王ガストロノモス」曰く、それ即ち「至高の食材」である。


 そこにいたのは至高スプリーム、荒野で噂の美味しんぼ、「ニンゲンのコムスメ」であった。

 歓喜の雄叫びをあげて、彼は影狼シャトルーヴの心臓を地面に投げ捨てた。特別な心臓ゴチソウさえも至高カノジョの前では残飯と変わりないのだ。


『よくぞ引き合わせてくれた!』

 魔物と獣が跋扈ばっこする魔境――流血の地平サンテーレにおいて、魔物カレ人間カノジョ邂逅かいこうは奇跡と呼ぶに相応しいものだった。

 もし彼が人間であったなら、この出会いを「女神」に感謝しただろう。しかし彼は身に魔を宿す獣、女神の加護から除外された存在である。


 ならば俺は、あのお方に。


 魔物かれらに「美食」という概念をもたらした、裏切りの英雄「黒き王」、彼は敬愛する魔王に向けて感謝の言葉を呟いた。


 アリガトウゴザイマス――と。


 


 風になびく黒髪と柔らかそうな白肌が彼の食欲を嫌というほど刺激する。標的との距離は、歩幅にして二十ほどまで近づいていた。


 はやく食いたい……アイツを食って、犯して……殺したい!


 膨れ上がった食欲は、性欲や殺意と混じり合い、強烈な破壊衝動へと変化していく。魅惑の食材を前にして、彼の理性はすでに失われつつあった。


『もう、限界だ……』

 足よりも長い、ねじれた両手を地面について、赤き魔猿『螺旋獣ウォルテムスト』は、加速するための準備に入った。螺旋らせん状のしわが刻まれた巨大なネジのような両足に力を込めて、照準を「至高」の少女に合わせる。


風よウェントス螺旋の渦ウォルテム巻かれよア・ミキル……』

 つむがれた言葉に反応して、両足にまとった風が竜巻状に形を変える。ねじられ強化された筋肉は膨張し、赤銅色しゃくどういろの剛毛が針のように逆立った。一瞬の加速に限って言えば、赤い魔猿のスピードは、下降する「灰色鴉グレコロウス」にさえ匹敵する。


 我が糧となれ……「至高スプリーム」!


 雷鳴の如き咆哮とともに、魔力と筋肉の膨張は臨界点を突破した。四肢の力を解放した魔猿は赤き炎弾となって、少女に向かって突進する。


調理開始クッキングスタート……」

 耳障りな風切り音のなか、螺旋獣ウォルテムストは、鈴ののようなささやきを聞いた。少女の右手で刃がきらめき、その顔に不穏な笑みが浮かぶ。


 なにが……起きた。


 すれ違いざまに振りぬいた右腕は空を切り、勢いのまま転がった彼の身体は右足を失っていた。湧き上がる痛みと困惑のなか、彼は振り向き少女を見る。


『お前は……』

 それは、か弱きえさであったはずだ。力もなく知恵もない、荒野を彷徨さまよう弱者であったはずなのだ。


『誰だ、お前は!』

 螺旋獣ウォルテムストは叫んだ。


 見た目は変わらぬ。しかし、気配が違う。威圧が違う。それに、あのおぞましい魔力は……


 少女の変貌ぶりに、魔猿は怖れおののいた。


「調理続行、食材はモンキー……」 

 少女は捕食者の瞳で彼を見ている。右手に刃物を持ち、左手には切り落とした彼の右足を引きずっている。


 黒い瞳、黒い髪、青い……衣。


 彼の脳裏に幼き日に聞いたおとぎ話が思い浮かぶ。

 

『黒き王……』

 睥睨へいげいする絶対者を前にして、彼は命の終焉しゅうえんを悟った。

 

「これは包丁、お前は食材……」

 少女は呟き、刃を振りかざす。


『餌は……俺の方であったか』

 彼は、その刃光のなかに絶望の未来を見た。




「ルド! 赤モンキー、美味?」

 浮きそりに連結した荷板フロートボードの上には、本日の獲物「螺旋獣ウォルテムスト」の巨体が載っている。それを指さしカタコトの「フェツルム語」を話す少女は、何とも言えず愛くるしい。


「ああ、少し固いが味は良いぞ」

 少女の問いに笑顔で答え、ルドルフは先程の戦闘を思い返す。


 螺旋獣ウォルテムストの足を一太刀で切り落とすとは……


 戦闘時の魔猿の身体は、三重さんじゅうの鎧で守られている。

 竜巻のように渦巻く風の鎧、魔力をまとうと硬質化する赤い毛皮、そして名前の由来にもなったねじれた筋肉。並みの剣では歯が立たず、弱点である腹部を狙う以外、倒す術はないとさえ言われている。


 だがシーナは、一番硬い脚部を斬った。しかも、十分に魔力を高めた状態の螺旋獣ウォルテムストの足を……


 ルドルフは、少女の右手に握られた包丁を見る。

 業物わざものには違いないが、やいばは薄く、戦闘に耐えるような造りはしていない。調理刀という本来の用途を考えれば、それも当然であろう。


 恐るべきは得物えものではない、使い手の方だ。


「神崎流包丁術」、魔法のない世界から来た少女が使う、異形の戦闘調理殺法。その実態は、異界の言語と概念が流用された、紛れもない「魔法剣」。

 少女はそのわざを魔法とは知らずに体得していた。


「シーナ、『神崎流包丁術』とは、いつ頃からあるものなのだ?」


「んー……三百年くらい前」


「三百年前、『灰色の時代』か……」


「灰色の時代」―――それは、白き女神と黒き王が争ったとされる混沌の戦国時代。多くの新しい魔術が生み出された「現代魔法の黎明期」、そして古き魔術が使い手と共に消えていった「古代魔法の喪失期」でもある。


 ほとんど原型を留めていないが、彼女の使う魔法剣の術式は、ルドルフの知る古代魔法の特徴をいくつか備えていた。


「しかし、なぜ包丁なのだ……」

 独り言のような呟きに、浮き橇の後ろで寝転がっていた少女が答える。


「関係性の構築、それが真髄、包丁を持つ者、向けられる者、捕食者と非捕食者、覆せぬ真理、何人も抵抗不能、神でさえも……」


「神さえも……?」


「そう、カンザキは神さえ喰らう」

 そう言うと少女は、空に浮かぶ青き星「女神の宿星」に向かって手を伸ばした。




 次話予告。


 裏切り、それは甘美な罠。

 守るべき約束、尽きることなき欲望。

 選択を迫られた少女は、かつての英傑と同じ道をたどるのか。


 次話「日常少女」


 裏切りの大地に少女が舞う。

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